わ。
今は夜。寒さも和らぎ、何とも都合がよい
時分である。私は急勾配の寒暖差に少々の
困惑を隠せない。寝る時寒くて、夜暑い。
冬の終わりのその癖に、寝苦しくも
悪夢にて汗を呼び起こす。やめてと思う。
熟睡の妨げは、過度の重ね毛布がただ恨み
辛みを温めるに等しい。
夕食を終えたので、寝るには惜しいが
眠気が瞼をただ襲う。
「さあさ、寝るぞ寝るぞ。」
冗談みたいだが、既に床の中。また深夜の
発汗による、一種の睡眠妨害への恐怖に
打ち震えつつも、ぬるりと毛布へ潜る。
寒さと暑さの狭間に取り残されて、今、
いざ寝んとするが如くの最中、矢張り、
変な熱のこもり具合がどうも怪しい。
若干の不安を拭えないまま、眠りにつく。
その男はただ寝苦しかった。おまけに
深夜に惨たらしく起こされる。掛け布団を
疎ましくはね除けるがもう遅い。しかし
掛け布団は、もう俺を寝汗に導き、中途
半端の覚醒に誘った後だから、ああ、
もう満足だろう。俺はまた恭しくも夜の
帳に臥すしかない。何とか眠気は小康
状態だ。睡眠時間7時間以上8時間前後未満を
妨げられる者は、もういないだろうが、
いたらひたすらに怒り喚き散らす寝る。
男は早朝、4時過ぎには目を覚ます。
目覚ましがそうさせるのだ。それをそう
させたのは無論も俺だ。だが朝靄の前では、
脳は起床をついぞ認識する前に毛布と布団に
籠絡される他ならない。朝は寒いのだ。
俺の寝汗を返せ、だがただ儘ならず、追従
するまでだ仕方ない。暁前に、俺は春眠で
何も覚えず、没分暁漢にならざるを得ない。
二度寝で、だが5時だ。男は結局毎朝
5時に起きる。そうして何ともならない
日常を、またただ繰り返すのである。
その男はまた騙された。寝る前に肌寒いのを
いいことに、掛け布団の温もりへと欺いた。
中途な覚醒、半端な寝心地であった。俺は
またしても、してやられたと思った。
もう騙されまいと、頓挫した睡眠を手に入れる為、猛暑を外して二度寝を極める。して、定刻通り、目覚ましによって目覚ます。
眠いのだ。春とは言え、早朝はまたしても
掛け布団さんに頼る他ない。少し意識が
途絶える。暫時、いい加減にモソモソと
起きた。また朝が始まる。
支度をして、その男はやりたくもない
仕事屋に会わなければならない。生活の為、
金はどうしても必要だ。俺はただ心を
閉ざすしかない。何ともなく十分間程、
腕立て伏せなどの体を鍛え、朝食をとり、
仕事屋への元へと向かう。
「いらっしゃいませ。」
「やあ君、今日も労働だね。しっかり歩き
たまえ。」
仕事屋から一月の、幾何かの賃金を頂かねばならない為、追従して今日も下らない作業をしてやっている。
「しゃあせえ。」
「うむ。頑張りたまえ。持ち場へ戻れ。さあ行け。君、こっちへ来たまえ。この20kg袋、100袋を20袋ずつ車に積載したまえ。」
「しゃあせえ。」
肉体労働も最早、無心で時間を潰す一作業だ。
「それが終わったら、大量に入ってくる
自転車の防犯登録をし、保険に加入させ、
綺麗に倉庫へ並べたまえ。」
「しゃあせえ。」
自分にとってこれ程無価値な行動は、何故か金に変わるらしいが、渋々、時給分程々に
働く。だが最近、経費削減やら何やらで、
労働時間を若干減らされ、休みも1日二日
増やされた。給料は下がるが作業量は
変わらない。労働者を馬鹿にしていやがる。
「しゃあせえ。」
その男の心は、ただの時給労働者だった。
今日のこの寒さはよくない。店内が嫌に
冷える。仕事屋は酷く吝嗇なので、春に
近付いた今日、空調設備の暖房稼働を節約
する。それがいけなかった。その男は、
例の如く、鼻水が止まらず鼻が詰まる。
寒暖差は容赦なく鼻を徹底的に襲う。
季節の変わり目などには強制的に発動
しるが、今回は、仕事屋によって引き
起こされたいじのわるい寒さによって
鼻はてんてこ舞いである。仕事屋のにある、
備品のティーシュッをふんだんに使って
やった。文句があるなら、俺の鼻に賞与を
くれ。従業員の鼻の待遇を保証しろ。
「夏は28度、冬は18度で頑張りたまえ。」
奴の頭に、春と秋は存在しないらしい。
寒暖差荒れる気とは矢張り、厄介なものだ。
鼻が詰まって何も出来ない。呼吸が滞って
いる癖に、鼻水だけは通過滴り落ちる。
かんでもかんでも止まらない。
集中出来ない。こういう時は素直に降伏し、
寝るのに限る。俺は鼻を詰まり、口呼吸に
