第3話 温かい朝食と、置き去りにされた伯爵邸
焼き立てのパンの匂いで目が覚めた。
柔らかい。シーツが柔らかい。顔を埋めた枕は日干しの匂いがして、掛け布団の重みがちょうどいい。伯爵邸のあの薄っぺらい敷布とは厚みが全然違って──
鼻の奥がつんとして、慌てて啜った。寝起きに泣くのはみっともない。
「おはようございます、ルシアナ様。お着替えのお手伝いに参りました」
カーテンの向こうから三人の侍女がにこやかに顔を覗かせた。洗顔用の湯桶、歯磨きの粉、着替えの手伝い。何から何まで至れり尽くせりで、私はただ「もう結構ですわ」を繰り返すしかできなかった。
「とんでもございません。旦那様より、くれぐれも丁重にお仕えするよう仰せつかっておりますので」
侍女長が微笑む。──この声のトーン。敬意のある声。伯爵邸では、使用人からこの温度で話しかけられたことがない。
(身の丈に合わないものを受け取ると、あとで痛い目を見る。それは三年かけて覚えた)
でも断るのも失礼だし、彼女たちの仕事を奪うことになる。結局、されるがままに身支度を整えてもらった。
◇◇◇
ダイニングに降りると、レオンハルトが既に席にいた。昨夜の礼装ではなく、簡素な白シャツに革のベスト。それでも椅子の引き方が妙に堂に入っている。従騎士の習慣とは思えない。
「おはようございます。昨晩は眠れましたか」
「はい。こんな部屋までいただいて、本当に」
椅子に座ると、料理が運ばれてきた。
湯気が立っている。──それだけのことが、目に沁みた。
ふっくらしたオムレツ。こんがり焦げたトースト。レンズ豆のスープ。スプーンを入れると、とろっとした粘度が腕に伝わる。
口に入れた。
玉葱が甘い。とろとろに溶けるまで煮たやつ。最初に温かさが舌に来て、それからじわっと甘みが広がる。飲み込むまでの間、舌がずっと味を追いかけている。
伯爵邸のあのスープとは同じ名前のものだとは思えない。あっちは脂が浮いて冷え切ったやつを、机の隅で一人で啜るだけだった。
それから紅茶のカップを持ち上げて、一口含んだ瞬間──手が止まった。
「……この紅茶は」
知っている味だ。
伯爵領の温室の片隅で、私が暇つぶしにブレンドしていた茶葉。売り物にもしていない、配合メモすら他人に見せたことがない、私だけの味。
「お気に召しましたか」
「ええ……前に、お客様にお出しした時の味を覚えていてくださったのですね」
壁際で無言のまま立っていたあの日。私が來客をもてなすために淹れた一杯を、この人が覚えていた?
「……それだけ、ではないが」
レオンハルトが微かに眉を寄せた。何か言おうとして、言葉が見つからなかったようだ。黙り込んで、紅茶を一口飲んだ。
──何がそれだけではないのか、よくわからない。でも訊くのも怖い。話題を変えた。
「あの、レオンハルト様。私邸に置いていただけるだけでありがたいのですが、何もせず食事を頂くわけにはまいりません。何かお仕事をさせてくださいませんか」
「仕事?」
「掃除でも庭仕事でも」
少し考え込んでから、書斎の棚を指差した。
「……帳簿管理が追いついていない。私邸の管理は私の管轄だ。機密はない。見てもらって構わないが──無理はしなくて」
最後の語尾が消えた。言い慣れない気遣いを、口の中で噛み潰したような消え方だった。
仕事を「恵む」のではなく、「対等に頼む」形にしようとしている。──この人は不器用だけど、気遣いの方向は正確だ。
◇◇◇
「くそっ、なんなんだこの数字は!」
伯爵邸の執務室。アレクシスが書類の束を投げつけた。
ルシアナが置いていった引き継ぎ書類。三年間かけて彼女が独自に構築した、高度に圧縮された帳簿の体系。口頭での引き継ぎなしに、これを読み解ける人間はこの屋敷にいない。
「あいつ、わざと俺に読めない書き方をしたんだ」
本気でそう信じている顔だった。違う。あなたが引き継ぎを断ったのだ。──と言う人間は、もうこの屋敷にいない。
数日もすれば泣きつきながら戻ってくるだろう。実家に見放された女に行き場などないのだから。
「旦那様」
蒼ざめた顔のセバスチャンが転がり込んできた。
「秋の納税に関する重要書類が、どこにも見当たりません。奥様が管理されていた分が──」
「なんだと?」
「ルシアナ様に至急お戻りいただかないと──」
「馬鹿を言え。あんな女に頭を下げろと?」
「あーれくー! 今日のお出かけ、まだー?」
甘い匂いと共にオフィーリアが飛び込んできた。新しいドレスの裾を揺らし、アレクシスの腕にぶら下がる。
「……ああ。書類なんて後で探せばいい。セバスチャン、適当にやっておけ」
「し、しかし旦那様」
主は既に聞いていなかった。オフィーリアの腰に手を回し、笑いながら廊下に消える。
無人の執務室。セバスチャンの溜め息が、天井の高い部屋にぽつんと残された。




