休日は異世界居酒屋で貧乏人のドラゴンステーキを(下)
鉄板の上では肉の塊が焼ける芳ばしい香りが立ち昇っている。
さらにそこに飴色に炒めた玉ねぎとニンニク、そしてバターを溶かし込んだソースがタップリとかかけられる。とどめに細かく刻んだパセリが振りかけられるとそれは見事な厚切りステーキであった。牧野洋介はこの目にも美味しいステーキにすぐにでもかぶりつきたかった。
しかし、そうはできない葛藤が彼にはあった。
「ヒツジさん、食べないんですか? 美味しいですよ」
屈託のない笑顔で久米梨衣はステーキを口に放り込んでゆく。
「メリーさん……。美味しそうだね」
「はい、脂肪が少なくって、牛肉以上にガツンと食べ応えがありますよ。流石は『貧乏人のドラゴンステーキ』というだけのことはあります。これならホントのドラゴンはもっと美味しいかもしれませんね」
薄い唇についたソースをペロリ、と舌で舐めると彼女は心底美味しい、というような幸せそうな顔を見せた。彼女が幸福であることは洋介にとっても幸福ではあった。だが『貧乏人のドラゴンステーキ』がどこからやってきたか、を考えると彼は少し憂鬱になった。
洋介と梨衣の隣の座席では自慢の尻尾を失ったリザードマンが放心したように虚ろな目を彷徨わせている。彼の尻尾はいま、ステーキとして生まれ変わって洋介たちの前にある。
洋介は思う。
――どうしてこんなことになったのか?
四時間前。
洋介たちの姿は彼らの勤めるイカイ観光社にあった。
「なんで呑みに行こう、で会社なの?」
「えっ? それは異世界に行くからですよ。そうじゃないと私、未成年だから捕まるじゃないですか」
嫌だなぁ、と声を立てて笑う梨衣に洋介は埋めきれない問題をどこに埋めていいか必死で考えていた。
彼女は異世界で呑む、といった。それは何を? 当然お酒である。
十九歳である彼女は日本では未成年であり飲酒は違法である。しかし、異世界であればそのような法はない。だから合法である、というのが梨衣の言い分である。
だが、異世界に行くには問題がある。どうやって異世界に行くのか。それが問題であった。仕事中はイカイ観光社のバスが謎のチカラで異世界まで一瞬で移動してくれる。しかし、今日は休日。バスは駐車場にきっちりと停められ、専属の運転手もいない。
「休みの日だっていうのに出社とは勤勉だねー」
どこか気の抜けた声が響く。声のほうを見れば階上からイカイ観光社代表取締役である浮土長春がおりてくるところだった。いつもオールバックの髪はボサボサに乱れ、服装もシワのついたカッターではなくヨレヨレのジャージ姿である。浮土の有り様は完璧に中年男性の休日スタイルであった。
「社長、メリーさんが異世界に行きたいそうです」
「あ、そう。いいんじゃないの」
軽い様子で浮土は答えると、「んじゃ、俺はネトゲに万進するからあとよろしくね」、と言って階上へ戻ろうとする。
「あ、社長。異世界に行く車ってバス以外にあります?」
「ヒツジくん、別に異世界に行きたいんならそこの勝手口から行けばいいじゃない?」
にっと歯を見せて笑うと浮土は一階事務所の角にある勝手口を指さした。洋介が意味を理解できずに目をパチパチしていると梨衣の声がした。
「じゃ、社長。行ってきます」
そう言って彼女が勝手口を開ける。扉の向こうはどこからどう見ても彼らの住む世界とは異なる世界が広がっていた。石畳の道に石造りの建物がずらりと並んでいる。それは西欧の路地のようでもあったが、そこを行き交う人々は、人間だけではない。獣人と呼ぶのがふさわしい耳や尻尾、牙を残した人や明らかに骨しか残っていない骸骨が楽しげに歩いている。
「ああ、非日常。こんにちわ」
洋介は思う。ドアを開けるだけで異世界に行けるならどうしていつもはバス移動なのか。
