元第二王子と幽霊少女
「ふあぁ…、おはようベリアリーチェ」
ベッドから起き上がる男は、無精髭を撫でながら天井を見た。
それを見ながら、少女は眉を顰めた。
「あのね、ディオゴ。毎朝同じことを言っていると思うんだけど、幽霊に挨拶するのやめたら?」
体の透けた少女は、ひらりと天井を回って、男の前にやってきた。
ふわふわと浮かぶ体を、男は目を眇めて見るだけだった。
返事がないので、幽霊の女の子、推定16前後の彼女はムッとした。
「そうやって幽霊に囚われているから、噂の的になるのよ」
「亡くなった婚約者を今も想っている一途な男だって?」
「それはいい方の噂。大抵は、『婚約者が亡くなって15年も経つのに、吹っ切れていないどころかいまだに執着している粘着男』、ね」
「ふふ、まったく君の情報収集は相変わらずすごいな。僕の元にはそんな声、届かないよ?」
「あなたがこの15年引きこもっているからでしょ」
「だって、生前のベリアリーチェは、ベッドの上から起き上がれる日なんて数えるほどしかなかったんだよ?僕だけ歩き回るのは、不公平じゃないか」
「私、今自由に飛び回ってるけどね」
「ああ、それが何よりも嬉しいよ」
ディオゴと呼ばれた男は、大きいあくびを隠すことなくもう一度すると、のそのそとベッドから出ていく。
「ディオゴ、あなたいい男になったんだから、その髭どうにかした方がいいわ」
「どこにも出かけないし、誰にも会わないからいいんだよ」
「私いるんだけど?」
「結婚生活みたいでいいだろ」
「……自惚れないでよ。私たち、婚約までしかしてないわ」
「そうだね。僕は、君との結婚を夢見てたけど」
「死期が近い婚約者を持っていた人間の願望とは思えないわね」
「君とずっと一緒にいたかっただけだよ。…まあ、今も叶っているようなものだけど」
ディオゴがそう言ってはにかむので、ベリアリーチェと呼ばれた少女は「うげっ」と顔を歪めた。
「……深窓の白銀令嬢と呼ばれていた君が、そんな顔をしちゃダメだと思う」
ディオゴは、ガウンを羽織って部屋を出ていく。
ベリアリーチェは扉をくぐること無く、壁をすり抜けてついていく。
幽霊の体は、どこもかしこもすり抜けられるので、ベリアリーチェは自分のこの体のことは気に入っていた。
ディオゴは、あんまり好ましく思っていないことも知っているが、知ったことではない。
「それ、あなたと婚約したからついたあだ名なだけだから」
「深窓の令嬢には変わりなかったろ?」
「『公の場に顔も出せない無能』の言い換えでしょ」
「君は体が弱かったんだから、仕方のないことだろ?」
「だから、あなたは無理やり私と婚約させられた」
ベリアリーチェの重たい声に、ディオゴは静かに首を振る。
キッチンに足を踏み入れ、ディオゴ自らお湯を沸かしていく。
それは手慣れた手つきだが、高貴な身分だったものからしたら、考えられない行動でもある。
それでも、仕方がない。
この家には、使用人は一人もいないのだから。
ディオゴは、身の回りのことは全部自分でやる。
ベリアリーチェには、それが自傷行為のように見えて気に食わない。
でも、本人にそれは言わない。
言っても無駄だとわかっているし、互いに好まないことがあるのは仕方のないことだと、この15年で学んできたのだから。
「僕は君との婚約に後悔なんてしていない」
「王妃陛下があなたの戦力を削ぐためだけに、使い物にならない私と婚約させられたんじゃない」
ベリアリーチェが吐き捨てるように言うと、ディオゴは彼女を見上げて、眉を垂れさせた。
「僕はそもそも王位に興味なかったし、前王妃の子である兄上が継ぐべきだと思ってた。君との婚約は、僕の意思表示にはちょうどよかったんだよ」
ディオゴはそう言うが、ベリアリーチェはいまだに納得していなかった。
もう15年以上前のことだというのに、昨日のことのように思い出せる。
それは彼女が、今を生きていないからかもしれない。
「優秀なあなたを危惧して、王妃が暴走しただけだわ」
「あの頃の僕に釣り合う身分のお嬢様が君しかいなかったのも、また事実だよ」
「余命宣告されていた娘を、第二王子の婚約者に宛てがうなんて、王家に不信感しか抱かないわよ」
「あれで兄上が磐石なんだと示せたから、第二王子派閥なんてものも出来なくて済んだ。国の分断を避けたという意味では、前王妃陛下の行動は正しかったと思うよ」
「自分の子どもに派閥や取り巻きができないくらい、王妃が無能だっただけじゃない」
「あはは、兄上は本当にいい人なんだけどねぇ」
沸かしたお湯でモーニングティーを淹れていくディオゴの手元には、カップが2つ並んでいる。
それを見ないフリするのに、ベリアリーチェはもう慣れていた。
最初の頃はそんなもの用意するなと文句を言っていたが、15年もすれば言わなくもなる。
「おかげで僕は担がれなくて済んだ。前王妃陛下にはお礼が言いたいくらいだね」
「……私は許してないけど」
「祟りに行っちゃダメだからね?もう引退して、ご隠居しているんだから」
「また要りもしないドレスを買い込んでいるのよ。国民の税が湯水のように湧くと思っている脳みそをどうにかした方がいいと思う」
「それに関してはちゃんと締め上げる用意はしてあるし、問題ないよ」
ディオゴはくつくつ笑いながら、紅茶に口をつけた。
第二王子だった頃に立ったまま紅茶を飲むなんて、周りが卒倒しただろうが、今は咎める人もいない。
隠居生活をしているのは、ディオゴも同じようなものなのに、この男は自ら進んでこの立場にいる。
