【第7話】初対面の四人
私の家から一番近い警察署で南海さんと落ち合ったのは、まだ午前中のことだった。今日の奮闘を誓い合って、警察署に入る。
担当だという少し年配の男性警官は、親身に話を聞いてくれた。
でも、最終的な結論は「何かあったらまた来てください」だった。私と南海さんが一時間近くにわたって被害を訴えても、要件には至らないと禁止命令はおろか、警告さえ出さなかった。
その態度は理解を示してくれるだけで、私は深い落胆を覚えてしまう。警察は実害が出ないと動いてくれなくて、その実害に鍛冶屋さんが私の作品を買ったことは入っていないのが悲しかった。
警察署を出て、南海さんがすぐに「申し訳ありません」と謝ってくる。私は南海さんに「謝らないでください」と言った後にすぐ、「来週の会合って、今からでもまだ参加できますか?」と訊いていた。
南海さんは少し目を丸くしていたけれど、私は話が通じなかった悔しさをずっと抱えていたくはなかった。
その日のうちに南海さんを通じて代表者の人から参加許可をもらうと、あっという間に会合の日である水曜日はやってきた。
その間も鍛冶屋さんからのメッセージやラインは届いていたけれど、私は南海さんからアドバイスを受けた通り、その全てを無視した。既読さえつけなかった。
でも、鍛冶屋さんは私の気持ちをまったく分かってくれず、今朝もまたラインを送ってきている。こんな日までと、私は心底うんざりする。早く他の人に話すことで、気持ちを少しでも楽にしたかった。
なるべく集合時間の午後二時ちょうどになるように、私は南海法律事務所に到着した。
私が通されたのは、相談スペースの隣のスペースだった。そこも衝立で区切られていて、中には移動式の長机が二脚と椅子が五つ置かれていた。その短辺、何も書かれていないホワイトボードの前に座っていた南海さんが、立って私を迎える。
机には女性が三人座っていて、どうやら私が最後に来たらしい。三人の誰にも私は見覚えがなかったけれど、穏やかな顔をしていたから、私の敵ではないことは確かそうだった。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。今回は『美術業界のハラスメントと性被害を考える会』第一回の会合ということで。難しいテーマではありますが、まだ会の名前も仮称に過ぎないので、皆さん今日はあまり力みすぎずに、できる範囲でリラックスしていきましょう」
私たち四人から、バラバラに返事が漏れる。
南海さんは「リラックスして」と言っていたけれど、話の内容が内容だから私はリラックスはできなかったし、それは他の三人も同様みたいだ。さっきまで穏やかだった表情が、緊張したものに変わっている。
「では、まずは簡単にお互いの自己紹介から始めましょうか。では、向ヶ丘さんから時計回りでお願いできますか?」
南海さんから顔と言葉を向けられて、向ヶ丘さんと呼ばれたその女性は、返事をして立ち上がった。一七〇センチメートルはありそうな背丈に、水色のTシャツがよく似合っている。
「ただいまご紹介に与りました向ヶ丘琉衣です。普段は千葉で日本画を描いています。今日は辛く苦しかった体験を皆さんと話すことで、少しでも解決方法を見つけるきっかけにできればなと思っています。よろしくお願いします」
自己紹介を終えた向ヶ丘さんは小さく会釈をした。私たちも小さく頭を下げる。拍手は起こらず、そのまま次の人に順番は回った。
立ち上がったのは、打って変わって小柄な女性だった。薄黄色のワンピースに、私にはまず「可憐」という言葉が思い浮かぶ。
「嘉数以万里です。院の一回生です。皆さんもそうかもしれませんが、私も大学で何回か嫌な目に遭ってきたので、今日はそれをお話しできればと思います。よろしくお願いします」
おそらくここにいる五人の中では、自分が最年少だからだろう。嘉数さんは目に見えて恐縮していた。でも、今日は立場も年齢も超えて集まっているから、委縮しなくていいという思いを私たちは視線にこめる。
そんななかでも私の心臓は高鳴っていた。座席的に次の自己紹介は私だ。
自分に集中する視線を感じながら、頃合いを見て立ち上がる。緊張に負けず、はっきりとした声を意識した。
「皆さん、はじめまして。菰田佳蓮と申します。普段はここ東京で水彩画を描いています。今日はそちらにいる南海さんの紹介を受けて、こちらへやってきました。私が受けた経験が、少しでも皆さんや美術業界のお役に立てたら幸いです。今日はよろしくお願いします」
早口にならないように注意して言ってから、私は頭を下げた。四人が会釈してくれたのが肌で分かって、この人たちは同志なんだと私は知る。
