山の中で出会ったモノ
挿絵は実際に釣りに行った際に家族が自撮りをした写真からイラスト化した物です。
俺は夕方の今、新東名高速道路を走っている。数時間かけて山奥に渓流釣りに行くのだ。隣には妻の真白がいる。助手席で寛いでいる。
彼女は黒髪のボブカット、パッチリとした黒曜石のような瞳、素朴な可愛らしさがあった。野外活動だとファッションというより、虫や蛇対策の格好なので素朴さが優先となる。
秋に差し掛かっているので、山々が緑から紅葉へと色を変化させつつある。澄んだ空気は俺たちをリフレッシュさせてくれる。夜は虫やカエル、野鳥の鳴き声が鳴り響き、ランダムなコンサートを開催する。
途中でSAのトイレ休憩をはさみ、高速から降りた。真白と俺は結婚して十年、結婚してからは一緒に釣りに来るようになった。
その後、更に山奥へと車を進め、朝から攻めるポイントの傍まで来て、山道の空き地に車を留めたのは23時30分ごろだった。
「ふぅ、長い運転だった……」エンジンを切って隣の真白を見る。音楽はかけたままだ。
「お疲れさま、真さん」と、ニッコリと微笑む真白。
「真っ暗だな」と運転席の窓を開け上空を眺める。自然の匂いがした。雨の気配はない。
「空……見てるの?」
「ああ。雨の気配があるかどうかね」
「いつも新鮮よね、山奥って」
「今夜は月が出ていないから闇夜になりそう」
都会では真っ暗になるという野外の状況なんて経験することもない。実際の闇夜というのは、自分の手すら見えないほど真っ暗であり、懐中電灯が無ければ歩いているだけでも石に躓いて転んでしまう。
この山道は地元住人用の裏道であり固い土で構成されている。
車のエンジンを切ったタイミングでヘッドライトも消えるので、いきなりの暗闇が俺たちの周囲を包む。
「スゲェ……真っ暗だ」
「いつもは月明かりがあるものね。こんなに真っ暗になるのは初めてかも」
真白から思わず感嘆の声が洩れた。
明るくなってきた。朝になり鳥の声がし始めた。もう釣りのポイントに降りられる。妻はボンヤリしているが、声を掛ければ反応する。
俺も頭の中に煙が俟っている感じであったが、釣りの開始。車から少し歩いて藪漕ぎをして崖を降りると俺秘蔵の絶好のポイントだ。
「取り合えず降りて行こう。早いとこ藪を抜け出さないといけないからね」
軽く降りることの出来そうな場所を探し、崖に縫い込まれているロープを使って降りていく。
道とは言いにくい藪道が続いていた。都会のコンクリートではなく、土と落ち葉が道を作り出しているので、踏み締めれば地面は柔らかくスポンジのように押し返してくる。
「買ったばかりのウェーダーが土で泥だらけだ」
ウェーダーどころか上のシャツまで茶色い土で彩られている。しかも土は水分を多く含んでおり、こびりつくように付着していた。これ以上後悔しないように思いきって進みだした。土や枝が跳ね、草木が服に纏わりついて、ようやく抜け出せる事が出来た。
いつもならポイントを一望する事が出来るのだが……。
「こ、これは……」
不運なことに濁流が見えた。昨夜は月が出ていなかった。上流域で豪雨があったのだろう。それが下流側にあるここに水を溢れさせていた。
「ダメだな、撤退だ……」ガッカリである。でも渓流ではよくある事。
「……うん」
真白も反応するが、いつもの様子と違う。せっかくの機会だから宿泊施設でゆっくりとしよう。なんだか調子が悪いし、俺しか気づかなかったらしい昨夜の出来事も気になっている。不安は早く解消するに限る。
「車に戻ろう、そして今日はゆっくりしよう」
「……ねぇ、真さん、私が酷いことを男の人にして、その人と二度と会えなくなる事になったら……どう考えて対処すればいいのかな? 心づもりは何があるかな? その人を放っておいて勝手に前を向いた方がいいのか、または後悔を解消するのが先で好いのかな?」
「真白、急に何を言っているんだ?」
大切な男に対して酷いことをした? 何だそれ。十数年前の元カレのことか?
