第一話:猫又って名前は知ってるけど、一体どういう生き物なのさ、ヤマト君。
三杉修也は、それはそれはいたって普通な男性だ。
身長、体重は、共に平均的。
スポーツ万能という訳でもく運動音痴ということもない。
すこぶる美男子とはいわないが、均整の取れた顔立ちと、薄く茶色がかった髪が、特徴といえば特徴だろうか。
要するにこれといった特徴がない。
良い意味でも悪い意味でも、多くの人が修也を普通の奴だと認識している。
「修也って普通だな。」
「ああそうとも。俺は普通だ。普通で何が悪い。」
友人とのこういった会話は、日常茶飯事だ。
学力においてもとりわけ普通で、名門校というほどではないにしろ、決して程度の低くない県立・K大学の経済学部にこの春入学した。
修也にしてみればそれでも頑張ったほうだと思っているのに、どうやら両親は国立の大学に行って欲しかったらしい。
「そうかそうか、K大学に受かったのか。よくやったな修也。たいしたもんだ。」
合格発表の日、真っ先に電話で合格を伝えられた父は、そういって修也を褒めてくれた。
しかし、その賛辞の言葉の直後、極小さな音であるが、電話越しに聞こえてきたため息の音を修也は聞き逃さなかった。
(そんなに国立がよかったのか?)
K大学は自宅から十分通える位置にあるので、一人暮らしをすることを考えると家賃がかからなくて経済的だと思う。
何をそんなに遠い国立大学にこだわる必要があるのか修也には理解できない。
それはただ単に大人の事情というやつだった。
県立よりも国立と言った方が周囲の人から羨望のまなざしを送ってもらえるのである。
大人の事情というには痛すぎるほど子供っぽいが、それでもこれは立派な大人の事情だ。
そんな大人の事情は修也にはどうでもよい。
いずれ、大人になってから知れば良いことだ。
とりあえず、修也は普通だと言いたいのだ。
そんな普通な修也の生活の中において、普通でないものがあるなら、それは愛猫ヤマトの存在だろう。
とある、ほのぼのとした平日のこと。
修也は特にすることもなく、母と愛猫のいる家でのんびりと過ごしていた。
普段なら授業に出て、そこそこ有意義な時間を過ごせるのだが、あいにくとまだまだ夏休みだ。
この春入学したばかりの修也は、大学の長い夏休みにまだ対応できていない。
「ああー、もう。長いんだよぉ夏休みぃぃ!」
いつまでも続くかと思われる夏休みが、しだいと鬱陶しく思えてくる。
しかし、いざ夏休みが終わる頃になると、「短いんだよぉ夏休みぃぃ!」と、思うことになるであろうことを、すでに予感している修也だった。
ただ、それは先の話だ。
大学は前期と後期の二期にまたがり授業をおこなう。
夏休みは前期と後期の間の休みで、それは約二ヶ月続く。
大体八月の頭に全ての試験を終え、それから後期の始まる十月までずっと休みだ。
「これで今日から長い夏休みだー。大学最高。夏万歳!」
そう言っていたのが、随分と昔のことのように感じられる。
小中高校生や、社会人から見るとうらやましい限りだが、実際ここまで休みが続くと暇をもて余してしまう。
この辛さは大学生にしかわからないだろう。
もっとも学部や学年によっては、逆に夏休みなんて存在しないところもあるのだが、修也はまだそんな事情は知らない。
「サークルでもやってりゃよかった。」
修也の友人達はそれぞれサークルやら部活、またはバイトに忙しいようで、そのおかげで修也は一層暇と戦う羽目になっている。
もはや大学での一年目も半分を過ぎ、今更サークルに入る気にはなかなかなれない。
すでに何処のサークルでもグループが出来ていて、その輪の中に新たに入って行こうと思うほど、修也は積極的な人間ではなかった。
(ま、そのうちバイトでもはじめるか。)
と、いう結論にいつも達するが、そのいつかがいつになるのかは、誰にとっても不明のままだ。
