旅は道づれ世は魔王と勇者ばかり(下)
勇者にウォシュレット直撃事件から一晩が明けた。
幸いにも老人は夜が早いので夕食のあと牧野洋介や久米梨衣が呼び出されることなく朝を迎えた。隣室で勇者が文明の利器に葬られそうになったことなど知らない魔王は昨日と変わらない幼さと憂いとその身にまとっていた。
彼女にとってこの世界はなにかの役にたつのだろうか。洋介はその疑問に対する答えを出せずにいた。
「さぁ、ヒツジさん! 今日もお仕事ですよ。そして、今日が終わればお休みです!」
目の前に迫った休日に目を輝かせる梨衣のテンションは高い。確かにここ二週間は休みのない日々が続いていた。添乗員一名に乗務員一名というギリギリの配置ではどうしても限界がある。
「メリーさんは休みはどうするの?」
「まずは寝ますね。昼過ぎまでたっぷり睡眠を満喫して、午後からは久々に百貨店に出かけてウィンドショッピングです。そういうヒツジさんはどうする気です?」
どうする、と聞かれて洋介は回答に困った。イカイ観光社に就職するまでは廃人同然にネットゲームに向かい合っていたが、毎日ログインできなくなってからは足が遠のいている。かと言って特に趣味らしい趣味があるわけでもない。
「寝て。洗濯物干して。それくらいかな」
「ヒツジさん……、くたびれたおじさんみたいな休日になってますよ」
「そうは言ってもなぁ」
「そんなのだと彼女もできませんよ」
梨衣が意地悪げに微笑む。
「余計なお世話だよ。そろそろ時間だ。チェックアウトしよう」
洋介は話を打ち切るように言うとロビーで待っていた乗客たちと合流した。老人クラブとかした勇者一行は昨日の騒ぎなど忘れたかのように笑っている。反対に魔王一行はなにやらふさぎ込んだ雰囲気があった。
「なにかありましたか?」
洋介の問いかけに魔王は「何もない。大丈夫」とだけ答えると黙った。
そばにいた付き人に目で訴えてみるが、彼は首を左右に振るだけであった。
「さぁ、今日はでとっくすするぞ」
「あと三十年は生きなきゃいけないからのう」
「殺しても死なないようなやつらがよういうわい」
勇者たちは年甲斐もなくはしゃいでいる。
旅の終わりは彼ら念願のスパである。岩盤浴に垢擦り、天然温泉。健康のためのすべてがそこには詰まっている。洋介の気を重くさせるのはスパは男女別であるため彼がこの老人たちの面倒を見なければならないことである。
かと言って女湯側に行くわけにはいかない。
それこそ大問題になってしまう。
「はい、では皆さんお待ちかねのスパへ向かいますよ!」
「なんじゃ、お主。しけたツラをしておるのー」
ぷっくりと出た腹を揺らしながら勇者が言う。往年はきっとスマートであったであろう彼も六十年という月日には勝てなかったらしく年齢相応の老人となっている。きっと町で見かけてもこの人が魔王を倒した勇者だとは誰も思わないだろう。
「いえ、なんというか」
「どうせ、あの魔王のことじゃろう?」
勇者は数本なくなった歯を見せて笑う。洋介は図星を突かれて驚いていた。この老人がそんなことに気づくような繊細さがあるとは思ってもいなかったのである。
「ええ、なんというか……」
「若いの。立ち話もなんじゃ。岩盤浴に付き合え」
勇者はなかば強引に洋介を岩盤浴に向かわせる。岩盤浴ではすでにほかの二人が横になって汗を流していた。勇者に促されるまま洋介も横になるとじんわりと熱が伝わってくる。ちょうど暑いと暖かいのあいだ。そんな温さだった。
「お前さんは、わしが誰か知っとるかね?」
「知ってますよ。勇者でしょ? 皆、あなたのことをそう呼んでいます」
「そうじゃな。わしこそは魔王を倒した勇者じゃ。じゃがな。わしにも戦士にも僧侶にも名前はあったんじゃよ」
そう言われて洋介ははっとした。勇者は名前ではない。ただの役職あるいは肩書きだ。
「では、どうして名前で呼び合わないのですか?」
「それは難しい質問じゃな。……わしらは幸か不幸か女神に選ばれた。わしは勇者。こいつは戦士。あいつは僧侶。嫌がろうが何を言おうが選ばれてしまったのじゃ」
「……嫌だったのですか?」
今日からお前は勇者だ、と言われて納得できる者はいるのだろうか。洋介は自分がもしそうであったなら、と考えると恐ろしくなった。