喉まででかかったこの疑問を彼は言わなかった。それは問いへの答えが容易に想像できたからだった。
「バスに乗ったほうが旅行っぽいからね」
浮土は洋介の心を読んだかのような言葉を残してのそのそと二階へと登っていった。洋介はその姿を黙って見送った。
「ヒツジさん! 早く行きましょう!」
「わかった。すぐに行くよ」
梨衣に急かされて彼は勝手口をくぐった。戸口の向こうはそれなりに大きな街らしく生地を売る商店やパンを焼く白い煙、天秤棒をかついで魚を売る男の姿が見える。大通りの方では人種や種族を問わない雑多な人々がすれ違っている。
広い通路であるにかかわらず人と人の肩はすれあい、馬車や荷車の轂が打ち合うことも頻繁であった。ツアーで行く場所は古城や平原であったため洋介は異世界にもこういう大都市があるのか、と驚いた。
「すごいでしょ。ここはアカソーって言うんです。社長曰く『異世界でもっとも自由な都市』だそうです」
「……すごい。まるでRPGだよ」
「そんなこと言う、と怒られますよ。ゲームじゃねぇ現実だ! って」
確かにそうなのだ。洋介のような人間からすればこの異世界はゲームの中のような世界だ。魔王がいて勇者もいる。獣人やドラゴンといった架空の存在と思っていた生物もここでは日常の延長線のうえにいるのだ。逆に言えば、洋介の世界は彼らから見ればおとぎ話の世界なのかもしれない。
電話によって遠くの人と会話をし、ハウス栽培によって季節に関係なく野菜を得ることが出来る。そう考えればお互いに空想の世界に見えるのかもしれない。それはまるで蜃気楼の街だ、と彼は思う。
「ああ、そうだね。ごめんごめん」
「私に謝っても仕方ないですよ。でも、まぁ立ち話もなんですからさっそく店に入りましょう!」
梨衣は楽しげに笑うと大通りに面した酒場に入った。
酒場ではすでに四、五組が酒を片手に飲み食いを始めている。人間と亜人がちょうど半分半分、という割合だった。洋介は彼らが種族の違いこそあれ同じ場で酒を飲む間柄であることに驚いた。確かにここは浮土の言うとおり『異世界でもっとも自由な都市』なのだろう。
「へぇ、いらっしゃいまし。異国のお方とお見受けしましたがご予算は?」
梨衣と洋介を値踏みするような表情で酒場の主人が近づいてくる。梨衣が財布から日本では見かけない形の銀貨を手渡すと主人ははちきれんばかりの笑顔を見せた。
「こいつぁ、剛毅なことで。どこかのお嬢様でございましたかな」
「いえいえ、しがないバスガイドです。とりあえず、冷たいお酒と食べ物をおまかせで」
主人はバスガイドが何か分からない、という顔を一瞬見せたが大金を払ってくれる梨衣の心証を悪くしたくなかっただろう。すぐに顔に笑顔をはりつけて「少々、お待ちを!」、と言って店の奥へ走って言った。
しばらくすると若い女がふたりの前に陶器でできたジョッキをドン、と二つ置いた。若い給仕はじっと梨衣の髪を見ている。彼女の真っ青な髪はこの異世界でも珍しいらしい。少なくともこの店にも街にも青髪はいなかった。いるのは黒や茶、金や赤という髪で、ゲームなどでよく見る紫や青、緑という色の者はいない。
ジョッキをみると中には少し濁った琥珀色の液体がたっぷりと注がれている。ただ残念なことにあまり冷えているようには見えない。洋介は少し不満を覚えたが、冷蔵庫がない異世界では冷えたビールとはいかないのだ、と気づいた。
「じゃ、乾杯しようか?」
洋介がジョッキを握る。
「あ、お客さん。ちょっと待ってください。すぐ冷やすんで!」
給仕は慌てた顔で洋介を制止すると、腰の付けた前掛けから金属製の棒を取り出した。棒には何らかの文字や記号が書かれているが洋介には見覚えのないものだった。少し緊張した面持ちで給仕は棒を強く握り締める。棒の文字が青白く光ると周囲から冷気が生まれた。