予定は未定ということだろう。
「金に困ったらバイトを探そう。」
修也はそう思っている。
しかし、実家通いという点から家賃も食費も光熱費も自分で払っていない為、金が足りなくなることはそうそう考えられそうにもない。
もちろん友達と遊びに行くことはあるが、それに困らないだけの小遣いはもらっている。
こんな生活を送っているのだから、それはそれは暇なはずだ。
最近では家にいるときには毎日家事手伝いに精を出す、そんな健全な十八歳だった。
裕子としては、修也がバイトでもしてくれれば、小遣い銭も浮いて家計も少しは楽になると思ってはいる。
ただ、そうすると家事の負担がこっちに来るので、なかなか言い出せずにいるのだった。
「お金を取るか、労働力を取るか、考えさせられるところなのよ。」
これが最近の裕子の悩みだ。
「やーめーろー。」
恨みがましい声が、洗濯物を取り込み終えた修也の耳に入ってきた。
ふと見ると、裕子とヤマトが遊んでいるようだ。
「修也。ほらほら、蝶結びよー。」
裕子がヤマトの尻尾で蝶結びをして喜んでいる。
どうやら裕子とヤマトが遊んでいるのではなく、裕子がヤマトで遊んでいるようだった。
「いい歳して、何やってんの?」
「何よ、冷たいわね。あぁ、なるほど、私が楽しそうにヤマトと遊んでるからって、嫉妬してるのね。」
「むっちゃ不満そうな顔してるんですけど。」
正直、ヤマトを見る限り決して楽しそうには見えない。
「いいのいいの。私からはヤマトの顔なんて見えないんだから。」
(鬼か!!)
三杉家では裕子こそ最強。
この優位性は、修也が知る限り一度も崩れたことはない。
猫の尻尾で蝶結び。
普通は出来ないことだろう。
なぜなら猫には尻尾は一本しかないからだ。
しかしヤマトの尻尾は二本あるのだった。
先日めでたく十歳の誕生日を迎えた黒猫のヤマトは、そのおめでたい日と日を同じくして、めでたくも化け猫になった。
最初は修也もその母裕子も、言葉には表せないほど現状に驚いたものだが、人間というものはやはりなかなかに図太い生き物のようだ。
初めて愛猫が人語を話したとき卒倒した裕子も、今となってはすっかりこの現状に対応している。
そういえば、あんな裕子の姿を見たのは始めてだ。
写メに取っておけばよかったと、今更後悔する修也だった。
「尻尾が二本もあるといいわねぇ。尻尾で蝶結びなんて他のどの猫にも真似できないことよ。」
裕子は嬉々として語っているが、何度見てもヤマトはこの上なく不満そうだ。
裕子をにらみつけると、器用に自らの前足を使って結ばれた尻尾をほどいた。
「確かに珍しいかもしれないけど、こっちはいい迷惑だよ。尻尾だって痛みはあるんだからもっと優しく扱ってもらわなきゃ。」
「そのとおりだ。」
猫から吐き出された説得力のある反論に、思わず修也も大きく頷く。
「やだヤマト、怒らないでよ。もうヤマトが痛がるようなことは、あんまりしないから。」
一部気になるところはあるが、反省しているのか、珍しく裕子が低姿勢だ。
(実は、三杉家で最強なのは母ではなくヤマトなのか。)
修也の頭にそんな考えが浮かんだ。
「それにしても修也。」
「何?」
突然裕子が修也に話を振る。
とはいっても、突然話を振られるのには慣れている。
裕子と共に過ごす人間なら、どんな人でもすぐに慣れることになるだろう。
「あんたどっちの味方よ。私に敵対してヤマトに付くんだったらこっちにも考えがあるわ。小遣いは今月限りで打ち切りよ!」
たいした理由もなく、とんでもないことを言う。
バイトを始めてからならともかく、今小遣いを打ち切られてはたまらない。
「ちょ、ちょっと。別に母さんを裏切ったなんてことはないだろ?」
修也を動揺させ、なおかつ裕子の立場の強さをわからせる為には絶好の一言だったようだ。
「修也ー。僕を裏切るのかぁぁぁ。」
