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役目は終わりましたね。~ずっとあなたをお慕いしておりました~  作者: 九葉(くずは)


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第1話 役目は終わりましたね

「真実の愛を見つけたんだ。君との契約結婚は、今日で終わりにしよう」


 マホガニーの執務机越しに、夫──ロードストーン伯爵アレクシスが、芝居がかった口調でそう言った。


 暖炉が赤く唸っている。上等の絨毯の上を、揺らめく影がゆっくりと這う。この屋敷で温度がちゃんとあるのは、執務室と厨房と、あの人の寝室だけだ。私の部屋は冬でも素足で歩ける程度の暖がない。


 彼の右腕には、私の実の妹オフィーリアが蔦みたいにしがみついていた。


「お姉様、本当にごめんなさいね。でも、彼ったらどうしても私じゃないと駄目だっていうの」


 ごめんなさいの語尾が跳ねている。あの子が本当に申し訳なく思う時は声が低くなるのを、姉は知っている。今のこれは、観客を意識した台詞回し。甘ったるい香水がこちらまで匂って、鼻の奥がつんとした。


 私は、オフィーリアの手入れの行き届いた金の巻き毛と、自分のくすんだ銀髪をちらりと比べ──やめた。三年前にやめたことを今さら繰り返してどうする。


「承知いたしました」


 完璧な角度でカーテシーを落とす。膝を折り、スカートの裾を親指と人差し指の腹だけで摘む。つまらないことだけど、こういう所作だけは崩したくなかった。


「──なっ」


 アレクシスの眉が跳ねた。


 泣いて縋りつくか、怒号のひとつも上げるか。そういう反応を期待していたのだろう。哀れな元妻が取り乱す姿を、隣の愛人に見せつけるところまでが今日の演目のはずだった。


 台本にない受け答えをされると、この人はすぐ顔に出る。三年も横にいれば嫌でもわかる。


 私はスカートのプリーツを整えて立ち上がり、持参していた分厚い書類の束を、執務机の隅にことりと置いた。


「離縁の合意書には、既に私の署名が済んでおります。それからこちらは、過去三年分の領地経営の帳簿と税収管理の引き継ぎ書類です。独自の記法を用いておりますので、解読表も添えました」


「ふん。これだけ丁寧にまとめてあれば、誰でもできるだろう」


 書類を親指で弾いて寄越す。どさり、と重い音が机を滑った。中身を一頁も開いていない。


(……三年分を、一秒も見ないのか)


「体系が複雑ですので、最低でも数週間は口頭での引き継ぎの時間を──」


「不要だ。お前は今日中にここを出て行け。目障りだ」


 苛立ちが声に滲んでいる。自分の台本を壊されたのが気に食わないらしい。


「契約に則り、直ちに退出いたします。あなたのご健勝をお祈りしておりますわ」


 もう一度カーテシー。踵を返す。


 壁際の大きな影が視界の端を掠めた。従騎士のレオンハルト。この人はいつもここにいる。壁と同化したように無口で、ただ主の命令を待っている──ように見える男。


 今日も何も言わなかった。ただ、いつもと違ったのは、あの目が私の手元をじっと追っていたことだ。インクと薬草の痕で荒れた指先を、妙に長いこと見ていた。


 ……護衛だから、不審な動きがないか確認しているだけだろう。



◇◇◇



 廊下を歩くと、途端に温度が落ちる。


 暖炉の恩恵は執務室まで。離れの私の部屋に続く使用人用の通路は、真冬の底冷えだった。すれ違うメイドは一人残らず目を逸らし、足早に駆けていく。もう「新しい奥様」への挨拶の練習でも始めているのだろう。


 途中、通路の隅に見覚えのある配膳盆が転がっていた。


 脂が白く固まった根菜のスープ。指で弾いたら割れそうなほど乾いたパン。


 三年間、これが私の「伯爵夫人としての食事」だった。温かい状態で口にしたことは、たぶん一度もない。


(ねえ、知ってた? スープって温かいと美味しいらしいの。私はよく知らないけど)


 自分に毒を吐いて、口の端が歪んだ。笑ったのか、泣きそうだったのか、自分でもわからない。どっちでもいい。


 妹は昔からそうだった。天真爛漫に欲しがるオフィーリアには何でも与えられ、黙って我慢する私は常に「予備」だった。政略結婚の駒になったのも、妹の不始末の身代わりだ。


 いつか本命に席を譲る。そういう契約だと割り切っていた。


 荷造りは、とっくに済んでいる。ベッドの下の使い古した革鞄。中身は地味なドレスが二着と、自分で調合した魔法薬の配合メモ。持参金は返還されない。手元にあるのは路銀だけ。


 鞄を肩にかけた。部屋を見回す。三年暮らした六畳ほどの小部屋。窓の桟に薬草の鉢がひとつ。


 持っていこうかと一瞬迷って、置いていくことにした。ここはもう私の場所じゃない。



◇◇◇



 正面玄関を使えば、また面倒なことになる。


 私は裏口から出ることにした。日が傾いて、中庭の木が長い影を引いている。


 重い木戸を押し開けた。


「──っ」


 視界が、銀色で塞がった。


 そこに立っていたのは、壁みたいに大きな男だった。


 レオンハルト。さっき執務室にいたはずの、あの従騎士。だが今の彼がまとっているのは、いつもの飾り気のない革鎧ではない。


 鈍い銀色の礼装。伯爵家の雇われ騎士の装備とは格が違うと、門外漢の私にもわかった。仕立てが全然違う。


「レオンハルト様……? なぜ、ここに」


 彼は答えない。


 夜の出口に立ち塞がるように、私を真っすぐ見下ろしていた。


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