第4話 ずらりと並んだ分厚い帳簿の背表紙を見て
帳簿の背表紙がずらりと並んでいるのを見た瞬間、口元が緩みそうになった。
レオンハルトの私邸の書斎。天井まで届く棚に、数年分の帳簿がぎっしり詰まっている。ぱらぱらとめくる。──ここ。この勘定項目、三つの部門で同じ経費が重複している。横領ではない。計算方式が古いせいで無駄が折り重なっているだけ。直すのは難しくない。
ペンを取って白紙に整理し直す。三年間、伯爵領の底なしの赤字と格闘してきた身には、この種の「非効率を削る作業」は正直楽しい。数字の中にいる時だけは、余計なことを考えずに済む。
頭のどこかで、まだ温かい朝食の余韻がじんとしていた。
窓の外が赤くなっていた。もう夕方か。
「ルシアナ様?」
扉が開いて、視察帰りらしいレオンハルトが入ってきた。
「すみません、時間を忘れて」
「いや……それは」
広げてある紙を覗き込んで、彼の動きが止まった。数年分の収支の矛盾と、年間二割の予算を圧縮できる運用案。私にとっては半日の作業だが、どうやら普通の文官の仕事量ではないらしい。
「……率直に訊く。伯爵家でも、ずっとこれを一人でやっていたのか」
「はい。それが身代わりの対価でしたから。アレクシス様もオフィーリアも、数字は頭が痛くなるとおっしゃっていたので、自然と」
彼の顔が険しくなった。眉間に縦皺があるのを初めて見た。
「君の……その」
言葉を探している。見つからないまま、眉間の皺がさらに深くなった。
「──安売りするな」
結局、出てきたのはぶっきらぼうな言葉だった。言いたいことの半分も言えていない顔をしている。
でも、その不器用さが、なんだか可笑しかった。アレクシスなら美辞麗句を並べて「素晴らしい」と言い、翌日には忘れる。この人は短い言葉しか出てこないけど、多分、明日も覚えている。
(嬉しい、と思った。それだけだ。能力を認めてもらえたことが嬉しいだけで、それ以上──多分、ない)
◇◇◇
夕方、庭に出た。
薬草の匂いを嗅ぐと落ち着く。伯爵領にいた頃からの癖だ。レオンハルトの私邸の庭は広くて、花壇の奥に見覚えのあるハーブが自生してた。
「本当にこんなに摘んでしまってよかったのですか」
後ろで腕を組んで立っている彼に訊くと、真顔で頷かれた。
「私の庭だ。好きに使ってくれ」
……もうちょっと何かないのか。まあいい。ありがたく使わせてもらう。
硬い茎を素手で折ろうとした時、鋭い葉先が指を掠めた。赤い粒が浮く。大した怪我じゃない。伯爵邸ではもっと酷い切り傷を放置していた。
振り向く前に、レオンハルトが距離を詰めていた。
大きな手が私の手首を掴む。懐から小さな傷薬の瓶を出して、指先に丁寧に薬を塗り始めた。力の入れ方がやけに慎重で、皿でも洗っているみたいにゆっくりしている。
「これくらい自分で──」
「黙って」
黙った。
至近距離。外の風で彼の後れ毛が揺れている。──耳、赤くないか。夕日のせいかもしれないけど。
塗り終わるまで手を預けていた。何か言おうとして何も浮かばなくて、結局「ありがとうございます」しか出てこなかった。
自室に戻る廊下で、無意識に薬を塗られた指先を握ったり開いたりしている自分に気づいて、変な感じがした。何が変なのかは、わからない。
◇◇◇
夜、部屋の扉を叩いたのは採寸用の侍女たちだった。
王宮御用達の仕立屋のカタログと布地の見本。「客将としての体裁を整えるため」と執事に言われると、断る理由がない。
鏡の前でメジャーを当てられた時、侍女たちの手が止まった。
──伯爵邸の三年間が刻んだ、細すぎる手首。浮き出た鎖骨。日に当たらなかった肌。
侍女長が何も言わずに鼻を啜って、無言のまま採寸を続けた。他の侍女も目が赤い。
なぜ泣かれているのかわからない。私は「お礼を言います」と言って、それだけで精一杯だった。
同じ頃。書斎のレオンハルトは、あの夜にルシアナが雑草から練り上げた小さな薬瓶を手の中で転がしていた。
──何かに気づいたらしい顔で、急ぎの手紙をしたため始めた。宛先は、アルカディア王国。