小さな心強さを感じながら座ると、入れ替わるようにして私の隣に座る女性が立ち上がった。真っ白なブラウスを着て耳元に小さなピアスが光るその女性は、私と同じくらいの年齢に見えた。
「はじめまして。永長百絵です。普段は大阪の方で活動をさせてもらっています。今日は同じ大学の先輩である向ヶ丘さんに声をかけていただき、参りました。正直ここに来ることは少し迷ったのですが、それでも一人で黙っていては何も変わらないと思い、参加することにしました。本日はどうかよろしくお願いします」
永長さんは言葉自体は標準語だったものの、節々に関西弁のイントネーションが滲み出ていて、生まれも大阪の方なんだろうと私は想像した。
永長さんが座って、南海さんがこの団体の顧問弁護士を務めるというような自己紹介をすると、私たちの間には一瞬張り詰めた空気が漂う。誰が最初に話を切り出すか、短い時間でお互いがお互いを目線で探り合った。
「それでは、会を本格的に始めていきましょうか。まずはこの会の発起人である向ヶ丘さん、一言お願いします」
南海さんがそう話を振ると、向ヶ丘さんは座ったまま頷いた。そのまま私たちを見回してから口を開く。どうやら発言するときには、いちいち立ち上がらなくてもいいらしい。
「はい。私は大学院を卒業してから数年間、作家として活動してきました。その中で感じたのは美術業界のハラスメントや性被害に対する意識の低さです。作品の購入と引き換えに食事に誘われたり、何の面識もないコレクターの方から一方的に言い寄られたり。外部からの問題もありますが、美術業界内部はより悲惨です。大学の教授も公募の審査員も、そしてその公募の受賞者も男性が圧倒的多数を占め、ジェンダーバランスを著しく欠いているのが現状です。その結果、未だに女性作家を見下す多くの言動、セクシャルハラスメントやアカデミックハラスメント、性加害などが温存されてしまっています。美術業界は予備校時代からの人間関係が綿々と続く狭い業界のため、被害を受けた女性は自分を取り巻く状況が悪化することを考えてしまい、声を上げることが極めて難しい状況に追いやられています。この状況はどう考えても健全とは言えません。女性活躍という狭い話に限定されるのではなく、この業界をもっと風通しのよいクリーンな業界に。全ての作家が安心して活動できる業界に変えていくために、私はこの会の発足を決意しました」
向ヶ丘さんの一言は全然一言ではなかったけれど、確たる口調から、本当にこの業界に対して危機意識を抱いていることが分かった。きっと自分以外にも、多くの作家の話を聞いてきたのだろう。
私も甘い気持ちで来たわけではないけれど、向ヶ丘さんの覚悟みたいなものに触れると、余計に背筋を正さなければいけない気がした。
「それでは、まずは発起人である私の経験からお話したいと思います。私は見ての通り身長も高いですし、服装もどちらかというとマニッシュなものを好んで着ています。この業界で噂される、いわゆるギャラリーストーカーには私は無縁だと考えていました」
滔々と向ヶ丘さんが話し出す。たどたどしさは見られず、私たちは真剣に耳を傾けた。
「ですが、私にもギャラリーストーカーは生じてしまいました。私が大学院を卒業して、初めて個展を開いたときのことです。当時、私は東京で活動していました。ギャラリーに私よりも背の高い四〇代ほどの男性がやってきました。初めは美術についての知識も深く、気さくで話しやすい方だなと思っていたのですが、作品購入を機に「二人きりで会いたい」と言われたり、食事に誘われたりすることが始まりました。まだ駆け出しの作家だった私は立場も弱く、その男性の誘いを断れませんでした。一回だけなら。これで最後だから。そう思いながら何度も男性と会っているうちに、私は違いましたが、男性は私のことを親密に感じている様子でした」
私は驚いた。向ヶ丘さんの話に、私と重なる部分があまりにも多かったからだ。ギャラリーストーカーという存在がこんなにも一般化していたことに、私は聞いていて少し恐ろしくなる。
「それは、二回目の個展を開いた後に起こりました。その男性は再び私の作品を購入し、何度目かの食事に誘ってきました。その時点で私は怖さを感じていたのですが、作家活動には必要な付き合いだと自分に言い聞かせて、レストランに向かいました。通されたのは個室で、その男性と二人きりになることは、私にとっては恐怖以外の何物でもありませんでしたが、その男性は乾杯を済ませるなり「自分と付き合ってほしい」と言ってきました。しかも、その男性は既婚者で、言い方は悪いですが私に浮気相手、もしくは愛人になれと言ってきました。私は頭が真っ白になりました。正直、その日のことはそれ以降、あまり覚えていません。どうやって無事に帰ってこられたのか、不思議なくらいです」
