後藤先生のお話
「私には夢があるの」
昼食後という事もあり、一日のうちで
一番睡魔を呼ぶ時間、5時間目。
その5時間目の授業で後藤先生は高らかに
そう言い放った。
思わず苦笑が蔓延する教室。これが
小学生や中学生のクラスだったら
まだ良かったかもしれない。
しかし、ここは高校生達しかいないクラスで
さらに高校生活も折り返しをとうに過ぎた
3年生であり、もう1つ付け加えると
受験を間近に控えた寒い季節だ。
勉強しなければ。その精神のみで睡魔を
振り切り授業に臨むぎりぎり少年少女である
僕達に、いきなり飛び出した先生の戯言に
付き合う余裕は無い。
「それより授業しましょうよ、先生。
ただでさえ俺国語危ないんだから」
さあ誰が突っ込むか、そんか空気の中
皆の声を代表して言ったのは
一番前の席に座っている香坂君だった。
先生と距離が近いぶん自分が言うべきだと
思ったのか、彼は気まずい空気を破るように
明るく言った。
それを皮切りに僕達はこれ見よがしに
ノートを開き、教科書をめくる。
勉強はしたくない。だが差し迫る受験は
進学校にいる僕達には、まさに“今後の人生”が
決まる大舞台だ。夢の話をしている場合ではない。
しかし、生徒の白けた雰囲気を先生は
無視をした。そうきっと無視だ。
学力だけではなく人間としても頭の良い
後藤先生がこの空気に気付かない筈がない。
「今日の国語の授業は中止です。
今から道徳の時間にします」
何を考えているんだ、後藤先生。
こんな大事な時期に授業放棄だなんて。
生徒達の強張った表情を確認するように
見渡した先生はゆるやかに微笑んだ。
「言いたいことは分かってる。
こんな時期に何言ってやがんだ、この女。
ぶん殴られてぇのか。
とでも思ってるんでしょ」
いや、さすがにそこまでは思わないよ。
「じゃーあー」
そこで区切って教室内に首を巡らす先生。
.... 目が合った。しまったと思う前に
先生に名指しで呼ばれる。
「高井くん!君の夢を教えて」
何の罰なんだよ、これは。ひきつった顔を
隠そうとせず、むしろ見せつけるように
僕を見つめる後藤先生を僕は見返す。
無言で、早くしろやと急かす先生に
僕は観念した。
「.... 公務員です」
「夢がないなぁ」
笑いながら速答される。そこで
ムッとしないほど僕はおっとりしていない。
「じゃあ、夢のある仕事で世界は
まわるんですか?
それに先生だって公務員じゃないですか」
この時クラスは一致団結したと思う。
そりゃそうだ、と皆が頷いていたから。
「高井君、私が言う夢とは何も
仕事だけではないのよ。
若い人はほとんどそうなんだけどね
将来の夢は?って聞かれると
何でか将来つきたい仕事を
思い浮かべちゃうのよね~」
朗らかに笑う後藤先生。そして再び話始める。
どうやら僕の事はもう終わったらしい。
「若い人ほど夢に溢れているって
思われがちだけどね、逆なのよ。
年をとればとるほど夢は増えていく」
クエスチョンマークは僕の頭の上にも
ある筈だろう。皆の上にも。
意味が分からない。
「だって知識はどんどん増えていくわ。
どうして知識と夢は反比例するだなんて
思うのかが私には不思議。
比例するの、知識と夢は。
そして欲もついてくる。将来つきたい仕事は
夢ではない。それは目標と言うの。
私が言っている夢とは、女優になりたいとか
満天の星空を見たい、ドラマみたいな
恋愛をしてみたい、性別を変えてみたい、
馬に乗って草原を走りたいとかね。
突拍子もないものなの。
私は今毎日が楽しいわ。同じ事の
繰り返しの毎日だってたっくさんの夢の
前準備と考えると楽しい。
受験が全てではない。君達は
賢いから分かってるかもしれないけど
受験が終わっても人生は続いてしまうの。
それが良いことか悪いことかは
人それぞれだけれどね」
そう言って今年36歳になる後藤先生は笑った。
日本人の女性が有名な映画の賞をもらったらしい。
仕事前にいつも見る朝のニュースで
これまた朝が似合う女性アナウンサーが
嘘臭いながらも輝く笑顔をこぼしながら
話していた。
その映画のワンシーンが流れる。
海外の作品だった。賞をもらったという
日本人女性は主人公のようで
真っ白に染まっている髪を無造作に結び
しわだらけの顔で何かを喋っている。
ゆったりとしたワンピースは鮮やかな空色。
彼女の穏やかな微笑みはどこかで見た事が
あるような、ないような。
「へー、この人が賞もらったんだ」
コーヒーを入れながら妻が言った。
「誰?このおばあちゃん」
幼さの残る息子の声が聞こえる。
「日本人で海外の有名な賞を
もらった人だよ。こんなお年寄りとは
思わなかったけどなあ」
感心したように呟く妻。
「名前は?」
いきなり会話に参加した僕に
妻は少し面食らった様子で答えた。
「風車さんだって。芸名よね、きっと。
フーシャだから外国人みたいな
響きもあって素敵」
しわがれた不思議な声がテレビから聞こえた。
英語だろう、何て話しているかは分からない。
何かを思い出せそうで思い出せない
あの感じが身体中に広がる。不快な感覚。
そして一区切りつくと彼女は日本語で話始めた。
「このように素晴らしい賞をいただき
私はとても嬉しいです。
それでは、私の話を少ししていいかしら」
次に彼女が発した言葉は寒くはない寒さを
思い出させた。季節が季節だったのだから
寒い筈だったのに、なぜか寒さよりも
ほんのりしたあたたかさを呼び起こす。
「私には夢があるの」
学生の頃、将来の夢は?という
問いには「海外に行きたい」と
答えていました。
将来の夢=仕事と考えるのは嫌です。
まだ夢は叶っていませんねー。