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ハイヒールバーバリアン

作者: 純一郎

空耳から生まれた単語が素敵だったので書いてみました。

その日、彼女は生まれて初めて森を出た。あの時窮地を救ってくれた紳士に恩を返すために。名前も住む場所も知らないが、彼の顔は覚えている。優しく温和な顔に、モノクルを浮かべた初老の男性だ。黒い帽子を目深に被り、黒いジャケットを羽織っていて、手には黒檀の杖を握っていた。街のことなど何も知らない彼女ではあったが、その紳士が街の中でも高い地位にあるのだろうということは想像できた。彼に会ってお礼を言うために、彼女は初めて森を出る。仲間の制止も振り切って、汚いボロ着のままで、街にへと走る。


 *


 生まれ育った森を抜け、川を超えて、街の明かりが見えてきた。規則正しく並ぶ鉄と木からなる奇妙な道は、村の呪い師がかつて話してくれたものだ。その道こそは、身体は黒鋼で、石を食らい、煙を吐き出しながら走る蛇のための道なのだと。彼女は子供の時、それを信じなかったが、今、それを信じている。あんなに足の速い彼女を追いこすことなど何でもないという風に、雄叫びを上げてその黒鋼の蛇は地平の向こうから駆けてきて、あっという間に並走する彼女を追い越していった。――俄然好奇心が沸いた彼女は、蛇の尻尾を捕まえた。つかまってくださいと言わんばかりに出っ張りがあるのだ。そうしてみれば、捕まり続けているのが少し大変だが、自分で走っていくよりもはるかに速く、簡単に街に到着するではないか。なるほど、便利な蛇もいたものだ。彼女は子供のように笑って、飛ばされないようにしながら懸命につかまりながら、流れゆく景色を楽しんでいた。


 *


 蛇が止まれば、そこは街の建物の中だった。蛇は市壁を通り抜けて、街の奥深くにまで突き進み、こんなところで止まるらしい。彼女はぴょんと飛び降りて、改めて自分が街にまで来てしまったのだということを実感する。街の人々は誰も洒落た服を着ていて、なるほど自分とは大違いだった。人々は自分を指さして何か話している。何を話しているかは想像がついた。多分、あまりに服がぼろぼろだからだろう。彼女は恥ずかしいと思いながらも、仕方がないじゃないかと開き直って、ざわつく人々を掻き分けて、建物の出口にへと向かう。変な門があったが、腰の位置までしかないので、仕方なく乗り越えた。再び騒ぎが起きて、青い服の人が何事か叫びながら止めようとしてくるが、あまりに弱い力なので、彼女は冗談か挨拶だと思って、曖昧に笑みを返して振り払い、そのまま出て行ってしまう。余計騒ぎが大きくなったが、彼女にはその理由はわからなかった。


 *


 街の中は彼女にとって複雑怪奇に過ぎた。土が一切ない場所とはこんなに不気味なのかと、彼女は身震いした。道は石でできていて、建物も石かさもなくば煉瓦で出来ていた。ずっとモノクルの紳士を彼女は探しているのだが、一向にそれらしき人物と出会えない。街は広くて、覚えきれないほど人がいると彼女は聞いていたが、これ程までとは想像できなかった。それに、時折、先ほどのような青い人がちょっかいをだしてくるのだ。彼女はその度にその青い人たちを退け、時には隠れ、時には逃げていた。青い服装の人は少し危険だ。彼女はそう考えて、出来るだけ青い服の人を見つけたら遠ざかるようにしていた。そうしながら紳士を探して、気が付けば市場に来ていた。森の市とは何もかもが段違いだが、そこが市であるということは彼女にも理解できた。丁度お腹がすいてきたので、肉屋の軒先にぶら下がる雉が食べたいところだったが、何にも交換できるものがない。街の人はお金を使うらしいが、お金を触ったことすらない。物々交換したいが、交換できる物もない。譲ってくれるように交渉するには、そのための言葉は知らない。街の人の話す言葉はあまりに難しいので、彼女はごくごく限られた言葉しか知らなかった。限られた言葉で、その人の大切な財産を譲るように説得するには無理だと、彼女は判断した。じろじろと見られていた肉屋の恰幅の良い男性は青ざめた表情を浮かべていたが、彼女が立ち去るとほっと胸を撫でおろした。


 *


 どうやら市場に紳士はいないらしい。彼女は、青果屋の老婆から林檎をもらい、それにかぶりつきながら歩く。あの老婆は、あまりにもひどい彼女の外見を憐れんで、林檎を与えてくれたのである。拙い町の人の言葉で精いっぱいお礼を言ったところ、老婆は泣きながら、もう一つ林檎をくれた。今彼女は、その老婆の善意に感謝しながら喉の渇きと空腹を癒している。木々が一切見えない街で、林檎を食べるというのは奇妙な感覚だったが、これはこれでいいものだと彼女は感じていた。どんどん歩いて、高い建物の立ち並ぶ一角にへと足を踏み入れた。急に人が減ったような、そんな感覚がした。


