(前編)
お題は『物欲しそうな眼差しに・ちょっとそれ貸して・迷子の野良猫・冷えた指先を暖めろ・二律背反』です。
──私に対し、何かを訴える視線が隣に立つ相手から向けられている。
いや、この場合『物欲しそうな眼差し』と言った方が的確かもしれない。
私が視線を送る人物に目を向けなくとも……、彼女の視線は私の顔と、私が手に持つ真っ白いソレを交互に見比べているのが分かった。
「フォルクマール」
迷路の様に入り組んだ路地裏の一角という場には到底似合わない、凛とした声で彼女が私の名を呼ぶ。
生まれた時から身に付いている彼女の高貴な振る舞いは、王宮ならば至極当然の光景なのだろうが、生憎と此処は王宮でも貴族の館でも無い。
どちらかというと、治安の宜しくない位置に立っている酒場の裏口だ。
だからこそ、彼女の言動も容姿も身に纏っている服も……、何もかも違和感を覚える。
このような場所に、私と彼女の2人しか居ないという事は不幸でもあり幸いでもあった。
「……フォルクマール」
もう一度、彼女が私の名を呼ぶ。
彼女が愛称では無く正式に名前を呼ぶ場合、必ず何か自分の欲求を押し付けてくる時のみだ。
無論、次に発する言葉は容易に予想出来た。
「その生き物を、早く私に寄越せ」
彼女が発した予想通りの言葉に、思わず返事代わりの溜息が私の口から漏れた。
私が溜息を発した心情を察してくれたのか、首筋を指で掴んで持ち上げていた子猫も抵抗を止める。
彼?もまた諦めがついたのか「ミィ」と小さく一声だけ鳴き、大人しくなった。
「鳴き止んだぞ、早く寄越せ」
「近くに母猫が居ないという事は、迷子になった子猫でしょう。首輪が付いていないので、恐らく野良でしょうが……」
「そんな事は聞いていない、早く寄越せと言っている!」
成人男性の中でも背が高い方である私と比べ、彼女はまだ幼くその身長は私の胸程までしか無い。見るからに高級な布地を使ったコートの袖から僅かに出た細い指を伸ばし、私が摘んでいる子猫を奪おうと背伸びをしてくる。だが、生憎大人しく渡してやる気にはなれない。
彼女は自分の立場を完全には理解していないようだ、だが反面私か彼女の意見を尊重してやりたい気持ちも確かにあった。二律背反とまではいかないものの、暫く考えることとしよう。
私はそれを彼女が届かない位置まで上げ、わざとらしく肩を竦めた。
「……貴女は、御自分の立場を解っておられますか?」
幾分咎める意味合いも含めたものの、私の言葉はどうやら彼女の耳には届いていないらしい。
小さく形の良い唇を尖らせ、「早く寄越せ!」と繰り返し何度も跳ねるだけ。
「早く寄越せ、フォルクのケチッ! ケチッ! ドケチッ! 早くそれを寄越さんと、貴様の悪口を思い切り叫んでやる!」
「生憎、悪口の類は聞き慣れていますから……何とでも言って下さい」
「私の命令を聞けんというのか?」
「……私は騎士でもなければ、王国お抱えの魔術師でもありませんからね。コイツと同様、本来貴女には相応しく無い存在なのですよ」
元々私は口が良い方とは言えないので、突き放す言葉をなるべく選んで口にする。
彼女も我侭が過ぎるが、利口なのは充分知っていた。
だからこそ、私の言葉に何も返さず口を噤んでくれるのを期待していたのだが……
「お前が私に相応しいか否か、それは私が決める問題だッ!」
……どうやら、逆効果だったらしい。
美しく整った顔に怒りを浮かばせ、さらりと伸びた金色の髪が揺れたかと思った次の瞬間。
身を翻し勢いをつけた彼女の脚が上がると同時に、私の膝に鈍い痛みが走っていた。
「“どのように屈強な相手とて、関節は決して鍛えられない”お前が教えてくれた言葉を、初めて実戦してみたが……痛かったか?」
「……まだ、踏み込みが甘いです」
不意な出来事だった為、蹴られた片脚だけ一歩後ろに下げたものの、結局はそれだけに留まった。私を見て、彼女は不満気に頬を膨らませる。
本当、赤子の頃から自分の欲求が通らないと無茶ばかりする少女だ。
別段意地悪で取り上げたわけでは無いものの、供の者すら付けず一人で此処までやって来たという事もあり用心に用心を重ねての結果だったのだが……
それでもこの子猫同様、身分の知れない私とこうして彼女が普通に接してくれる事は嬉しくもあり、複雑な心境でもある。
彼女の父親とは疎遠という訳でも無いが、彼の立場上余り親しくはしていないというのに。
私は首筋を掴まれたまま大人しくしている子猫と、目の前で腰に手を当て自分を睨みつけている小さな少女とを見比べた。
彼女に飼い猫でも無いだろう子猫を手渡すのは多少気が引けたが、感知した所何の術式も施されていなかった。暫くして、問題は無いだろうと遅い判断を下す。
「……手を出して下さい」
溜息と共に出た私の言葉を聞き、彼女の表情が一瞬にして明るくなった。
「まだ、子供ですから余り乱暴に扱われないよう……」
コクコクと何度も頷き小さな手を差し出す彼女は、果たして私の説明を何処まで聞いている事やら。
苦笑が浮かぶものの、結局私はこの少女には甘いらしい。
手の上にそっと置かれた子猫を持ち上げ、満面の笑みで礼の言葉を告げる彼女を見て……
自分でも知らないうちに微笑みを浮かべていた事が、信じられなかった。
余談ではあるが……
「城では飼えない、でもまたこの猫には是非とも会いたいから」という彼女の実に自分勝手な我侭で、子猫を無理矢理押し付けられた挙句。
「お前の所為で冷えてしまった指先を温めろ」と……
これもまた無理難題を押し付けれる事となる。
仕方無しに第二の我侭を叶えるべく手を繋いだまま表通りに出た所、知り合いに彼女を見られ「隠し子か?」と詰め寄られたのも心外だ。
露店に並ぶ品物や手袋を満面の笑みを浮かべた彼女にねだられ、強制的に買わされたのも……
酒場で愚痴ろうにも、未だ愚痴れない出来事となってしまっている。