間髪いれずに、ヤマトが声を低くして修也を脅しにかかった。
「勘弁してください。」
現時点で修也に理解できること。
それは三杉家の中で最弱なのは自分だ、ということだった。
何故猫又と呼ばれる妖怪にヤマトが変化したのか。
それはヤマト自身も全くわからない。
ヤマトからしてみれば、「気がつけば尻尾が増えていて、どうやら人の言葉を話せるようになったみたいだ。」と、いう程度のものである。
別段、何かが特別に変わったという実感はない。
しかし、飼い主達とのコミュニケーションが取れるようになったこと以外は、この一件はヤマトにとって迷惑なことだったりする。
何か喋れと催促されるし、今のように尻尾で遊ばれる。
止めとなったのは裕子の一言だ。
「ヤマト、あんた今日から外出禁止よ。」
「にゃんだってー!!」
これはヤマトにとって致命的な出来事だった。
「当たり前よ。近所に妖怪を飼ってるなんて知れ渡ったら、私達この場所に住めなくなるわ。」
「そんな一方的な・・・。」
裕子はヤマトに反論の余地を与えない。
「冷静に考えてみなさい。猫又なんて近所に知れたら大騒ぎよ。それともヤマトは妖怪の実例として、危ない科学者達に解剖されたいのかしら?」
「うぅぅぅ。」
言葉に詰まるヤマト。
科学者に対する偏見に満ち満ちているが、それを全否定できないのであった。
「そんなぁ。毎日欠かさずにキープしていた縄張りがぁ。」
哀れなヤマトを、修也は出来る限り温かい目で見守ってあげた。
それが全く効果を発揮しないことは、言われなくてもわかっている。
気分の問題というやつだ。
その後、ヤマトはしばらく石造のようであったと、後に三杉家の面々は語る。
石化が解除されてからは、毎日通い続けた自分の縄張りが、名前も知らない野良猫に占領されてしまうという考えが頭をよぎる度に、怒りと悲しみの余り思わず裕子に噛み付いてしまうお茶目なヤマトだった。
「外に出せー!!」
ヤマトは毎日のように訴えるが、聞き入れてはもらえそうもなかった。
とはいっても、本来の猫の俊敏さをもってすれば、飼い主達の目をくぐって外出することは決して難しい事ではない。
ヤマトはヤマトなりに飼い主達を気遣っているのだ。
そして何よりも、自分の命は惜しい。
万一解剖されるような事態になってしまったら、シャレではすまない。
外に出れなくなったことを不憫に思っているのか、飼い主である人間達は前以上にヤマトに構ってくれるようになった。
このことはヤマトにとって嬉しい変化だった。
家の掃除も一段落ついて、修也と裕子にとって休憩時間が訪れた。
掃除中に掃除機と戦い、見事完敗を喫して逃げ去ったヤマト。
そんなヤマトは、今日の敗戦の屈辱を押し殺し、次の戦いに向けて闘志を燃やしながら、裕子に向かって猫キックの訓練にいそしんでいる。
「仲がいいんだか悪いんだか。」
二人のやり取りを眺めながら、修也はパソコンとにらめっこ中だ。
インターネットの検索画面。
検索するために打ち込んだ文字は二文字。
それはずばり、猫又。
今までにも調べようと思っていたのだが、普段パソコンを使わない修也は、インターネット検索という発想が出てくるまでに今日までかかったのだった。
「今日までその発想が出てこなかったなんて鈍いわ。それでも現代っ子なの?」
裕子に痛い一言を貰ったが、そもそも今日になってもその発想が出てこなかった裕子に言われる筋合いはない。
「うりゃうりゃうりゃあ。」
ヤマトは特訓に気合十分のようだ。
「痛い。ちょっとヤマト、あんた今本気で蹴ったわね。」
「本気でやらないと練習にならにゃいじゃにゃいか。次こそはあの憎き掃除機を退治してやるんだにゃー!」
どうやらヤマトは興奮すると、アニメや漫画の世界で使われるような、いわゆる猫語になるようだった。
