第12話 気安く触れるな
鏡の中の女を、三度見した。
群青のドレス。──布がこんなに滑らかで軽いものだとは知らなかった。伯爵邸のドレスは二着しかなくて、どちらも裾がほつれていた。今着ているこのドレスは値札を見ていないけど、多分あの二着とは桁が三つくらい違う。
髪を結い上げると、鎖骨が見えた。前はもっと骨ばっていたはずだ。数週間でこんなに変わるものなのか。
「支度はできましたか」
扉の向こうから声がした。レオンハルト。
深呼吸してから扉を開けた。
彼は──銀の刺繍が入ったアルカディアの正装を着ていた。軍服に近い意匠。肩幅が広いから、武骨な銀糸がやけに似合う。
見惚れた。またやった。三秒くらい黙って見てしまって、慌てて目を逸らした。
「その……きれいだ」
彼が言った。「きれいだ」だけ。語彙が少ない。でも視線がまっすぐで、嘘をつく余地がなかった。
「ありがとうございます。レオンハルト様も、とても」
「ん」
会話が下手すぎる。二人とも。
馬車に乗り込んだ。揺れる車内で向かい合って座る。沈黙が続いた。気まずいのではなく、二人ともただ言葉が見つからないだけ。
彼が手を伸ばして、私の右手を取った。
指先に、唇が触れた。──手の甲ではなく、指先。薬草の汁でいつも荒れていた場所。
「……っ」
声にならなかった。耳が燃えるように熱い。彼の耳も赤い。お互い顔から火が出そうな状態で、馬車は王宮に向かった。
◇◇◇
大広間の扉が開いた。
視線が集中する。ざわめきが凪いで、沈黙が落ちた。
レオンハルトが堂々と私の手を引いて歩く。「ただの従騎士」と噂されていた男の、王族としての正装。追い出された元伯爵夫人の、見違えるような姿。──貴族たちの目が丸くなっているのが見えた。
注目されるのは苦手だ。でも彼の手が私の指をしっかり握っていて、その力加減だけで「大丈夫」と言われている気がした。
会場を一周した頃、視界の端に異物が映った。
アレクシス。
柱の陰にもたれて、こちらを睨んでいる。豪華な礼服は着ているが、服に人間が負けている。頬が削げて、目の下に隈。あちこちに借金を申し込んで回っている──という噂が、近くの貴婦人たちのヒソヒソ話から聞こえた。
「あれ、ロードストーン伯でしょう。借金まみれなのに見栄張って来たのかしら」
「奥様に逃げられて、使用人も全員辞めたって」
「自業自得よ。あの有能な奥方を追い出すなんて」
アレクシスの耳にも聞こえているはずだ。彼の拳が白くなっている。
──そして、爆発した。
「ルシアナ!」
人混みを押しのけて、真っ直ぐこちらに向かってきた。ワインが足元にこぼれるのも気にしていない。
「お前は私の妻だ! 今すぐ戻って領地を」
私の腕を掴もうとした手が──空を切った。
乾いた音。
レオンハルトがアレクシスの手首を弾いていた。速すぎて、何が起きたか見えなかった。
「気安く触れるな」
低い声。路傍の虫を見るような、冷たい目。
「彼女は我が国の保護下にある。指一本、許さない」
「なっ……貴様、ただの雇われ騎士の分際で──」
「何事か」
重厚な声が、会場の奥から響いた。
群衆が割れる。その向こうに──この国の国王陛下と、扇を優雅に揺らすエルザ殿下が並んでいた。
「でん、か……?」
アレクシスが、間の抜けた声を漏らした。
「おや、ロードストーン伯爵。ご存知なかったのかね」
国王が、かすかに口角を上げた。
「君が三年間雇っていたその騎士は──隣国アルカディアの第三王子、レオンハルト・フォン・アルカディア殿下だ」
アレクシスの顔から色が消えた。蝋みたいに白くなって、膝が笑っている。
雇い人だと思い込んでいた相手が、自分の遥か上の──他国の王族だった。三年間「使い走り」のように扱っていた男が。
大広間の空気が、ぴしりと張り詰めた。