 彼女がぶらぶらと歩いていると、高い建物の窓が時折開いて、そこからひらひらした服の女が顔を出すと、口元に手を当てて窓を閉めてしまう。一体何の風習だかわからないので、彼女は何か反応を示すことをせず、ぶらぶらと歩き続けた。そうすると、一台の馬車が建物の前に止まっていたのを見た。黒塗りの四角い二頭立て馬車だ。そして、家から一人の人物が降りてきて、その黒塗りの馬車にお供を引き連れて乗り込んでいく。彼女は顔を輝かせた。あの人物こそ、彼女の目的の紳士だ。思わず走り寄ると、御者の男が慌てた声を出して、馬に乱暴に鞭を打って急発進させてしまう。これは負けていられないと、彼女もあの黒鋼の蛇に助けられた分温存できた体力を活用して駆けだした。石の道は走りづらいが、こんなことでは彼女はくじけない。


 *


 街中を延々と駆け回り、速度の緩んだ馬車が街の外れ、市壁のぎりぎりの辺鄙なところに止まった。御者の男はきょろきょろと辺りを見回して、ぼろを着た女が辺りにいないことを確認して、ほっと溜息をついた。紳士もひどく動揺していて、何から逃げていたのかをしきりに訪ねていた。ぼろを着た女だと言っても、紳士は怪訝な顔をしている。と、そこに、その件の女が現れた。紳士はその女を見て、ああと手を叩き、御者に心配するなと言って馬車を降りた。彼女は紳士に駆け寄っていき、肩で息をしながらも、花が咲いたように笑う。それから、ぺこりと頭を下げた。何のことだと尋ねる紳士に、彼女は、この前に助けてくれたお礼がしたかったのだと答えた。それを聞いた紳士は、大きく笑いだして、それから彼女に謝った。今度は彼女が何のことだと尋ねると、紳士は、逃げ出してしまったお詫びなのだと答え、馬車に乗るように言う。もう帰るところだと彼女は言うが、紳士は、何か君に贈り物がしたいのだと言って、彼女を馬車にへと乗せた。


 *


 馬車に乗せられて、彼女は紳士の邸宅にやってきた。さっきの高い建物だ。馬車に乗ってどこかへ行く用事が紳士にはあったが、今やそれはどうでもいいことになっていた。紳士は、どこか怯えた様子の女を、メイドたちに頼んで清潔するように頼んで、それから、着替えも用意させた。裁縫メイドは不満そうにしていたが、主人の命令とあっては仕方がないので、適当な古着を使って彼女の服を仕立て上げていく。裁縫メイドの腕は大したもので、清潔になった彼女に着せてみれば、正確に測ったようにぴったりだった。彼女は慣れない服装の感覚に身を縮こまらせていた。メイドは、主人たる紳士の言いつけ道理に、彼女を連れて紳士の自室にへと連れて行った。

 部屋で紳士は、三つの贈り物を用意していた。一つは食べ物だ。街の人が遠くに旅する時に食べる保存食で、干し肉と堅いパンだ。粗末なようだが、彼女にとっては見慣れぬご馳走だ。味付けのされた干し肉などは、未知のものである。もう一つは、紙の束だった。何か文字が記されている。紳士は、これは大事な手紙だから、村の呪い師と長老に渡すように言った。そして最後の贈り物は、これまで裸足であった彼女のための靴だった。踵から棒が伸びた奇妙な靴で、彼女は困惑した。そこに紳士が笑いながら、その靴は、人を走れなくする意地悪な靴だが、それを履いた娘は、とたんに街の人好みの静かな女になるのだと言う。彼女は、それは魔法だと驚いて、その様子に紳士はまた笑っていた。今度街に来るときは、きっとこちらから迎えに来るから、その時はその靴と、今の服で来なさいと紳士は言う。彼女は頷いて、それから、靴を試したくなった。履いてみてもいいかと彼女は紳士に尋ねると、紳士は穏やかな笑みと共に首肯した。彼女は、どきどきとしながら靴に足を通す。体験したことのない感覚が足から伝わってくる。足首が痛むようだ。思わず顔を顰めるが――紳士の前なので、笑おうとした。するとどうだろう。彼女の表情は、乙女が恥じらって浮かべる、はにかみの笑みのようだ。

彼女はまんまと、人を走れなくし、静かな女にしてしまう、魔法の靴――ハイヒールの魔法にやられてしまったとさ。


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