瞳の話
テーマ:ぱっつん、サングラス、人外、七夕
その時は突然訪れた。
「その長い前髪を切りなさいと何度言ったらわかるの!」
今日もヒステリックに叫ぶ指導担当の先生の標的になるまいと誰もが目を伏せていた朝のホームルーム、不幸にも一人のクラスメイトが目をつけられた。
いつものことだ、どうせあの田代が注意されているのだろう。そう思いつつも伏せていた目を上げ、なんとなく声の方を向いた俺は見てしまった。
「そのっ、これは……」
「問答無用です!このっ……!」
担任の須藤先生が制止するよりも早く、指導担当のババアはハサミを取り出して。
ぱっつん、と。
クラスメイトの前髪を切り落とした。
鮮明に覚えている。
舞い散る黒髪の奥に覗く、あの不思議な瞳を。
彼女の名前は滝沢色織。
あの場から逃走してからひと月、彼女は学校に来ていない。
「あ〜疲れた……」
バイトの帰り道、思わず声が出てしまう。
100円均一ショップなんてもはや時代遅れだとよく言われるが、客足が減ってこれかよと辟易するほど客が来る。特に今日は七夕だからか変な客が多かった。緑色の全身タイツを聞いてもいないのに七夕用なんだと言って買っていったやつなんかおそらく気が狂っていたんだろう。
なんとなく空の天の川らしきものを見てみる。明るい星が織姫と彦星だと言うが、正直区別がつかない。もしかしたらとしばらく眺めてみても、やはりどれも同じに見える。
「織姫と彦星ねぇ……毎年知りもしないやつらから祈られて疲れるだろうなぁ」
客のおばさんに短冊が売ってないからと理不尽にキレられたこと、そして一ヶ月前、学校で似たような光景を目にしたことを思い出した。
滝沢色織。彼女の、不思議な瞳。
何が不思議だった、とはうまく説明できない。
強いて言うなら違和感だ。
何かが決定的に違っている感覚。
違和感はこの一ヶ月俺を捕まえたまま、それこそヒステリックにフラッシュバックしては不愉快に心臓を引っかいた。
河原に最近整備された道をぼんやりと歩きながら、あの日の違和感に言葉を付け足していく。
それは満月を見上げた不安に似ていた。
それは深海への底知れぬ恐怖に似ていた。
それは遠くから人ごみを眺めた不愉快に似ていた。
それでいて、目が離せない何かだった。
「……ああ、くそ」
やっぱりダメだ。もう一度見たい。あの日見た光景の中にあった違和感。ヒステリックにキレる先生や、全てをやり過ごすしかない俺たちから決定的に浮いた存在。不純物。
織姫と彦星が不明なら、俺は確かな月に願おう。
どうか、どうかもう一度、あの輝きを確認させてくれ。
「あいつ、学校こねぇかなぁ……」
滝沢色織と仲は別によくなかった。むしろ、あの日にその名前を知ったくらいだ。クラスの中で特別浮いた存在ではなく、むしろ徹底的に目立たない彼女に、場違いだったのはあの瞳そのものだ。
「んっ……?」
ふと、向かいから歩いてくる人影に気がついた。
この時間にこっちへと歩いてくる人なんか今まで見たことがなかったから面食らったが、よく考えればどれもこれも偶然の産物だ。たまたま、今日は向こうから人が歩いてくるだけ。
背丈は俺より低い。夜なのにサングラスをかけている理由こそ不明だが、それも別に特別おかしなことではない。道は十分に広かったので、なんとなく左に寄ってすれ違った。
それでやりすごした。
はずだった。
ぞくっ。
『あの日』の違和感が、きた。
今、まさにすれ違った瞬間に。
脳みそがすべてをやり過ごすよりも早く、俺は振り返っていた。
「もしかしてお前、おい滝沢っ!」
すれ違った人影の背中へ叫ぶ。普通に考えて知らない人に突然叫ぶなんてあり得なかったが、脳みそはまだ身体の主導権を取り返せてなどいなかった。
「きゃっ……!」
人影は黙って走り去ろうとし、そのまま派手にぶっ転んだ。それを見届けてようやく、脳みそが働き出した。
「だっ、大丈夫か」
「やめろっ!見ないで!!」
悲痛の叫びだ。近寄ろうとする俺を制して、外れてしまったサングラスを探している。
近寄るな、そう言われたぐらいで止まる引力ではなかった。
俺は人影の背中側に落ちていたサングラスを拾って差し出した。彼女はそれをひったくるようにして奪い取ると、慌てて顔に押しつけ。
そこで、ぴたりと動きを止めた。
「そうだ。そのレンズの片方はお前が転んだときに外れちまった」
俺は告白する。
「滝沢だよな。お前が来なくなったあのホームルームのとき、俺は見てしまった。ずっと隠していたものなんだろ?だからこれはお願いだ」
沈黙。
「あの日以来ずっと頭の中に貼りついているんだ、お前の瞳が。何をするにもフラッシュバックして、だけどその正体がわからなくて、どうしても不愉快なんだ」
沈黙。
「頼む。俺を、その瞳で見てほしい」
滝沢はふぅ、と息を吐いた。
「誰にも言いふらさないと約束できるなら。言いふらしたら、どんな手段を使ってでも殺すよ」
冗談ではない。それはすぐにわかった。
「……もちろん」
俺が答えると、滝沢は何かを諦めたようにもう一度深く、息を吐いた。
そして、サングラスを外して、俺の方を見た。
「ーーー」
放心してしまっていた。
その光景に、その不協和に。
「せっかくだから、感想でも聞こうかな。滅多に見せるものじゃないし」
「……そうだな」
そこにあるべきでないものが、そこにある。
すべての不安、恐怖、不愉快を内包したもの。
だがそれは全くもって違わなかった。
安堵であり、落胆であり、愉快とすら言える。
俺はこの感覚を形容する単語を知らない。
だから端的に言えば、こうだった。
「石にされたかと思った」
「ふふっ」
滝沢は俺の答えを聞いて少しだけ笑った。
「じゃあ、私はこれで。学校にはまだ行くつもりないから」
「なら、次はいつ会える」
俺自身こんな言葉が口から出るとは思わなかったが、滝沢は少し面食らったようにしつつ、また笑った。
「もっと前髪が伸びたら。次はぱっつんにされないようにしなきゃね」
石像のように立ち尽くす俺を置いて、滝沢はどこかへ歩き出した。
そして声が聞こえなくなるほど離れる直前、振り返って言った。
「石にされただなんて、蛇に睨まれた心情としてはちょっとベタすぎるかもね」
暗闇に浮かび上がる彼女の細長い黄色の瞳孔は、まるで星のようだった。