興奮して地が出るということは、普段は意識的に普通の喋り方をしているのだろうかと思うと、なんとなく修也は微笑ましく感じる。
「お、結構出てくるなあ。」
以外にヒットした検索結果に少したじろぎながらも、修也は猫又について調べにかかった。
修也は猫又について詳しく知らない。
おそらくほとんどの人が猫又についての詳しい知識など持ち合わせていないだろう。
そんな知識なくても、生活に支障はないのだから。
しかし、猫又と同居することとなった修也としては、それが一体どういう生き物なのか知っておきたいと思うのも極当然の事ではないだろうか。
「こりゃあ、なかなか強烈だな。」
検索結果はなかなか衝撃的なものだった。
インターネットでの検索なので真偽のほどは定かではない。
というか、猫又という存在が「定か」という言葉からかけ離れているので、初めから全てを信じようとは思ってはいない。
それにしても、どうやら猫又というものはあまり歓迎したいものではないようだ。
―猫又は人を食う妖怪である。
猫又は人に化けることができる。
黒毛の猫が一番妖力が強い。―
多くのホームページでこのような解説がしてあった。
「おいおい、食われるのは勘弁だぜ。」
修也は嫌な汗が出るのを感じた。
「ヤマト、次はネコジャラシで特訓しましょう。あんたに噛まれて引っ掻かれて、お母さんの手はボロボロよ。」
裕子の憂いのない声を羨ましく感じる。
(そんなことやってて、食われたらどうするんだ。)
一気にヤマトに対する警戒心が強まった。
修也にとって一瞬にして危険な存在と化したヤマトは、憮然とした表情で裕子の手に握られたネコジャラシを見ている。
「ネコジャラシだなんて。僕はもう十歳だよ。そんな子供のおもちゃで遊ぶような年齢じゃないさ。」
「あら、そう?こうやってもそんな事言えるのかしら。」
パタパタパタパタ。
裕子の手の動きに合わせてネコジャラシが揺れる。
「ふん。」
最初はつまらなそうに見ていたヤマトだが、次第に変化が訪れた。
パタパタパタパタ。
いつの間にか体制を低くして、いつでも飛びかかれるようにしている。
パタパタパタパタ。
ネコジャラシの左右の動きに合わせて、ヤマトの首も左右に動く。
パタパタパタパタ。
パタパタパタパタ。
「・・・・・・・にゃあ!!」
ついに我慢できなくなったヤマトがネコジャラシに向かって突っ込んでいった。
すでにもう裕子の扱うネコジャラシに夢中になっている。
「ぷ。」
その姿を見て、思わず修也は吹き出してしまった。
「あはははははははははは。」
それはすぐに爆笑へと変わり、修也を和ませてくれた。
遊びつかれて倒れているヤマトに愛着を感じつつも、修也は多少ためらいながら口を開く。
「今調べたんだけど、猫又ってさぁ、人を食うらしいよ。」
「うそぉ。食べられるために食べさせてきたんじゃないわよ。」
予想と異なり、真っ先に反応したのは裕子だった。
大きな声で実にもっともな意見を口にする。
「ふーん。」
当のヤマトは全くもって興味なさそうだ。
「別に人間なんて食べなくったって、おいしい魚も、おいしい缶詰も、そこらじゅうにあるじゃない。」
そんなことより、ヤマトにとって今は毛繕いのほうが重要らしい。
「そうだよな。人間って雑食だし、どう考えても魚とか猫缶のほうがおしいそうだよなあ。」
新しく現れたパソコンの画面を見ながら修也は安堵の息を吐く。
その画面にはこう記されてあった。
―飼い主と話したいために猫又となる飼い猫もいるので、一概に邪悪なものと判断することは出来ない。―
「ヤマトもそう思って猫又になってくれたんだったらいいなあ。」
「ん、何か言った?」
「いや、何でもないよ。」
ヤマトに向かって笑顔で答える。
いつの間にか、猫と会話するということが修也にとっては普通のこととなっていた。
ヤマトと共に過ごす普通でない普通の生活は、まだまだ始まったばかりのようである。