真白は何も言わず俺に背を向けて先に歩き出した。いつもの真白の雰囲気じゃない。俺は真白を追いかけようとしているのに、同じように彼女に背を向けて歩き始めた。
何をしているんだ俺は。なぜ反対に歩き始めてる? なんだかおかしい俺の精神を理性で閉じ込め、真白へ向かって走って追いついた。
「おい真白……」
「ねぇ、真さん……貴方ならどうしますか。一生かけてその人のために償うのが一番ですよね」
真白が無表情のまま呟いた。
「償う……何を? おい」
さっきから意味が分からなかった。
「私が悪いのです。私が犯した過ちがなければ、彼を悲しませる事は決してなかった。彼は不幸にならなかった。それなのに自分は幸せに生きているだなんて、許されませんよね」
そう言った真白は冷たい表情をしていた。一瞥し愛情の欠片もない仕草をしている。
俺は思わず顎に手をやり真白の言葉を理解しようとしたが、同時に今何が起きているのか観察していた。明らかに今の真白はおかしい。俺もさっき変な行動をした。
「寝る前に錯乱するような変なもの食ったっけ……?」
【愛妻に異変】
「それでは戻りましょう。早くお風呂に入って身綺麗にしましょう」
初めて見る真白のまるで氷のように冷たい雰囲気。彼女は悲しい目をして俺を見ていた。
早速、近くの宿泊施設に電話をかけて泊れるようにした。
「こんにちは、急にすみません。今日一晩、よろしくお願いいたします」
「あらあら、お久しぶりですわね。今日も釣りに?」
「はい、朝一で来たのですが、増水が酷くて撤退してきました」
「昨夜は山上で雷雨があったそうですよ、残念でしたね」
「はい、ご厄介になります」
「……」
妻の真白も女将さんとは顔見知りなのに終始無言であった。
それにしても真白に何が起きたんだ?と悩みながら荷物を互いの定位置に置いて浴衣に着替えてからベットで横になると、彼女も普段通り横に来て目を瞑った。
ところが数時間後、俺が目を覚まして真白を見ると、布団に横になっている真白の表情は苦悶に満ち、とても呼吸が苦しそうだった。冷や汗が額に汗が浮いて濡れている。
「おい大丈夫か、症状を教えてくれ」
「そんなに心配しないで。風邪をひいたみたいだから」
「とてもつらそうだ、薬を飲もう」
ただ事ではない。手の平を彼女の額につけてみると熱い。フロントに電話をして体温計を借りる。扁桃腺に手を当てると特に腫れてはいなかった。ウイルス性疾患であっても軽微で済みそうだ。他のリンパ節は普段と変わらないように見えた。
「真白、大丈夫か……おっと39℃も熱があるな」
山奥では何があるか分からないので常備薬、消毒剤、包帯などは持参してきている。今の段階なら早期発見できるので安心だ。
「マダニやヤマビル、マムシなど出血部位を探そう、釣り用グローブをはめていたから指か、隙間の多い首か。帽子は被っていたし、防虫スプレーはしっかりしたように見えていた、腰回りは……噛み跡がなければ真白の主張する通り風邪だろうが、原因が分からんな。骨折したら発熱を伴うが激しい痛みがあるから除外するとして……今まで平然としていたからスズメバチもないな」
ウェーダーを穿いていたのでマムシは無い。マダニが耳たぶにでも噛んだか、ヤマビルなら発熱はないし、他には何が考えられるか……。植物性のかぶれも違う。昨夜に食べたものは高速のSAだけだ。何らかのアレルギーかO157なども疑ったらきりがないが、ネットで自前の検査室がある近くの病院でも調べておこう。
いずれにしても体温が41℃になると危険である。たんぱく質の変化が42℃で起きるものが多いからだ。まず記憶が飛ぶ。ゆえにこれ以上体温が上昇しないように気をつけなければならない。いざとなれば車で救急指定の病院に急ごう。救急車は嫌がるだろうし、直接乗り込んで急患と言えば救急車よりスムーズに進む筈。
「無理するんじゃないぞ。辛くなったら俺に声を掛けろ。氷を額に、冷たいペットボトルを脇に挟んで暫く様子見するからな」
……そうしていると30分ほど経過。
【漆黒の闇が非常に怖くなる】
「下がっても38℃か……結構高いままだな。原因が思い当たらない。否、あるとしたら……深夜の出来事か……。解熱はしばらくすればいけるだろうが……」
「……真さん、微熱とは言えないですし、今日はこの宿泊施設で泊っていいかしら?」
「いいよ、急変したら俺が対応するから安心して休め」
「ごめんね、真さん」
「いつも家事などで世話になっているし、お互い様だよ」
「ありがとう……いつも優しくしてくれて、ありがとう……」
身体を寝かして申し訳なさそうな顔をする真白の頭を優しく撫でる。ここまで弱っている様子には驚いてしまう。なぜなら健康第一の真白は滅多に病気で寝込まない。この十年で2-3回だ。
「う~ん……Cウイルスかな?」
