第9話 鏡の前に立つ女性が本当に私なのか
三年前のことを、話そう。
俺がロードストーン伯爵邸に赴任したのは、冬の終わりだった。任務は内偵。アルカディアに届くロードストーン領の税収報告が年々不審さを増していたため、姉上──エルザの命令で、隣国の安定を確認する名目で派遣された。身分を隠し、亡命貴族を装い、従騎士として潜り込んだ。
最初の一ヶ月で、ほぼ全てがわかった。
伯爵は無能だった。社交術だけは一流だが、帳簿の読み方を知らない。領地経営の実務は全て、一人の女に丸投げされていた。
それがルシアナ・ヴァンデルだった。
彼女を初めて見たのは、深夜の執務室だった。暗い廊下を巡回していたら、執務室の扉の隙間から灯りが漏れていた。中を覗くと、小柄な銀髪の女が一人、山のような帳簿を前に座っている。寒い部屋だった。暖炉は消えていて、彼女は自分の手を擦り合わせながらペンを走らせていた。
指が赤かった。──冷え切って、霜焼けの一歩手前。
翌日、厨房で彼女の食事の扱いを知った。配膳盆で廊下に放置。冷えたスープと固いパン。使用人たちは「仮の奥様」と呼んで、誰も目を合わせない。
あの国の伯爵家の内政に口を出す権限は、俺にはなかった。他国の貴族の正妻を──形式上は正妻なのだ──第三者が横から どうこうすれば、国際問題になることくらいわかっている。
だから何もできなかった。できたのは、ただ、見守ることだけだった。
彼女は文句を言わなかった。泣かなかった。毎晩、灯りが消えるまで帳簿を書き続けて、朝になったら何食わぬ顔で執務室にいた。厨房の隅で冷えたパンをかじっている背中を見るたびに、拳を握り込む癖がついた。
──惹かれた瞬間を、正確に覚えている。
ある夜。二年目の冬だった。巡回の途中で、また執務室の灯りが点いていた。いつもと同じだ。覗くと──彼女が、小さな鉢植えに水をやっていた。温室から持ってきた薬草の苗だった。
自分用ではない。領地の農民に配布する保管魔法薬の原料だ。来年の収穫のために、冬のうちから苗を育てておく。誰に褒められるわけでもない。アレクシスは存在すら知らない。それでも彼女は、深夜に一人で苗に水をやっていた。
苗に向かって、何か呟いた。小さすぎて聞こえなかった。多分「大きくなれ」とか、そんな単純なことだったと思う。
その背中を見た時「この人を好きだ」と思った。──いや、違うな。そう思ったのは後からだ。あの瞬間は、ただ胸のどこかが歪んで、息がしにくくなった。名前のつかない感情だった。
それから残りの一年間、俺はずっと廊下にいた。
任務は終わっていた。報告書は書けた。帰国してもよかった。それでも帰らなかったのは、彼女がまだあの屋敷にいたからだ。──理由としては不十分だとわかっている。任務外の行動だ。姉上に報告すれば呆れられるだろう。
でも帰れなかった。彼女の灯りが消えるまで廊下に立って、消えたら消えたで、明日もまた灯りが点くかを確認しに来る。その繰り返し。一年間。
離縁の話が出るのは時間の問題だった。アレクシスとオフィーリアの関係は屋敷中が知っていた。いずれ彼が妹を正妻にすると言い出す。その時がきたら──あの人を連れ出す。
馬車を手配した。礼装を用意した。裏口で待った。
彼女が出てきた時、手に持っていたのは使い古しの革鞄一つだった。三年間の全てがあの中に収まっている。そのことが──腹の底から、怒りが込み上げてきた。でも今怒ったら彼女を怖がらせる。言葉を選ばなければならない。
だが選んだ言葉が出てこない。口が開かない。仕方がないから膝をついた。──何を言ったかは、正直よく覚えていない。「お慕いしておりました」とか、そういうことを言った気がする。昔、母上が父上に言ったのを聞いた言葉だ。自分の語彙では足りなくて、借り物の台詞を使った。
彼女は「同情ですわ」と言った。
違う。違うんだ。でもそれを説明する言葉が、俺の中にはない。「違う」としか言えない自分が歯痒くて、結局、行動で示すしかなかった。外套をかけた。馬車に乗せた。それくらいしかできることがなかった。
今もそうだ。彼女がお茶を淹れてくれるのが嬉しい。嬉しいと言いたい。でも口を開くと「旨い」としか出てこない。彼女が笑ってくれるのが好きだ。好きだと言いたい。でも「なぜ笑う」としか言えない。
──いつか、ちゃんと伝えたい。
俺がどれだけ長い間、あの廊下に立っていたか。そこから見えていた灯りが、俺にとって何だったか。
その日が来るまで、もう少しだけ、廊下に立ち続ける。