冷気を放つ棒で給仕はジョッキの中をクルクルと回す。ジョッキの周りに小さな水滴が生まれる。こうなると洋介にもこの酒がドンドンと美味くなっていくのがわかった。
「はいどうぞ。うちの名物冷やし麦酒になります。ぬるくなったらそれ使ってください」
「便利なもんだね」
洋介が給仕のもっている棒を褒めると彼女は照れたように笑って「ホントに。戦争もなくなってこうこう魔道具がいっぱいでるから、魔法使いじゃない私たちでも魔法みたいなことができるんですよね」、と胸を張ってみせた。
「じゃ、お疲れ様」
魔法で冷えたジョッキを掴むと洋介は梨衣に向けた。
「お疲れ様でーす!」
陶器でできたジョッキが触れ合うとガラスとは違う柔らかな音が鳴った。
麦酒は日本で売っているビールよりも少し酸っぱい。そして鼻に抜ける炭酸をほとんど感じない。日本で売られている多くのビールがエールやラガーと、呼ばれるのたいして異世界の麦酒はランビック、と呼ばれるベルギーのビールによく似ていた。
これは酵母の違いだと言われているが洋介にそれ以上の知識はない。ただ、キンキンに冷えた麦酒は酸味も合わせて夏の飲み物としてはさっぱりして最高である、ことだけは確かであった。
「……くぅ、染みるな」
「ヒツジさん、おじさんみたいですよ」
からかうような顔で梨衣が言う。
「まぁ、少なくともメリーさんよりは年上だからね。あ、そうだ。お金これでたりる?」
洋介は財布から一万円札を取り出すと梨衣に差し出した。年下の女性に飲み代を支払わせる、というのは年上の男性としてどうにも格好がつかない。梨衣は一万円を掴むと「なら遠慮なく」、と言って懐へ入れた。
「さぁ、クイズです。銀貨一枚は何円でしょうか?」
先ほどの主人の反応を見れば、銀貨は酒場で使うにはいささか大金すぎるようだった。
「五千円!」
「ブッブー。違います。正解は一万円です。と、いうわけで今日はごちそうさまです!」
梨衣は大袈裟に頭を下げてみせる。洋介は割り勘なら五千円でよかったと一瞬考えたが、せこいことを言うのも無粋だと思い。高い勉強代だと思うことにした。
「ちなみに金貨は?」
「金貨は銀貨八枚で一枚ですから八万円ですね。だから私とヒツジさんがこっち基準で給料を貰ったら金貨二枚と銀貨数枚。おまけに銅貨が五十枚くらいつく感じですね」
「はぁ、異世界でもやっぱりお金がないとどうにもならんよなぁ」
洋介はそう言って一気にジョッキを煽る。
爽やかな酸味とホップの苦味が喉に流れ込む。酒ばかり飲んでいるとどうしても口寂しくなる。なんてことを考えていると先ほどの給仕が野菜の酢漬けと燻製ニシン。たっぷりの豆を煮込んだシチューを運んできた。
洋介はついでに麦酒のおかわりを頼むと燻製ニシンにフォークを突き立てた。
ニシンのきつすぎる塩味が口の中に広がる。そこへぬるい麦酒が届いたので洋介は先ほどの冷気を出すという魔道具を使って麦酒をかき回す。ドライアイスを水につけたときのような冷気が起こる。しっかりと冷えた麦酒を飲むと、さっぱりした口に塩気のモノが欲しくなる。そこからは無限ループの始まりである。ニシン、麦酒、ニシン、と洋介がステップを踏んでいると梨衣が少し残念そうな声で言った。
「普通ですね。なんか魔道具以外、異世界という感じがしません。入社したとき歓迎会がここだったんですけど、そのときはドラゴン鍋とかユニコーンのお刺身、とかでたんだけどなぁ」
彼女が言うには血のスープと呼ばれる豚の肝臓や肺、腰肉をドロドロになるまで煮込み。最後にたっぷりの血を入れて小麦粉やパセリ、クミン、といったスパイスで味や香りをととのえたスープに薄切りにしたドラゴンのもも肉を入れて作るのがドラゴン鍋らしい。
