休日は異世界居酒屋で貧乏人のドラゴンステーキを(上)
休日というのは、人を癒すものでもあるが堕落させるものでもある。
牧野洋介は人様に趣味だと胸を張れるものがない。無職の期間にどっぷりとはまりこんでいたネットゲームも最近ではほとんどログインしていない。かと言ってほかに熱中することもない。結果として彼の休日は灰色の休日となる。
しかし、その日は何かが違っていた。
洋介がそれに気づいたのは二度寝からさらなる高みへ向かい三度寝に突入しようというときだった。
彼のスマートフォンが軽い電子音を鳴らした。
まどろんだ視界で画面を見れば簡素な文面が映し出されている。
『私、メリー。いま四之山駅にいるの』
寝起きの頭で彼は同僚である久米梨衣が四之山駅にいるのだと理解した。しかし、彼の灰色の脳はそれ以上の飛躍を見せずに睡魔に絡め取られて落ちていった。それを見越してかスマートフォンが鳴る。
『私、メリー。まだ四之山駅にいるの』
四之山駅は洋介の住むアパートから自転車で五分の距離にある。歩けば十五分くらいだろう。洋介はそういえば莉衣が休日は百貨店に出かける、と言っていたのを思い出した。四之山駅の隣には新急百貨店がある。きっと彼女はそこにいるに違いない。
百貨店といえば、妹がまだこちらにいるときによく買い物に付き合わされた覚えがある。
「どう? 似合う?」
「やっぱりこっちの色がいいかな?」
「でも、こっちもいいかも」
こちらの意見を求める割に一切反映されない理不尽な買い物は一着の服を買うだけで小一時間はかかる。帰路に着く頃には洋介は疲労困憊になった。おかげで洋介はいまでも百貨店ときくとついつい逃げ出したくなる。
洋介はスマートフォンの音量をさげると布団をかぶり直した。
そのときだった。またスマートフォンが揺れた。
『私、メリー。いま郵便局の前にいるの』
先程より洋介のアパートに近づいていた。彼は窓の外に目線を向ける。屋外ではアスファルトを焼くような強烈な日差しが照りつけている。莉衣はこんな暑い日に郵便局に用事があるのかと思えば可哀想になる。洋介はそう思いながら寝床から手を伸ばして冷房の風量を上げた。
彼のアパートは西に窓があるため正午を過ぎると一気に室温が上がるのである。
暑さでせっかくの眠りを妨げられてはたまらない。
『私、メリー。会社の前にいるの』
梨衣は郵便局ではなく会社に用事があったのか、と洋介は納得した。彼らの働くイカイ観光社は四之山駅から徒歩五分の位置に駐車場兼事務所がある。ちなみに事務所の二階は社長である浮土長春が住んでいるため休日でも会社への出入りはできる。
梨衣のことだから更衣室になにか忘れ物をしたのだろう。洋介はうんうん、と頷くと目を閉じる。
『私、メリー。いま四乃山天満宮の前にいるの』
繰り返し震える携帯を憎々しい気持ちで洋介は見つめる。四之山天満宮はもう彼の暮らすアパートまで五分とかからない位置である。壁にかけられた時計をみれば時刻は十四時を少し回ったころだった。一日のうちもっとも気温が高い時間である。洋介は思った。
もしかすると梨衣は、くたびれたおじさんのような休日を過ごそうとする洋介を外に出そうと考えているのではないか。彼は背筋を冷たいものを走るのを感じた。
――家から出たくない。このままエアコンで快適な温度に調整された空間で過ごしたい。
このとき彼は鬼になった。そして、梨衣を無視することを決めた。
『私、メリー。あなたのアパートの前にいるの』
洋介はそっと窓に近づくと階下を眺める。そこには真っ青な髪の女はいない。もし、いればそれは間違いなく梨衣である。洋介は快晴の空のように突き抜けた人工的な青髪の持ち主をほかに知らない。
青髪を見ればメリーさんがいると思え。
このとき彼は、会社の連絡網に安易に人の住所を載せていた社長を憎んだ。
――個人情報の漏洩だ。いつか厳重な抗議をしてやろう。
洋介はそう心に誓い。部屋の真ん中で息を潜める。握り締めた携帯から震えが伝わる。
そっと彼がモニターを覗く。
『私、メリー。あなたの部屋の前にいるの』
彼は無駄だとは分かっていても息をとめる。静寂が室内をみたす。
部屋の扉は一ミリたりとも動かず。そこに誰かがいるような気配も感じられない。
一応、背後を振り向いてみるが梨衣の姿はない。
――もしかして、からかわれているだけではないのか。本当は、梨衣も百貨店の喫茶店あたりにいて暇つぶしがてらに連絡しているだけではないのか。
洋介は慎重に立ち上がる。足をひそませて玄関に向かうとドアスコープにそっと顔を近づける。
部屋の前にいるならこの姿が見えるに違いない。
覗き穴を覗く。
――真っ暗だ。何も見えない。
ドアスコープにいたずらでもされているのか、と思っていると手にした携帯が突然動いた。洋介は「わっ」、と声を出しそうになったが必死で耐えた。口を真横に結んで携帯をみるとゴシックの無個性な文字が浮かんでいた。
『ヒツジさん、見つけた』
洋介は慌ててドアスコープに目を当てる。だがそこには暗闇が広がっているだけに見えた。
一秒、二秒、と覗いていると暗闇の中で何かが動いているような気がした。何が動いているのかと凝視していると暗闇が晴れた。光が差す。そして、梨衣がドアスコープの反対側から目を離す姿が見えた。
洋介がずっと闇だと思っていたのは梨衣の瞳だった。
驚きで二歩下がると床がぎぃっと鈍い音を鳴らした。