続いた話に私は言葉を失った。何の好意も抱いていない相手から一方的に「好き」だと言われることは、誰にとっても負担でしかないだろう。それが個室という密室下ならなおさらだ。
鍛冶屋さんはおそらく私のことが好きなんだろうけれど、それでも直接的に言葉にして伝えてきてはいない。
鍛冶屋さんの方がまだマシ。それは私にとって、目を背けたくなるような現実だった。
「そこからその男性のストーキング行為は激化していきました。私のSNSに毎日のようにダイレクトメッセージを送り、投稿には全て『いいね!』をつけて、しまいには家にブランド品のバッグを送ってきました。それはつまり私の住所を知っているということで、来ようと思えばいつでも私の家に来れるということです。実際にその男性が私のもとを尋ねてくることはありませんでしたが、それでも私は恐怖で夜も眠れない生活を送りました。作品を描こうと思っても、この絵もその男性に見られるかもしれないと考えてしまい、筆を手に取れない日が何日も続きました。作家を廃業して、どこか遠くに引っ越した方がいいんじゃないか。そう考えたことも一度や二度ではありません」
向ヶ丘さんの話は、私が想像していた以上に壮絶だった。深い恐怖の中で、それでも作家をやめずにここに座っていると思うと、畏敬の念が湧いてくる。
私もいずれ、同じような思いをするのだろうか。考えたくないのに、考えてしまう。
「でも、知り合いの方に南海さんに繋げていただき、警察にも相談して禁止命令を下してもらったおかげで、その男性のストーキングは終わりを迎えました。それでも、禁止命令が下るまでに私がその男性と初めて会ってから、二年以上もかかってしまいました。今は東京を離れ千葉で活動していますが、またいつギャラリーストーカーに目をつけられるかは正直分かりませんし、不安もあります。作家活動に明確な支障を来すギャラリーストーカーはもう出ないでほしい。それが、私がこの会を立ち上げた大きな理由の一つです」
「以上です」。そういった言葉がなくても、私たちは向ヶ丘さんの話が終わったことを察する。言い切った向ヶ丘さんの顔は決して晴れてはいなかった。それだけ大変な思いをしたし、人に話す度に辛い気持ちを味わっているようだった。
「大変でしたね」みたいな言葉をかけるのもどこか白々しい感じがして、私たちは口をつぐんでしまう。机の周りには、少し重苦しい空気が流れ始めていた。
「向ヶ丘さん、ありがとうございます。進んで話したくないことを、それでも意を決して話してくださったこと。そして、この会を立ち上げてくださった勇気。しかと受け止めて、この先の活動に生かしていきます」
「それでは難しいかもしれませんが、次にお話しされたい方はいらっしゃいますか? どんなことでも結構です」。南海さんがそう呼びかけても、私たちはすぐに応じることはできなかった。ここには被害や問題を話しに来ているのに、自分から切り出す勇気は向ヶ丘さんの話を聞いてもなお、私には足りなかった。
隣では、永長さんが軽く俯いてしまっている。
両肩にのしかかってくるような重たい空気の中、「あの、次は私からいいですか?」と口に出したのは、嘉数さんだった。自己紹介と同じ順番で話さなければならないと感じたのだろう。
自分よりも年下の人間に先に話させることに、私には申し訳なさと情けなさが募る。嘉数さんの私たちとはどこか違うところを向いている瞳を見ると、その思いはより膨らんだ。
「私は一浪して大学に入りました。高難度の試験を突破して、ようやく美術の勉強に専念できると思った矢先。入学して一週間後に開かれたのは、学科の新入生歓迎会でした」
嘉数さんが話し始めたさわりの部分だけで、私は少し暗澹たる気持ちになってしまう。苦い記憶がじわじわと蘇ってくる。
「新入生歓迎会は、全員が入れるような大きな展示室で行われました。一番奥には一段高くなったステージがあり、それを上級生が床に座って見ているという形でした。なぜステージがあるかと言うと、新入生はそこで一発芸を行わなければならないからです。それも一人ずつ強制で。内容も下ネタや身体を用いた笑いなど、性的なものが目立ちました。しかもそれは採点されて、点数が低いと罰ゲームとして、お酒の一気飲みをしなければなりませんでした。私はあるお笑い芸人のモノマネをしましたが、低い点数をつけられ、お酒を飲まされることになってしまいました。学生だけの空間だったため止めるような人はおらず、私は歓迎会が終わった後にトイレで吐いてしまいました。いくら芸術を志しているとはいえ、所詮は学生なのか。私にとっては憧れの大学だった分ショックは大きく、その翌日は大学に行くことができませんでした」