ユニコーンのお刺身は新鮮なものを血抜きして、岩塩とオリーブオイルをかけて食べるという。人によってはブルーベリーで作ったソースやイチジクの白皮をチーズと練り合わせたものを塗って食べるという。
「そういう特別な料理はなさそうだけどね」
周囲の卓上を盗み見てみるが特に変わった料理は並んでいない。
せいぜいが、リザードマン達が集まる机に羊肉が山盛りのなっているくらいである。彼らは鋭い牙を持つ口を大きく開けて美味そうに羊肉を頬張る。口元に肉汁が流れると長く赤い舌がチロチロ、と伸びて舐めるとっている。洋介は器用なものだと感心した。
「ヒツジさんだと共食いですね」、と梨衣が人の悪い笑みを浮かべる。
「メリーさん、悪酔いしてない?」
「全然ですよ! おかわりお願いします」
洋介をじっと見つめながら梨衣はさらに麦酒を頼んだ。わずかに上気した彼女の目はすこしトロン、としており少し危なさを感じるものだった。
「飲み過ぎはダメだからね、メリーさん」
「なんです? 心配してくれるんですか?」
「なに? 俺はそんなに冷たい人間だと」
「ええ、ヒツジさんは可憐で美しい同僚がおばちゃんに絡まれていても助けてくれない冷血漢じゃないですか」
どうやら梨衣は昼間のことをまだ根に持っているらしい。洋介は少しだけため息をついた。
「ドラゴンに襲われたときは助けに行っただろ?」
「あれは完全にヒツジさんが巻き込まれに来た感じじゃないですか? 屠龍之技を持つ私がドラゴンに負けるわけないのに」
そう言って梨衣は新たに運ばれてきた麦酒をごくごくと喉に流し込んだ。
「それはあのときはメリーさんが強いなんて知らなかったからね。いまなら何もせずに避難するさ」
「……やっぱり冷血漢じゃないですか? 私は非難しますよ。ヒツジさんが避難なんて!」
けらけらと声を立てて笑い出す梨衣は笑いのスイッチが入ってしまったらしい。洋介はとんだ災難だと心の中で毒ついた。
「なら、どうしろというのか」
「待ってて下さいよ。マザー・グースも言ってるじゃないですか」
洋介は歌い出す梨衣を必死に止める。酒場とは言え歌いだすのは流石にまわりに迷惑がかかりすぎる。
「ほら、これでも食べて我慢して」
「やーですよ。肉がいいです。肉が食べたいですよね。ヒツジさん!」
梨衣は肉食の獣を彷彿とさせるような爛々とした大きな瞳で洋介に迫った。こういうとき、草食動物というのはどうして動けなくなるのだろうか。本能がそうさせるのかそれとも別の要因か。
「あっ、注文ですか?」
給仕が来てくれたので、洋介は解放された。少しほっとする反面、なにかもったいないことをしたのではないか、と思ってしまうあたり自分も酔っていると洋介は自覚した。
「ドラゴンないですか?」
梨衣がそう言った瞬間であった。隣の席で椅子が倒れる激しい音が響いた。
隣で飲んでいたリザードマンの集団が悪ふざけでも始めたのかと洋介は考えたが、そういう様子でもない。ただ、リーダー格と思われるリザードマンが太い尻尾を垂直に立ててこちらを威嚇しているように見えた。
「おめぇさん方、いまドラゴンを食う、と言ったのかい?」
ギョロリとした爬虫類特有の縦長の瞳孔が無機質に梨衣のほうを向いている。
「食べますよ。ニシンと豆だけじゃ肉がたりません」
「……ほう、俺らリザードマンがドラゴンを信仰してるのを知ってか知らずかしらねぇがいい度胸だ! 神聖なドラゴンを食べようなんて罰当たり俺は許さねぇぞ!」
いきり立っていたリザードマンの尻尾が激しく動く。横薙ぎに振り回された尻尾によって洋介たちのテーブルに置かれていた料理や酒が吹き飛ぶ。地面に落ちたジョッキが割れる。
「お、お客様」
給仕がなだめようとするが、すぐに駆けつけた店主によって後ろに下がらされた。どうやら店主は喧嘩を止める気はないらしい。