「元々Cのやつは風邪の5%はそうだったぞ。お前も知ってる通り常在菌のエロモナス菌と何らかの相互作用で急激に悪化させるだけだから分かっていれば心配することはない。ゆっくりしてくれ」(#)
その後、フロントにお粥を注文した。部屋まで届けてもらう。急いで与えた薬で胃が荒れるのを緩和するためだが、今暫くの間は熱が下がって眠くなるだろうし、無理にでも食べて貰って寝かしつけようか。
「お粥を注文したよ。気持ち悪いのなら食べなくて構わないからな」
「うん、胃に何か入れるわ、食べる」
「吐き気があったら食べるのはやめろな」
「ふふ……ありがとう真さん。頼りになるわ」
「そりゃ、研究職とはいえ医学は専門だからな」
この後で真白は薬のせいもあって昏睡状態になった。彼女の顔は落ち着きを取り戻した。この調子なら数時間後には回復傾向を見せるだろう。
さて、落ち着いた状況になった故、俺は昨夜のことを思い出していた。ひょっとしたら非科学的なことを言うようだが、あの不思議な現象が関わっているのかもしれない、と。
・・・・・
時は……深夜1時半頃に戻る。
「漆黒の闇というのは、まさにこういう状態の事を指すんだな」
「車内の小さな明かりが無ければ何も見えないよね」
「普段は平気な暗がりでも、時々、こうして待っているとやたら怖くなる時があるんだよ」
「今がそうよね」
「ああ、背筋がぞっとするな……」
「ちょっと車のヘッドライトを点灯して貰えないかしら」
「余計に怖くなるぞ、ライト点灯したら人が一杯いたりとか」
「やめて!やっぱり点灯いらない」
「あと2~3時間すれば薄明かりになるから少しだけ仮眠するか」
「うん」
何故かは分からないが、同じような漆黒の闇に居ると、時々、とても怖く感じる時と、平然と出来ている時がある。違いはよく分からない。釣具屋さんの奥様に聞いた時も同じように「怖くなる時と普通の時があるのよね」と仰っていた。
海の夜釣りは平気で出来るのに、湖や池や川では怖い。釣り人に時々ある不思議な感性の一つであり、よく後ろから「釣れますか?」「こんにちは」などと声が掛かって振り向いても誰もいないという事が起きる。川や風の潺が人の声と同じ周波数の音を発するからだと言われている。
今、怖いと言っても眠れば万事解決。
ところが、目を閉じようとしたとき声がした。脳内に響く声で、意味は聞き取れなかった。条件反射で車の外を注意深く眺める。ドアを改めてロックした。怖い。なぜか異常に怖くなってきた。クマやイノシシですら車に乗っていれば大丈夫、襲われたとしても車で脱出すれば平気であると認識しているのに、ただただ怖い感情が渦巻く。
こう見えても俺は科学者の端くれ、にも拘らず非科学的なことで怖がるというのは理性ですら抑えられない。
隣の真白は眠ったままだ。起こすか?いや錯覚や勘違いでそこまでしたら帰宅した後で妻から弄られてしまう。現実問題、超常現象など起きることはない……筈。
【なぜ恐怖を感じるのか】
すると白い影がボンヤリと道を進んでいくのを認識できた。
目を凝らしてみると、ゆっくりと白い霧の塊、オーラのようなものが人型を作って移動しているように見える。何だろう?まさかな……と心霊現象を連想したら又もや異常な恐怖が襲ってきた。
これは堪らない。妻を起こそうと左手で彼女の腕を叩く。
彼女は起きない。結構、深い眠りであっても起きるレベルには叩いたりゆすったりしたのに、起きない。白い影は何人もの数になってきた。4~5個はある。
「これは研究者として観察が必須な事例だ。地面から何らかの磁力や電荷の影響で薄い白色の発光現象が起きたのか、遠くの車のヘッドライトの反射が結ばれたのか、いや、そもそも俺の頭脳が正常に働いてなくて現象を誤認しているのかもしれない」
などと俺が凝視していると近寄ってきた。車のすぐそばまで来て、まるで覗き込んでいるみたいだ。車の中にいるといっても、霊体みたいな不確かな存在を窓ガラスなどでガードできるとは思えないから、入ってこられてもおかしくない。すると一つの個体が車の中にすっと入り妻の身体に重なりそうになった。
「ムッ!」
そこで、ようやく俺の頭が正常に働いた。すかさずエンジンをかける。エンジンが無事にかかった。ヘッドライトが白いものを霧散させ、よし自由に動けるぞとドライブにシフトして車を空き地から道に戻して走り出した。
良かった、何だったんだアレは。錯覚や幻聴としても、災害の際には避難所で訴える人が4~5日後に見られるが、今の俺は空腹や疲労もそんなに酷くないし、釣り旅行に出たのは約10時間前、休憩も取ってるし、ありえない。
「妻よ、おーい妻ぁ、真白、起きろ」
運転しながら今の光景の話をしようとしたが彼女は起きなかった。山道を下り、明るいコンビニまでやってきた。
車を停めて妻を見ると、いつの間にか起きていて俺を睨んでいた。その視線……いつも温厚な妻の目ではなく、悪鬼の視線が放つ氷の刃が俺の胸に突き刺さる。なんだ、どうした?
