あるバスガイドの憂鬱な一日 プロローグ
大切なものはいつだって急に失われる。
子供のころ素直に母にあずけたお年玉は帰ってきた事ないし、あとで食べようと冷蔵庫にしまっておいたケーキはいつも人知れずに消滅している。犯人はわかっているけど失われたものが帰ってくるわけではない。きっとアダムとイブも楽園を追放されたとき。
「あちゃー、やっちゃったな」
なんてつぶやいたかもしれない。とはいえ、いつだって変化は急にやってくるのだ。
久米梨衣は、出社と同時に目を疑った。一度、扉を閉めて社名を確認してもう一度入り直したくらいに彼女は困惑していた。そう、ある日、出社するとそこにはエルフが制服を着込んで自分の後輩と楽しそうに談笑していたのだから。
梨衣が働くイカイ観光社は日本初の異世界専門の観光会社である。
「あ、メリーさん。おはようございます」
彼女が入室したことに気づいた後輩である牧野洋介が彼女に微笑む。その隣では金髪碧眼のエルフが珍しいものでも見るような顔で彼女を見ていた。
「はじめまして私はエルザ・アマルガムです。今日から働くことになりました」
そう言ってエルザが頭を下げると暴力的にまで大きな胸が制服からこぼれそうに揺れる。無論、シャツの上にブレザを着ているのだから溢れるということはない。だが、その衝撃は梨衣にとって驚きであった。
梨衣は自分の胸元に目線をおろして、もう一度エルザをみる。
種族の違いってこんなにも残酷なものだっけ? 彼女は生命の不思議を奥歯で強く噛み締めた。
「ええ、よろしくね。私は久米梨衣。困ったことがあったらなんでも聞いてね」
必死に作り笑いを浮かべてみるが、内心は余裕がなかった。
「助かります。私は借金のせいでヒツジさんに身体で返してもらおう、と言われて働く身です。どうかよしなにご指導ください」
「え? ちょっ!」
梨衣は慌てて洋介の手を掴むとエルザから離れた場所に引っ張っていった。
「ヒツジさん、いまのはなんですか?! 人身売買なんて私は認めませんよ。もしかして……。
『お前たちの大事な森を焼いちまおうかー』
『や、やめてー。森を焼かないでなんでもするから……。くっ人間なんかに』
みたいなことをして来たんですか? ヒツジさんのこの鬼畜! オーク人間!」
「メリーさん、まってまって! 俺はそんなことしてない。彼女のこともギリギリ人身売買かどうかはグレーだけど、エルザさんの意思を尊重した結果なんだ」
意思を尊重して?
梨衣は少し考えてみる。
どうしてエルフみたいな人間嫌いの種族がイカイ観光社で働きたい、というのか?
答え、ヒツジさんといたいから。それはなぜ?
「ヒツジさん! どうせ巨乳ですか! 男はみんなオオカミじゃなくて巨乳が好きなんですよね。しってますよ。でもエルフはないでしょ!」
梨衣が洋介を責めていると、エルザがすっと間に入ると梨衣が掴んでいた洋介の手を引っ張った。
「お前が言っていることに理性を感じない。ヒツジを責めるな」
「……。もう、いい。仕事にかかるわ。洋介さんもイチャイチャしてないで仕事をちゃんとしてくださいね!」
こうして、久米梨衣の憂鬱な一日は始まった。