苛立ちながら、今日を次第に投げ捨てた。
その男は二匹の亀を飼育していた。かれこれ
数十年来の付き合いである。子供の時分に、
小亀から引き取って、特に世話をするわけで
もなく、次第に互いに成長していった。亀の小さい方を亀楠かめくす、大きい方を桃子ももこ、と名付けた。ただ、男は別に亀に対しての特段の愛情があるわけでなかった。ただ飼育を始めたからには、死ぬまでは付き合う積もりでいた。
しかし、亀が不憫にも思っていた。狭い水槽に二匹とも追いやられ、せまぜまと住んでいた。亀も好きでもない人間に、よく分からない箱に入れられて、己の境遇に不満を持っていたに違いない。人間に生死を囚われた亀が、ただただ可哀想に思った。
いつの日か、家の敷地の一部に囲いを作り、新しい亀の為の飼育場を設けた。人間が一人、まともに動けないような空間だが、それでも狭い水槽よりかは、幾分かマシだろう。
その男は、亀への愛情は無いが、憐憫の念は確かにあった。しかし、それも深い訳でもなく、ただ、心の動かない、感情のない事実に基づいた反射による思考からのものであった。要は亀などどうでもよかったのだが、亀がいる以上、半ば義務のような、お互いの繋がりであった。しかし、囲いに亀を放した翌くる日、亀楠かめくすがいなくなっていた。
動揺を隠せず、周辺を探し歩いたが、見つけられなかった。孤独な同居人でさえ、いざ消え去ってしまうと、きっと心の一部だったのだろう。そこまで俺が嫌いだったのか。その男は少しの納得はして、多少は悲壮感に脳を悩ませたが、今はもうどうでもよかった。亀が、自分で選択したであろう選択を尊重することにした。ただ、窮屈な、それは窮屈な時間を過ごさせたことの申し訳なさは、ずっと忘れなかった。桃子は人間の元に取り残された。少し広くなった居住空間においても、隅で手足と頭を隠し、ただ縮こまっていた。
その男はまたしても騙された。春めいて、麗らかな温もりに少し暑がってみたり、と思えば、肌寒くも手足が冷える。気温の上下に1日堪え忍び、さて、いざ眠りにつくかと寝室へ。実際肌寒いのだ。しかし、もう学んだその男は厚い掛け布団の誘惑を振りほどく。だが、夜中の寒さに備えて毛布の重ねを怠らなかった。万全に伴って睡眠を確かめた。駄目だったのだ。暑苦しくて深夜に目が覚める。寝るとき寒くて、夜中暑くて、朝方寒いのだ。流石に俺も怒りを隠せなかった。どうも俺と言う人間の恒温さ加減を馬鹿にしていやがる。夜中にも関わらず寒暖屋を呼びつけた。
「私めは夜中に寒いと思い、寝る前に多少は身を防寒させる。しかし実際にも、寝苦しくて汗ばんでしまう。何故そのように人間を苦しめるられるのか。」
「夕は寒く、また夜は幾重の温さ、朝には寒く二度の眠りに誘うものだ。お前はこれらを耐え抜き、ただの一つも覚まさず、熟睡することを心掛けたまえ。寒暖とは、己の心の均衡の勾配に相違ない。お前が変温にて順応したまえ。」
「はい。」
実際ふざけてやがる。この寒暖屋という輩は、ただの人一人の睡眠すらも軽視する案配である。夜から朝までぐんすりと寝入ることすら、これ程神経が擦りきれることはない。人生で一番の楽しみなど寝ることを以てして他に無いのだ。俺はどうにか寒暖屋に頼み込むことにした。
「成る程、あなた様は斯様に偉大であらせられるが、しかし、私めはそのように寒暖の差を酷く荒ぶられると、いざ寝るにあたって暖めれば良いのか涼しめれば良いのか、皆目皆式見当が付きませぬ。私めにどうかお知恵を授け願いたいと申すのです。」
「うるさい黙りたまえ。寝る時は寝るのに集中したまえ。夜中に起きよ。朝に起きよ。二度寝、三度寝こそがお前の幸せだと思いたまえ。」
その男は憤りと悲哀にただ打ち震えた。純然たる睡眠すらも満足に出来ず、思い通りにいかない眠気に情緒が拉げられる。私はこの男は、道理的に融通が利かない者だと思った。どうにもならないことに不平不満を述べて、あぐねているよりも、可塑性のある現実を自身の都合に組み立てて生きていった方が大分利口である。だが、この男を見ていると、そう易々と上手くいかないのも人生であるものだろうと、賢ぶって変に納得した。この男も私も甚だ安直である。その夜、その男は渋々、肌寒さに耐え薄重ねで日を終えることにした。まともな睡眠が訪れるのを夢で待つ他なかった。