「どうしてくれるんですか? お酒も料理もぐちゃぐちゃじゃないですか。これは弁償ものですよ」
赤ら顔の梨衣が座った目でリザードマンを睨みつける。
「お嬢ちゃん、俺は今でこそ大工だが昔は腕利きの傭兵だったんだ。あんたみたいな人間の牝なんざ一発で終わりだ」
「腕利きの傭兵だか横柄だか知りませんけど、うちには可愛い女の子を見捨てる冷血漢がいるんですよ。トカゲ男なんて一発ですよ」
梨衣は洋介を指差すと「いっちょやったりましょう」と両手を胸もとでぐっと握ってみせた。
「へぇ、兄さんが俺の相手をするってか?」
リザードマンは顔を洋介の顔のすぐそばまで近づけると赤い下をぺろりと伸ばした。
「え、俺? メリーさん? なにをいってるの?」
「ヒツジさん、ファイト! 天下御免の冷血漢力を見せてやってください!」
「いや、こういうときこそメリーさんの無駄技能『屠龍之技』の出番でしょ?」
ひきつった顔で洋介が言うと梨衣は両手を肩口で広げるとやれやれという風に首を振った。そしてリザードマンを指差して言った。
「私は龍専門。あれは?」
「リザードマン」
「リザードは日本語で?」
「トカゲ」
「つまり?」
「ドラゴンとトカゲは」
「別物デース」
屠龍之技は長い時間、多くの金を費やして龍を殺す術を会得したが肝心の龍がいないために無駄となった技のことである。つまり、役に立たない技能のことである。そして、いままさにその技は無駄であることを証明したのである。
「嘘だろ……」
洋介はどっと冷や汗が背中を流れるのを感じた。
スポーツは下手であったわけではない。だが、得意であったわけでもない。喧嘩もろくにしたことはない。自分のスペックを考えると洋介は勝てる気がしなかった。
「もういいかい? 二度とドラゴンを食いたいなんて言えないように胃袋を小さく潰してやるよ」
一方的な有利を悟ってリザードマンは腰に下げたナイフを使う気はないらしい。たが硬いウロコの生えた腕に長くて鋭い爪の生えた手はそれだけで凶器であるように見えた。洋介は武器を探すが武器になりそうなものは見当たらない。
あるのは机の上に唯一残った冷気を出すだけの魔道具だけである。
ないよりもまし。それくらいの気持ちで洋介が魔道具を掴む、とあたりでは笑い声が起きた。
「兄ちゃん、そんな冷気棒で戦うのかい!」
「リザードマン! 手加減してやれよ!」
「おい、賭けだ賭け! どっちに賭ける!」
酒場の中は一気にリザードマン対人間の賭博場へと姿を変えた。店の中で飲んでいた人々は空いていた二枚の料理皿に「俺はリザードマン!」とか「なら大穴狙いだ。兄ちゃん頑張っとくれよ!」といって銅貨を放り込んでゆく。
「じゃ、私はヒツジさんに銀貨一枚!」
梨衣が皿に銀貨を入れると酒場のなかはさらに盛り上がった。銀貨一枚あれば酒場の飲み代も払ってお釣りが来るのである。
「じゃ始めようか」
リザードマンはそう言うと目を細めるとびっしりと鱗の生えた腕を大きく振り回した。
洋介が慌てて魔道具を握り締めると真っ白な冷気が噴出した。
「うわぁ」
「なっ」
冷気に驚いたのはリザードマンも洋介も同じだった。本来、飲み物を冷やすための道具である。人に向けることも向けられることもそうあることではない。意外にも強い冷気が出ることが分かりリザードマンは洋介との距離を取った。
洋介はといえば、このまま冷気を出し続ければなんとかなるのではないか、という甘い考えのもと冷気を出し続けた。その姿を見た梨衣はまるで家庭用殺虫剤を噴出させ続けているようにしか見えなかった。お世辞にも勇敢に戦う姿というには程遠い。
冷気を吹きつけられていたリザードマンも同じ攻撃が続くと、魔道具に見た目ほど威力がないことに気付いた。そのころには酒場の中は冷気で真っ白になっていた。ドライアイスを大量にぶちまけたような白煙はお互いの姿を曖昧にするには十分であった。