『ヒツジさん、開けてください』
ドン、と扉が叩かれる。
洋介は深く息を吸い込むと短い文を打ち込んだ。
『いないよ』
『嘘、いま扉の前にいますよね』
『いないいない。気のせいだよ』
そんな携帯越しのやり取りをしていると、扉が激しく叩かれる。
築二十年の老朽アパートではこの手の振動はよく響く。
『開けてください』
『……』
『開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。開けてください。』
いよいよ狂気じみてきたので洋介が扉を開けようかと思ったときだった。
「もー! うるさいんだよ。なにか知らないけど、ドンドンドタドタよそでやっとくれ!」
ダミ声がアパートの通路に響きわたった。声の主を洋介は知っていた。彼の部屋の正面――二〇五号室の住民である。名前は知らないがパンチパーマに小太りのその姿は誰しもが思い浮かべる『おばちゃん』のイメージをまとめたと言ってよい。
二〇五号室のおばちゃんの前には流石の竜殺しも形無しらしく素直に頭を下げている。
「すいません。うるさくする気はなかったんですけど。ヒツジさんが出てきてくれなくって」
「言い訳はいいんだよ! このクソ暑いのにドンドンしなきゃアタシだって怒りゃしないのよ!」
梨衣が繰り返し頭を下げると二〇五号室のおばちゃんは鼻を「ふん!」、と鳴らして部屋の中へ帰っていった。梨衣はその姿を見送ると黙ってドアスコープの方に怒りの視線を向けた。
「……うん、メリーさん、なんていうか。ごめん」
洋介が扉を開けると梨衣はつかつかと部屋に入ると素早い動きで携帯に何かを入力した。
『私、メリー。怖かった』
どうやら流石の都市伝説もおばちゃんには敵わないらしい。
「ヒツジさんは人非人です。か弱い先輩がおばちゃんに絡まれているんですから助けてくださいよ!」
「それについては謝るけど、メリーさんも悪いよね」
「呼んでも部屋から出てこない人が悪いと思います!」
それを言うなら休日に唐突にやってくる方もなかなか悪いのではないか。洋介はそう抗議しようかと思ったが、おばちゃんのなかのおばちゃんにやられた彼女にそれ以上塩を塗りこむ気になれなかった。仕方なくすべての不満はため息に込められることになった。
「なんです。なんでため息をつくんですか?」
「いや、どうにも最近は異世界やら魔王やら非日常に会いすぎて自分の感覚がおかしくなっていることに今更気づいただけだよ」
「まぁ、今更ですよね。ほぼ毎日異世界行きですし」
梨衣が微笑む。
「いや、今日の非日常はメリーさんだよ」
洋介が言うと梨衣は自分の顔に人差し指を向けて小首をかしげた。「なにが?」とばかりに目を見開く彼女に彼は言った。
「普通、独身男性の家に年頃の女性はズカズカ入ってこない。非日常事案だよ」
「……あ、ああ」
梨衣もようやく意味を理解したらしく、頭を両手で押さえると声にならない声を上げた。青い髪の隙間から見える耳が赤くなっていることから相当に恥ずかしかったらしい。小さい声で「べ、べつにそ、そんな気があってきたわけじゃない。きたわけじゃない」、と呟くがあとの祭りであった。
「まぁ、そういうわけでメリーさん。お疲れ様」
そう言って洋介は梨衣を室外へ追い出そうとした。
「いえ、そうはいきません。そうは問屋が卸してくれません、とも」
洋介は内心で舌打ちをする。
「ならなにをおろしてくれるんだい? 大根かそれとも魚?」
「約束したじゃないですか? 呑みに行きましょう!」
未成年である梨衣とお酒を飲む。
それは、九割超で違法である。飲ませた大人が罰せられる。
せっかく再就職した身で逮捕。解雇、というパターンは回避したいところであった。
「メリーさんが大人になったらね。じゃ、バイバイ」
洋介は梨衣の背中を押して玄関の外へ押し出そうとする。
「だ、大丈夫大丈夫ですって! 私、大人ですから!」
洋介は思う。
なにかとんでもない告白を受けたのはないか。
考えるべきではないと思いつつ梨衣の頭から足元までを眺める。胸もとこそ多少物足りなさを感じるもののほっそりした腰にすっきりと伸びた脚は申し分ない。そこまで考えて洋介は論点がそこないことに気づいて頭を振る。
「……メリーさん、君は経験的には大人かもしれないけど、年齢的には大人じゃないんだ」
慌てる洋介を見て梨衣も気づくところがあったらしくまた声にならない声を出した彼女は「そうじゃないそうじゃないのに」、と言った。
「……セクハラ案件です。法廷で決着をつけましょう」
梨衣はすわった目で洋介を睨みつける。
「いや、いまの俺悪くないよね。メリーさんが自爆しただけだよね」
「自爆でもなんでもヒツジさんが悪いんです。もう生贄になると思って縛についてください。新品を中古扱いとか最低です。そうじゃなくても最低です」
どうして自分が責められるのか、洋介は世の理不尽を憎んだ。
「ああ、ままならない」
「ヒツジさん、日本では飲酒は二十歳からですけど海外には十八歳からオッケーという国がありますよね?」
世界にはいろいろな国がある。日本では飲酒は二十歳からであるが、オランダやドイツではスピリッツをのぞいたビールやワインは十六歳から飲むことができる。
「あるけど……。まさか、海外なら大人扱いしてくれる、という言い訳をしようと?」
「惜しいですけど、少し違います。海外ではなく異世界です。異世界まで呑みに行きましょう!」