「妻との約束、いざとなったら死んでも真白を護るという約束、俺は忘れてないからな!」
強がる俺。この時点ですら、いっぱいいっぱいだった。
「ハッ!」
目が覚めたら、秘蔵ポイントに入る山道脇に車を停めた状態に戻っていた。今、コンビニまで行っていたのは俺の錯覚、夢だったのか?
「そ、そんなまさか……」
すると急に意識が飛んだ。隣にいる真白の様子を確認することすらできず、まるで注射の麻酔薬で眠らせられたごとく即効でカクンと眠りに落ちた。
……そして目が覚めると薄っすらと闇が薄くなっていた。朝日がもうすぐ昇る。不思議と全く怖さは消えていた。
俺は眠る前の事をスッカリと忘れ、普段通り釣り支度を始めて、普通に妻を起こすのだった。妻もボケ~としながら起きた。いつも寝起きが悪いのは俺の方で、妻は起きればさっと仕事が出来る人間だったのに、俺よりボケているのは珍しかった。
そして時が進み、増水で釣りにならないと撤退し、妻の体調が悪くなるまで深夜の出来事を思い出す事もしなかった訳だ。大したことがない出来事と俺が考えてしまったのは勘違いや夢想という理由で説明がつき、生命に危険が及んでいなかったからだと思われる。
そして宿泊施設の深夜。
ふと目を覚ますと、妻が立っていた。何も灯っていない真っ暗な部屋の中、LEDテレビの前で、いや、冷蔵庫の前で突っ立っていた。ぼーーっとして観察していても彼女は動かない。これは、まるで少し前の映画アブノーマル・アクティビティの一作目のラストを連想させた。
意味のない行動を一番理解できない習性が俺にはある。行動には必ず適した理屈が存在する筈という思考の仕方だ。論理的に考えるのが癖になっている俺は、すぐさま妻に声を掛ける。
「どうした?何を突っ立ってるんだ?」
すると妻はこちらを向き、無言で傍に近寄ってきて隣に寝転んだ。そのまま彼女は寝た。正直、何だか怖いという感想が胸に残ったが、またもや眠気が襲ってきて間もなく俺も入眠した。
次の朝、クラブハウスサンドを注文して食べたが、真白はパンを開き、具だけをフォークで食べながら何かを喋っていた。ペチャペチャという音で具を刺したり引っくり返したりして遊んでいる様で、こんな食べ方は彼女らしくないので「どうした?好きだっただろ、これ」と聞くと、なんと「チッ」と舌打ちした。
彼女は一応上流階級の集う所へ行っても卒なくこなすほど礼儀作法には通じていて、寧ろ俺よりも礼儀正しい。もちろん今まで舌打ちなどは見たことがなかった。会話もそぞろで、昨日の発熱のせいで調子が悪いのだと解釈し、あまり指摘しないでおこうと考えた。
・・・・・
あれから帰宅し、すぐに彼女が元の人格に戻ると思っていたが、まるで別の人に代わったような他人のように継続していた。
(結果的にだが、その彼女の状態は三年間以上も継続した。)
真白は、ところどころ記憶が無くなっているのはもちろんの事、性格の乖離も観察できた。精神疾患は俺の専門ではないので、聞き慣れない色んな病名を専門医から言われたが、自律神経失調症ということで一括りでいいじゃないかと逆に説得を試みる俺も妙に変だった。
「待てよ、物事を判断するのは脳、その脳の性能が悪いのであれば、見えてるものが正常であっても、異常に見えることもあるのではなかろうか?」
実は自分自身もおかしいのじゃないか?と認識し始め、想像以上に苦しむ真と真白である。
尚、あの白い人型の塊だが、あれから3回は見ている。正体は未だにつかめない。
(#)作者注:上記は1997年にはN大学で研究済であり、MERSコロナとSARSコロナ絡みにも役立ちました。当時、養殖魚にも感染することから湿度に弱いなどというメディア等々への報道に対して不信感が増加しました。常在菌のエロモナス菌はお風呂や水槽に普通に観られ、コロナウイルスと結びつくことによって治癒の容易な普通の疾病でも劇症化させることが当時には分かっておりました。謎の病気として広めたメディアの記者はどこへ取材に行っていたのか?どんな論文を読んだのかと当時はアレコレと……。