「女神に選ばれるというのは一種のクジみたいなもんじゃ。嫌ということさえできん。昨日までモラン、と呼ばれていた男がいきなり勇者じゃ。そして人々はもうわしがモランという名前だったなど覚えてないかのように言う。勇者は魔王を倒せ、と」
「でも、あなたは魔王を倒したのでしょ?」
洋介が尋ねると勇者は「ああ」、と言って頷いた。そして、さらに言葉を続けた。
「魔王を倒したあと勇者はどうなったと思う?」
「そりゃ、功労者として讃えられたんじゃないですか?」
「いや、勇者は疎まれた。必死に戦い魔物の危険が去ると人は人同士で争うようになった。共通の敵がなくなり、隠していた不満が爆発したんだ。そして、その戦争に疎まれた勇者や戦士、僧侶。そして魔法使いは無理やり参加させられた」
勇者の声には未だくすぶり続けるような怒りの炎があった。
「魔法使い?」
「ああ、わしの仲間じゃった。やつは魔王との戦いには生き残ったのに人との戦争ではあっさり死んだ。魔法を唱えている途中に名もない兵に刺された。わしはそいつを切り殺した」
お互いにうつぶせになっているために彼の顔を洋介は見ることができなかった。しかし、それは見る必要がないものだった。きっと彼の顔は鬼であろうから。
「それからは?」
「逃げた。勇者ではなくモラン、として生きたかった。しかし、ダメだった。戦士も僧侶もすぐにわしの名を忘れてしまう。わしも二人の名前がすぐにわからなくなる。こうなるとこれは呪いじゃよ」
勇者たちが名前ではなくずっと肩書きで呼び合っている理由がようやくわかった。
彼らはもう個人ではなくただの世界の機能としてその役割を与えられているのだ。それは仕事などではない。辞めたくとも辞められず。忘れずにいたいことさえ忘れてしまう。彼らを選んだ女神というものはそうとうに冷笑的な存在なのかもしれない。
「それは魔王もですか?」
「そうじゃ。あれはわしらよりもなおタチが悪い。あれは常に同じ血族だけが選ばれる。魔王が死んで五十年経つと自動に選ばれる。先代魔王に息子がいれば息子が。息子が死んでいればその娘に。可哀想にあの娘は誰にも名前を覚えてもらえず。ただ魔王として生きることになる」
「魔王として生きる?」
「人の敵となり、勇者に討たれる。それが魔王の機能じゃ。魔王は魔族の幸福だけを願う。彼女はいずれ魔族のために人間と争うことを選ぶ。だがそれはおそらく人類共通に敵を生み出し続けることが目的なのだ。人同士が争わないためにのう」
だとすればあの異世界では何度同じことが繰り返されているのか、洋介は背筋が寒くなるのを感じた。岩盤浴で汗が吹き出しているというのに寒い。
「では、あなたはあの子を殺すんですか? 勇者という機能として」
「それが嫌じゃからわしらは生き続けたい。わしらが生きておる間は新しい勇者は選定されない。それは勇者が複数いるということが許されてないからなのじゃろう。ならばわしらが生きて続ければそれを拒絶できるのではないか、それがわしらの願いじゃ」
機能としての魔王と勇者。それにあがらうことが本当にできるのだろうか。洋介の顔には不安の色が浮かんでいたのか勇者は何本かない歯を見せて笑ってみせた。
「でもそれだと人間と魔族は戦争になるんじゃないですか?」
「そうならない方法をいまは探しておる。もし、この機械世界の技術で魔族が豊かになれば争いをせずに済むかも知れない。まぁ、可能性の一つじゃがのう」
汗が滴り落ちる。洋介は勇者に言いたいことがあったがどうしてもそれは出てこなかった。
あとはただ沈黙が続いた。
「ヒツジさん、なにか考え事してますね?」
旅の終わりに魔王と勇者を異世界に戻したあと梨衣はぼんやりと車窓を眺めていた洋介に言った。
「ああ、なんか考えてしまってね」
「小人閑居して不善をなす。ヒツジさんが考えてもどうにもなりませんよ」
彼女は少し困ったように笑った。
「そうかもしれないけど、なんというか」
「そうです。どうせ不善をなすなら明日、呑みましょう!」
「メリーさん、君は未成年だろう?」
洋介が低い声をだすと、梨衣は人差し指を振って見せた。
「細かいことは気にしない。モテませんよ」