「どこだ! 人間でてこい!」
リザードマンが声を荒らげて拳を振り回しているとぬるい液体が飛んできた。それは葡萄酒や麦酒といった酒場で提供されている酒であった。野次馬の連中が見えなくなった喧嘩に苛立って酒をぶちまけたのか、とリザードマンが思ったときだった。
背後から再び冷気が浴びせられた。
「そこか! そんなもの慣れればどうってことはない!」
振り返った彼は、歯を食いしばって冷気に耐えようとした。だが、再び彼に襲ってきた冷気は先ほどのものよりもはるかに強烈なものであった。白煙の向こうでは洋介が酒場のジョッキというジョッキから抜き取った何本もの魔道具が握り締められていた。
「トカゲだったら冬眠してろ!」
まとめられた冷気はリザードマンの身体を濡らしていた酒を凍らせた。鱗の隙間や服のなかで凍りついたそれはどんどんと彼の体温を奪った。世界は違っても爬虫類は爬虫類である。変温動物であるリザードマンは思い通りに身体が動かせなくなった。
ぎこちない動きしかできなくなったリザードマンの口に止めの冷気を流し込んで洋介は勝利の雄叫びをあげた。しかし、周囲の反応は冷気だけに冷ややかなものであった。
「せこい」
「俺の酒をぶちまけやがって」
「服に酒がかかってるんだけど」
酒場の客たちは口々に文句を言うと洋介に詰め寄る。それはさらなる喧嘩を生み出しそうな勢いであった。
「よし、私がおごろう! さっきの掛金全部で呑もう!」
梨衣が言うと客たちは、
「気風がいいね、お嬢ちゃん」
「よっ、お大臣。金の使い方を知ってる!」
「よし、酒だ! 酒持ってきてくれや!」
と、笑った。騒ぐ口実が欲しいのは異世界でも日本でも同じなのだ。
そんななかでひとり釈然としないのは洋介であった。なぜか喧嘩に巻き込まれ、買ったというのに褒められることもない。一体何のために戦ったのか。彼は世の無常さを痛感した。
「ヒツジさん、何しょぼくれた顔してるんです?」
梨衣が尋ねると洋介は能面のような無表情で答えた。
「いや、盛者必衰を噛み締めていたんだ」
「それはそれは紗羅双樹の金が聞こえそうなことでなによりです。まぁ、金は消えてしまいそうですけど」
あたりを見ればリザードマンの連れ達も酒を頼んでいた。どうやらこれはこれで終いになりそうな雰囲気である。洋介はホッとするような釈然としない気持ちをどこに向けようかと考えていると梨衣が言った。
「じゃ、ドラゴンを食べましょう!」
彼女はまだ諦めていなかった。しかし、酒場の主人はドラゴンを食べることに熱意を見せる彼女に現実を突きつける。
「ドラゴンなんて今日は置いてないよ。あっても高いよ」
「……そこをなんとか!」
「いや、ないものはないし」
そう言って主人は、地面に伸びたままになっているリザードマンに目線を向けた。そして「まぁでも貧乏人のドラゴンステーキなら用意できそうだよ」、と人の悪い笑みを見せるとリザードマンの連れになにやら言葉をかけると大笑いが響いた。
「そりゃー仕方ねぇ」
「また生えてくるし、いいだろ」
「元傭兵なんて見栄まで貼って負けたんだ」
と、彼らは伸びたままのリザードマンを生暖かい目でみると主人に「やって」、と言った。
トカゲは敵に襲われたりして身に危険を感じると尻尾を切り捨てる。それは「トカゲの尻尾きり」と言われる自切という働きである。なくなった尻尾は五十日ほどでまた生えてくる。つまり、彼の立派な尻尾は切断してもまた生えてくるのである。
酒場の主人は豪快にリザードマンから切り取った尻尾はいま、アツアツのステーキとなって洋介の目の前にある。ああ、これを勝利の味として口にするべきか。どうするべきか。洋介の答えはまだ出ない。