第8話 銀盆の上に積まれた封筒の山を見て
朝食室のテーブルに、銀の盆が置いてあった。封筒が積まれている。五通、六通──数えるのが嫌になる量。
「昨晩から本日未明にかけて、私邸宛てに届いたものです。宛先は全て──ルシアナ様」
執事が申し訳なさそうに差し出した。
筆跡に見覚えがある。角の潰れた「ル」の字。三年も横で書類を見ていたから、一目でわかる。アレクシスだ。
封を切る気になれない。けれど一番上の封筒に、宛名の横にでかでかと殴り書きがあった。
『読まなければ、子爵家の不始末を社交界に流す』
脅迫だ。
子爵家の不始末。──妹が花嫁修業先で起こした騒動を、私が全て被って頭を下げた、あの件。実家の体面を守るために身代わりの結婚に応じた、あの元凶。
三年前の私なら、この一文だけで震えていた。
でも。
「ルシアナ様──」
背後からレオンハルトの声がした。いつの間にか後ろに立っていた。手紙の筆跡が見えたのか、彼の顔が冷たく変わっている。
「……昨晩の侵入者については、王都の衛兵に監視を依頼済みです。二度とこの屋敷には近づけない」
侵入者。──アレクシスは昨夜、ここに来ようとしたのか。
「実家に……迷惑が」
「子爵家には既にアルカディアの保護通知を出しました。彼に社交的な影響力は残っていない」
封筒の束を握ったまま、私は暖炉を見た。
赤い火が揺れている。三年間、離れの部屋にはなかった暖炉の火。今の私の生活には、温度がある。
……ねえ、アレクシス。あなたは三年間、一度も私の淹れたお茶を飲まなかったでしょう。冷えたスープを配膳盆に乗せて廊下に放置して、私が何を食べていたかも知らなかったでしょう。
指先が白くなるほど封筒を握り込んで、一瞬だけ──本当に一瞬だけ──古い鎖が足首を掴む感覚がよぎった。条件反射だ。脅されたら従う。言うことを聞けば自分も家族も安全。三年間で身体に染みついた回路。
でも、あの回路の先に何があった? 冷えたスープと、六畳の小部屋と、誰にも名前を呼ばれない日々だ。
「……捨てます」
封筒の束を、暖炉の火に放った。
紙が端から茶色くなって丸まり、灰になって崩れていく。「ル」の字がふっと消えた瞬間、胸の中の何かも一緒に燃えた気がした。
「よく決めましたね」
振り返ったら、レオンハルトが黙って紅茶を注いでいた。──ティーポットを、自分の手で。
「この紅茶」
「ん」
「やっぱり、ご自身で淹れてくださっていたのですね。ずっと使用人の方だと思っていました」
彼が目を逸らした。耳が赤い。
「……好みに、合わせたかった。だけだ」
だけだ、じゃないでしょう。毎朝、私が起きる前に自分で淹れていたってことでしょう。それがどれだけ──。
何も言えなかった。ただ「美味しいです」とだけ言って、カップを両手で包んだ。手が温かい。
夕方、王城の使いが仰々しい封筒を持ってきた。数日後に開かれる国王主催の夜会への招待状。魔法薬の国家特許の承認を祝う晩餐に、私を主賓として招くという。
「あの男も、見栄を張って出席するだろう」
レオンハルトの声は静かだった。




