【1000字小説】この時代に「月が綺麗ですね」なんて言う言い回しがあると思ったら大間違いです
「10分でお題に沿った掌編を執筆」企画に参加した際の原稿に加筆したものです。
お題は「月が綺麗ですね」です。
「月が綺麗ですね」
人生で眼鏡をはじめてかけた恵のその第一声に私は、はっとしてしまう。
時は寛永三年、まだ庶民には眼鏡が普及していなかった時代。大阪の商家の娘である恵がこの長崎にある小さな診療所にやってきたのは、一か月ほど前のことだった。
彼女は生まれつき視力が弱く、日常生活にも支障をきたしていた。そんな彼女が目を付けたのが、最近ようやく庶民にも普及しだした眼鏡だった。そして九月の十五夜の今日。彼女の眼鏡がようやく完成し、診療所の中庭で眼鏡のかけ心地を試そうということになっていた。
彼女のその科白は齢十五歳にして初めてこれまで見えていなかった世界を見ることができた感動から来たものなのだろう。
そんなことは頭ではわかっていた。けれど、その言葉に突飛な他の意味を期待してしまうほど、この一か月間で私は彼女に魅せられてしまっていた。
この医院にやってきた当初から、恵は「視力が回復したら見に行きたいもの」の話を楽しそうに語っていた。そんな患者は、この診療所の院長にして眼鏡技師である私にとって新鮮だった。この医院にはすでに視力を諦めた人間や、庶民に普及したばかりの西洋から齎された視力補助器具に不信感をあらわにする人ばかりだったから。
そんな中で希望に満ち溢れた彼女が私には医院に咲く月見草の花のように儚くも美しく見え、私はいつの間にか恵に、医者と患者以上の想いを抱くようになってしまった。
——彼女は満月のことを言ってる。勘違いするな。
必死にそう言い聞かせてると。ふとまっすぐわたしのことを恵が見ていることに気づいた。十五夜の美しい円を描いた満月ではなく、私を。
「月って、先生のことのつもりだったんですけどね、瑠奈先生。西洋の言葉では先生の名前は月を表すようですし」
恵のその科白に私の頬は熱を帯びる。
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、恵はその美しい顔を私と鼻と鼻がくっつきそうなほど近づけてくる。
「瑠奈先生がこんなに綺麗な顔をしているなんてわたし、これまで知りませんでした。もっと近くで、じっくりと見せてください」
いたずらっぽく笑いながら言う恵。
黒縁の眼鏡は、知的好奇心旺盛な彼女によく似合っていた。
そして商家の娘である恵が眼鏡を手にし、その素晴らしさを「見に行きたいもの」を見に行った先々で宣伝して回ったことが、日本における庶民階層への眼鏡の普及するかしないかの1つの分水嶺になったことは、案外知られていない。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
眼鏡自体は16世紀にキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれ、江戸時代に庶民階級にも普及していったのは事実なようですが、その他は作り話です。寛永年間で既に長崎に眼鏡工場があったのか、そもそも庶民の受け止め方が否定的だったのかは不明ですので、あくまで本作はフィクションとして見ていただけると幸いです。
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