その男は実に善悪の按分に長けていた。目前に困った人があれば、可能な限り助けることを躊躇することはなかった。または、人の言動をよく観察し、打算で動くことも厭わなかった。卑怯な行いは嫌ったが、必要なら容易く用いた。利己的にも、利他的にも、同様に姑息な手段にも慣れていた。加えて、その男にはこれといった財産というものが無かった。いつも窮乏に喘いでいた。日々の活計の為に、金を工面するのに苦心していた。かといって、金がないこと自体にはてんで無関心であった。酒に溺れる訳でもなく、豪気による奢侈によって身を滅ぼしている訳でもなかった。ただ漠然と金がなかった。しかし、それでいて無頓着ではあるが、己の責任であるとも自覚はしていた。他責にする程落ちぶれてはいなかったが、実際それを解決する手立ては現状無い為、ひたすらにただ苦しんでいた。
俺はどうしようもない現実に押し潰されながらも、精神的にはもがき足掻きながら平然としている。しかし、窮屈である。ただただ窮屈である。社会と、世間と、金の無い為に迷惑が掛かる何事にも申し訳がない。社会において形見の狭い思いで勢一杯である。なので、内面的には社会の片隅で縮こまって、矮小な取るに足らない虚勢で怯えているが、或いは、外面的にはこの通り図々しくも生き長らえている。実際無頓着である為、失礼によって生かされている。俺は不安と放埒によって生かされているに相違ない。金が、金でできた縄で、首をゆっくりと締めつけていく日々に耐え。闇雲に、静かに独りで暴れるしかなかった。私はこの男には若干の胡乱を抱くことを禁じ得ない。無論、自分の生き辛さの原因は自身にあるのだから、己で解決しなければなるまい。不平不満があるのならば、自ら動いて少しでも良い方向を目指さなければならないが、しかしこの男はそれが分かっていても梃子でも動かない。形而下において艱難に自らまみれようとも、実際形而上でも辛苦を受け入れているのだ。自らの選択によって選択肢を無くしているのだ。ひっきょう、生きようと試みて死に向かっているに相違ない。ただ私は不憫でもあった。この男は刺激を求めていた。脳を揺らす衝撃をただ待っていた。金がない為にこの暗澹たる生活を抜け出せる切っ掛けは、矢張り、金が無いために訪れようが無いためだ。故に、自身で何らかの刺激、娯楽、技術や知識、それを越えた何か、それを捉えるしかない。この男は待つしかなかった。
その男の元に借金屋が訪れた。金がないのだから、借金があるのは当然と言わんばかりの態度だった。だが、金を借りている事実は変えようがないので、なるべく穏便に、無論平身は低頭するのみである。
「やあ、君。返済日はいかがかね。」
俺は困った表情をするしかない。あからさまに眉をひそめた。
「へえ、なんとも。今は持ち合わせが千円程しかないため、二週間ほど待たないか。」
「借金野郎め、どうだ、電気を止めてやろうか、水も飲めないぞ。無論、ネットもだ。よござんすか。」
俺は、そうなのか、とも言った。
「私は社会だ。つまるところ金そのものだ。お前はなんだ。金がなければ、お前はたちまち社会だぞ。せいぜい金を用意したまえ。」
借金屋は少しむっとしていきこんだが、飽くまで声は平静を保っている。俺は実際金がないので、何とかやり込めてやろうと画策する。
「へえ、しかしだな、電気も水も止められるということは、たちまち俺は生活できなくなる訳だ。つまり、まともに金が産み出せなくなる。そうすると困るのはお前さんだろう。金を返して欲しいのに、返せなくなるように仕向けるのは土台おかしな話だと思うが。」
「ふむ、君は如何にも理屈っぽいな。いかんよ、債務者は債務者らしく振る舞いたまえ。」
数回押し問答して、どうやらお互い何れ面倒になって疲弊してきた。俺ともう何も考えなくていい虫に変身したかった。全てが煩わしく思えてくることは、しばしばあるものだ。この借金屋もしばしば、このような文無しに執着せねばならないのだから、しばしば可哀想にも思えてくる。しかし、この男という者は金を借りているというのに実に薄情なものだ。そこに突然、投げ槍になる。
「やや、失敬。散歩の時間だ。金無し能無しはおいとまいたす。」
「君、待ちたまえ。君、待ちたまえ。」
借金屋を家に置いて散歩に出かけた。日中は不必要に暑くなり、木々には新芽が出たようだ。
「ここで一句、寝るときは、寒いくらいが、丁度いい。」
最近は寝苦しいことも少なくなった次第である。