第11話 名前をつけてしまったら
翌朝、目が覚めて、天井を見た。
昨夜のことが全部夢だったらどうしよう、と思った。でもシーツを握る手に力が入りすぎていて、指が攣りそうになっていて──ああ、現実か。
顔を洗って、鏡を見た。目が腫れている。泣いたからだ。三年分泣いたのだから、そりゃ腫れる。冷水で何度も叩いたけど、赤みは取れなかった。
ダイニングに降りるのが怖い。
怖い、というのは正確じゃない。──彼の顔を見るのが、怖い。昨夜、胸に額を押しつけて泣いた。あの人の不器用な腕に抱かれて、体温を感じて、心臓の音を聞いた。
それを思い出すだけで、耳が熱い。
侍女たちが身支度を手伝ってくれている間、ずっと上の空だった。
「ルシアナ様、お具合が悪いのですか?」
「いえ。大丈夫です。少し……寝不足で」
嘘だ。ぐっすり眠った。泣き疲れて、あんなに深く眠ったのは何年ぶりかわからない。
ダイニングの扉を開けた。
レオンハルトが、いつもの席にいた。白いシャツにベスト。顔は──普通だ。いつもと同じ無表情。昨夜あんなことがあったのに、何事もなかったような顔をしている。
「おはようございます」
「ああ」
ああ、だけ。いつも通り。
……昨夜の告白は夢だったのでは? いやでも目が腫れているし。
席に座る。紅茶が運ばれてくる。いつもの味。──彼が淹れた味。
カップを持つ手がぎこちない。いつもと同じ動作のはずなのに、指が強張る。
「……何か」
「え?」
「俺の顔に何かついているか」
「いいえ! 何も!」
見てた。無意識に彼の横顔を見ていた。ばれた。
目を逸らす。オムレツを切る。切ったオムレツをフォークに刺す。口に運ぶ。噛む。飲み込む。──全部の動作がぎこちない。ロボットが食事をしているみたいだ。
「ルシアナ様」
「はい」
「昨晩の……ことだが」
フォークが皿に当たって、かちゃんと音がした。
「俺は、あの──」
彼も言葉に詰まっている。お互い目が合わない。二人とも手元を見ている。なんだこの空気は。
「あの。レオンハルト様」
「ん」
「私は……昨晩のこと、嬉しかったです」
嬉しかった。──それは本当だ。でもそれだけでは足りない。足りないのはわかっているけど、正確な言葉が出てこない。
「嬉しかった、なら……よかった」
彼の耳が赤い。顔は無表情のまま。耳だけ赤い。──この人の感情表現は本当に耳に集中するんだな。
オムレツの残りを食べた。味がしなかった。いや、味はしていたはずだ。でも味よりも、向かいの席の彼の気配ばかりが気になって、舌が仕事をしない。
◇◇◇
午後から、夜会の準備が始まった。
仕立屋が最終調整に来て、ドレスの裾を直している間、私はぼんやり鏡を見ていた。
──好きだった。ずっと。
あの言葉が、頭の中で何度もリピートしている。消えない。消したくない。
三年間、誰かに好きだと言われたことがなかった。アレクシスは契約結婚だから当然として、実家の両親からも、妹からも。私は常に「予備」で「身代わり」で「あの地味な方」だった。
それが──。
この人は、あの暗い廊下に立っていた。灯りが消えるまで。一年間。
「好き」という言葉は、私の辞書では「他人が自分に使うはずのない言葉」だった。それを使われて、受け取り方がわからなくて、とりあえず泣いた。
でも今は──泣き終わった後に残ったものが、胸の中でじんわり温かい。溶けかけた飴玉みたいに甘くて、ちょっとだけ喉に引っかかる。
……これが、恋なのか。
名前をつけた。つけてしまった。
つけた瞬間、もう元には戻れないと思った。
(怖い。でも──怖いままでいいか。怖いと思えるのは、失いたくないからだ。失いたくないものがあるのは──多分、幸せなことだ)
仕立屋が裾を直し終えた。鏡の中の私は、数週間前とは別人だった。頬にも腕にも肉がついて、肌に生気が戻っている。温かい食事と、穏やかな生活と、あの人の存在がくれたもの。
「ルシアナ様、とてもお美しいです」
侍女長が目を潤ませた。
──もう、身代わりじゃない。私は、私の意志で、この人の隣に立つ。
夜会の日は、明後日だ。




