第6話 私のような凡庸な者に
レオンハルトの私邸で暮らし始めて、二週間が経った。
毎朝、侍女たちに起こされる。温かい湯で顔を洗い、ちゃんとした服を着て、ダイニングで朝食を食べる。帳簿を整理して、温室でハーブの世話をして、夕方になったら茶を淹れる。
ただそれだけの日常が、まだ時々嘘みたいに感じる。
今朝も同じように書斎で帳簿を広げていたら、レオンハルトが「書類を王都の官庁まで届けてきてほしい」と言った。
「一人では心許ないだろうから、私も──」
「大丈夫です。地図を頂ければ一人で参れますわ」
「……そうか」
何か言いかけて飲み込んだ顔。この人はよくこれをやる。言葉が出口で詰まって、結局飲み込んでしまう。言いたいのは多分「一緒に行きたい」とか「心配だ」とかそういうことなんだろうけど、本人は絶対にそう言わない。
護衛を二人つけられて、王都の行政区まで馬車で向かった。
窓の外を流れる街並みは、伯爵領とは全然違う。店の看板が色とりどりで、道を歩く人が多い。パン屋の前を通った時に焼き立ての匂いが車内に流れ込んできて、無意識に鼻を鳴らしてしまった。
──買い食いしたいな。
思ってから、びっくりした。「買い食いしたい」なんて欲求を、私はいつ以来抱いた? 伯爵邸では自由に使える一銭もなかったから、欲しいものを欲しいと思う回路自体が錆びついていたのに。
帰りに、レオンハルトの分も何か買っていこうか。──何が好きなんだろう、あの人。甘いものは食べるのかな。
考えてから、気づいた。私はあの人の好みを全然知らない。紅茶の好みすら知らない。一方で、彼は私の好みの茶葉を完璧に再現してくれている。
その非対称さが、胸のどこかにちくりと刺さった。
◇◇◇
官庁から戻ると、レオンハルトが庭にいた。
温室の前の石のベンチに座って、手入れ用の道具を磨いている。──いや、磨くふりをして、温室の方をちらちら窺っていたのかもしれない。私が馬車を降りたのを見た瞬間、慌てて手元に視線を落とした。気づいてないと思っているんだろうか。
「ただいま戻りました。書類は無事に届けてきましたわ」
「……ああ。ご苦労だった」
素っ気ない声。でも手元の布が動いていないのは見えている。
「あの。帰りにパン屋の前を通ったのですが、レオンハルト様は甘いものはお好きですか」
「……なぜ」
「次に出かける時に、お土産を買ってこようかと思いまして」
数秒の沈黙。それから、ぼそりと。
「……嫌いではない」
嫌いではない。好きとは言わない。──この回りくどさ。
おかしくて、小さく笑ってしまった。彼がちょっとびっくりした顔をした。
「何故笑う」
「いえ。嫌いではない、とのことなので、次は何か甘いものを」
「……勝手にしろ」
目を逸らされた。夕日のせいか、耳の縁が赤い。──私はなぜかその赤みをじっと見てしまって、自分で自分の視線の動きに戸惑った。
◇◇◇
夜。書斎でハーブの配合メモを書いていたら、手が止まった。
今日、帰り道の馬車の中で、ずっとレオンハルトのことを考えていた。甘いものは好きなのかな、とか。何色が好きなんだろう、とか。朝起きた時にまず何をするんだろう、とか。
──なんでこんなことが気になるのか、自分でもわからない。
気になることが気になる、という状態。思考が変な場所をぐるぐる回っている。
ペンを置いて、左手の指先を見た。薬を塗ってもらった日の感触がまだ残っている。硬い手のくせに、やけに慎重だった指の動き。
指先を握って、開いた。何の意味もない動作を、もう何度目かわからない繰り返し。
──これが何なのか、名前をつけたくない。
つけなければ、ただの「居候の日常」のままでいられる。つけてしまったら──多分、怖い。何が怖いのかもわからないけど、とにかく怖い。
ペンを取り直して、配合メモの続きを書いた。字がいつもより曲がっていた。