本人はいたって楽しそうである。
「あなたの兄にはもったいないくらい、今の王妃陛下は国民のために動いてくれるものね」
「ベリアリーチェは、本当に義姉上が好きだねぇ」
「ええ!生きていない心残りといえば、あの方の義妹になれなかったことくらいだわ!」
「そこは、僕と結婚できなかったことだと言ってほしいものだけどねえ」
肩を竦めるディオゴに、ベリアリーチェはまたもや「うげっ」と顔を顰めた。
しかも、今度は声に出していたので、ディオゴも苦笑いする。
「ひどくないかい、その反応」
「あなたと結婚なんて、最初から無理だったのにいまだに言ってくるんだもの。もはや気味が悪いわ」
「一途に君を想っているだけだけど?」
「いい加減、他の嫁をもらいないさいよ」
「君が『ここ』にいる限りは無理だよ」
ディオゴは笑ってそう言うが、そもそも嫁を取る気がないのだとその全身が言っている。
隠居気味の元第二王子が、今更結婚、ましてや後継者ができるなんて、面倒極まりないのもまた事実だ。
だから、誰もディオゴに今を生きろとは言わない。
ベリアリーチェもそれがわかっていて、やれやれと首を振る。
「仕方ないじゃない、どうやって成仏するかわからないんだから」
「一生ここにいてくれると思うと、嬉しい限りだよね」
「私は早く成仏したいわよ」
「僕は君がいないと生きていけないから、そんなことされたら困る」
「……絶対、あなたのせいだと思う。私がここにいるしかないこの現状」
「君の葬式の時に、大泣きした甲斐があったね」
「『僕を置いていかないでくれ、僕も連れて行ってくれ』なんて、卑怯よ」
「だって、本当にそう思っていたんだもの。……それは、今も変わらない」
ディオゴの瞳が揺れているのがわかって、ベリアリーチェはふわっと天井までのぼって旋回した。
まるでディオゴを置いていくかのように、ベリアリーチェはさっぱりしていた。
「じゃあ、私、出かけてくるから」
「ベリアリーチェ」
ディオゴの声が引き止めるようで、ベリアリーチェは緩やかに止まった。
実際に触れることはできないというのに、ディオゴはベリアリーチェに手を伸ばしていた。
「……必ず、帰ってきてね?」
切なげなディオゴの声がして、ベリアリーチェは、はああ…とわざとらしく大きなため息をついた。
ひゅる〜っとディオゴの前まで戻ってきて、顔をグッと近づけた。
唇同士がぶつかりそうな距離だというのに、ベリアリーチェに照れた様子は一切ない。
どちらかというと、ディオゴが動揺して目を泳がせていた。
「あなた、それ嫌味で言っているのよね?そうよね?喧嘩を売っているのよね?」
「ち、違うから…。あと、近いから、その」
「どういうわけか、朝になったらあなたの寝室に戻ってきてしまうこの難儀な体の私に向かって『帰ってきてね』なんて、侮辱かしら?生前に受けていた嫌味くらいムカつくんだけど?」
「本当に君は世間で言われていた噂と違って、ハツラツだよね」
「病弱な娘が性格までしおらしいと決めつけている方がどうかしているわ」
「本当だね。だから、実際に君に会った時に惹かれてしまったんだよ、僕は」
ベリアリーチェは甘い告白を避けるように、体をさすった。
透けている体を、透けている腕が包んでいる。
ディオゴはそれを愛おしそうに見ているだけ。
「かゆいわ…。もう行くからっ」
「今日はどこに行くの?」
「王城に行って、あなたの代わりに情報収集してこようかと思ってたけどやめた」
ベリアリーチェはふわりとディオゴから離れると、ベーッと舌を出した。
15年前と変わらぬ姿に、仕草まで少女のままだった。
「どこまで行けるか旅に出るから、邪魔しないでね」
ベリアリーチェはそう言って、シッシッと手を振った。
ディオゴはそれを見て、微笑んだ。
「今の君なら隣国くらいまでは、軽々行けそうだね」
「ほんと便利な体よね。生前に欲しかったわ、この体。そしたら、ずっとベッドの上にいなくてよかったのに」
「……僕は結局、どこにも連れて行ってあげられなかったからね」
だからこそ、条件付きとはいえ、今は自由にどこまで行けるベリアリーチェのことを止めたくない自分がいるのも、ディオゴの本心だ。
思いに矛盾が生じないなんてことはないと、ディオゴはこの15年で痛感していた。
「行ってらっしゃい、気をつけて行ってきてね。帰りを待ってる」
「あなたは私のことばっかり考えてないで、仕事してなさいよ。偉大なる王様の右腕様?」
それだけ言い残して、ベリアリーチェはキッチンの壁をすり抜けて、ディオゴの前から消えていった。
ディオゴにとって、この瞬間がいつも苦しいことだと、ベリアリーチェは知らない。
自分の胸のあたりをガウンをギュッと握り締めて、ディオゴは息を吐いた。
ベリアリーチェが彼の前からいなくなったのは、葬式のあと、ベリアリーチェが土に埋められてから幽霊として現れるまでの、夜明けまでだった。
たった数時間のことだったが、ディオゴにとっては永遠とも感じられる時間だったのだから。
まさか幽霊としてもう一度彼女に出会えると思っていなかったディオゴにとって、明日の朝、ベリアリーチェが寝室に現れてくれるまでは、15年前のあの引き裂かれるような痛みの時間に逆戻りしてしまう。
「……早く帰ってきてね、ベリアリーチェ。変わらぬ僕の愛おしい人」
ディオゴの独り言が小さく漏れて、今日も1日が始まるのだった。
了
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