第10話 がらんどうの屋敷
「嘘でしょう!? 投資が全部パーですって!?」
伯爵邸にオフィーリアの絶叫が反響した。
エルザ殿下の予言通りだった。アレクシスが全財産を注ぎ込んだ海外貿易は完全に破綻。船は沈み、保証人の伯爵家には借金だけが残った。
「落ち着け。領地の一部を──」
「嫌よ! 貧乏な伯爵夫人なんて笑い者よ! お金がないならあなたと一緒にいる意味がない!」
オフィーリアは宝石箱だけ小脇に抱え、振り返りもせず実家に帰った。
追いかけなかった。追いかける気力がなかった。
その背中を見送った瞬間から、屋敷が壊れ始めた。
セバスチャンが銀食器を鞄に詰めていた。メイドたちは燭台と絨毯を抱えて裏口から消えた。料理長は包丁だけ持って黙って出た。
「お前ら……!」
「旦那様。今月も先月も給金を頂いておりません。これらを退職金代わりにさせていただきます」
セバスチャンの声に、三十年分の疲労が滲んでいた。一礼もせず、門の外へ消えた。
がらんどうの廊下。暖炉の火も消えて、窓から入る冷気だけが床を這っている。
誰もいない。
愛情だと思っていたもの。忠誠心だと思っていたもの。全部、金と見栄に対して払われた代金だった。ルシアナだけが──あいつだけが、報酬もなしにこの屋敷を回していた。
無人の執務室。机の上にまだ放置されている引き継ぎ書類。ルシアナの筆跡。丁寧で几帳面で、三年分の仕事が詰まっている。
冷たい石の床に膝をついた。
「俺は……なんということを」
◇◇◇
その夜。王都。私邸の温室。
ガラス天井から月の光が落ちて、薬草の葉に白い斑点を作っている。
特許の正式手続きが完了した晩だった。レオンハルトにお礼を言おうと温室で待っていたら、彼が入ってきた。
「レオンハルト様。本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げた。
「私みたいな──ただの身代わりだった者に、あれだけの」
「身代わり──」
彼の足が止まった。振り返った顔に、今まで見たことのない表情が浮かんでいた。怒りに近い。でも私に向けたものではなかった。
「君は、まだ、そういうことを言う」
「え」
「三年前。──いや」
言葉を探している。この人はいつもそうだ。言いたいことの半分も出てこなくて、残りが全部喉に詰まる。
「……君の妹のやらかしを、君が被ったこと。知っている」
えっ。
「誰もいなくなった執務室で、夜中まで帳簿を書いていたこと。知っている。──深夜の灯りが消えるまで、俺は廊下にいた」
頭の中が空白になった。
知っていた。この人が。ずっと。
誰にも言わなかった。嘆きもしなかった。心を閉ざして蓋をして「身代わりだから当然」と自分に言い聞かせていた三年間を──この人は、壁の向こうから見ていた。
「同情ではない」
彼の声が震えていた。──この人の声が震えるのを、初めて聞いた。
「可哀想だから助けたのではない。君だから……ルシアナ・ヴァンデルという人間だったから、ずっと」
言葉がまた詰まった。顔が苦しそうだ。言いたいことの十分の一も出てこないのが本人にもわかっていて、でもどうしようもなくて。
「──好きだった。ずっと」
ぶっきらぼうだった。「お慕いしておりました」とは似ても似つかない、不格好な言葉。
でも──。
あの夜の裏口で聞いた時よりも、ずっと重かった。
涙が零れた。止められなかった。三年間、一度も泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。
気がついたら、彼の胸に額を押しつけていた。大きな手が背中に回って、ぎこちなく──本当にぎこちなく──肩を抱いた。力の加減がわからないみたいに、強すぎたり弱すぎたりしている。
下手だな、と思った。抱きしめるのも下手なんだ、この人。
でも温かい。それだけで十分だ。
◇◇◇
温室の外から、騒がしい声が聞こえた。
「ルシアナ! どこだ、ルシアナ!」
門前にしがみつく男。泥だらけの髪。ほつれた服。──アレクシスだった。
借金取りから逃げ回る途中、王都で噂を聞いたのだろう。元妻が大層な身分の男に庇護されているという話を。
「戻ってきてくれ! お前がいないと何もうまくいかないんだ!」
警備兵に両腕を掴まれながら、わめいている。
レオンハルトが私の前に立った。温室の入口を塞ぐように。
「追い返せ」
短い声。それだけで十分だった。
彼の背中に触れた私の指先は、震えていなかった。