嘉数さんが話した内容に、程度の差こそあれ私は共感してしまっていた。私も一回生のときには、強制的に新入生歓迎会に参加させられていたからだ。
嘉数さんのように一発芸をやれとは言われなかったものの、それでも空気に負けて、未成年にもかかわらずお酒を飲んでしまった。帰ってきてからの気持ちが悪く、寝るに寝れなかったときのことは、今でも思い出せる。
私のときから三年は経っているのに、もっとひどい思いを嘉数さんはしていて、私は愕然としていた。
「そんな地獄のようだった新入生歓迎会も何とか乗り越えて、私は大学に通い始めました。大学はカリキュラム自体は豊富で、同じ専攻で何人かの友人もでき、課題の制作等は大変でしたが、学生生活自体はおおむねつつがなく進んでいきました。ですが、大学には学期ごとに課題があり、提出して評価を貰わなければ進級はできません。私は毎期ちゃんと課題を提出して、卒業まで留年することはありませんでしたが、それでも講評で辛辣なことを言われたことは、何度もありました」
嘉数さんはいったん言葉を詰まらせた。思い出すだけでも辛いのだろう。
だから、私は次の言葉を催促しなかった。それは他の三人も同じで、向ヶ丘さんのときと同じように、じっくりと話を聞こうという態度がこの場には形成されていた。
落ち着く時間を作るかのように、嘉数さんは少し間を置いてから、再び話し出す。
「『あなたの作品は絵画じゃない。ネットに無料で載っている品のない漫画のようだ』。そういったことを講評では何度も言われました。確かに私の作品は見たままを描くというよりも、ディフォルメを効かせて、色使いも鮮明なのが特徴です。ですが、私たちを指導する教員の多くはある公募団体に所属している者が多く、その団体はリアリズムを良しとする傾向が強くあります。でも、たとえ系統は違っていても、技法やモチーフ、構図や配色等を検討して講評することは十分可能ですし、それが教員の仕事だとも思うのですが、でも系統が違うというだけで私の作品は簡単に否定され、十分な講評を受けられないことも何度もありました。教員に反対されても自分を貫けるだけの勇気は私にはなく、リアリズム寄りに、自分の意にそぐわないような修正をしたこともあります。それは私にとって、すごく悔しい経験でした」
一言一言をこぼすかのように語る姿から、私は嘉数さんが受けた辛さを想像する。私だって教員の講評を受けて作品の方向性を修正したことはあるけれど、それはちゃんと理にかなった講評だと納得した結果だ。
その教員の行為は教育という自らの仕事を放棄していて、嘉数さんが受けたショックはいかほどだろうかと思う。
学生とはいえ作家だ。当然固有の作家性もある。それを納得できる理由もないままに変えなければならないことは、大変な苦労が伴う。
嘉数さんがしなければならなかったことと、その教員が嘉数さんにしたこと。その重さの釣り合いが取れているとは、私には思えなかった。
「今は理解のある教員の方に巡り合えて、前向きに制作ができていますが、それでもそこに辿り着くまで、特に卒業制作のときは輪をかけて大変でした。私は月経やそれに伴う痛み、心身の問題などをコンセプトにして作品を制作しました。一見するとそうは分かりにくいですが、一つ一つのモチーフを読み解いていけば、理解できる作品です。ですが、中間講評の場にいた教員は全員が男性でした。『男だから生理のことは分からない』『もっと分かりやすい作品を描いた方がいい』など講評は散々で、『この作品を評価することはできない』と、匙を投げる教員までいる始末でした。結局、私は卒業するために作品の方向性を大きく変えることを余儀なくされました。自分は何を描いているんだろうという気持ちでした。向ヶ丘さんも言ったとおり、大学には女子学生の方が多いのに、教員は多数が男性で著しくジェンダーバランスを欠いています。もちろんその場にいた教員が真摯に講評することが一番ですが、講評の場に一人か二人女性がいれば、もしかしたら私の評価は違っていたのかもしれません。バイアスがかかったような偏った見方ばかりに傾くのを防ぐために、大学のあり方を少しでも変えてほしい。そう思って、私はこの会に参加させていただきました」
そう嘉数さんは言葉を結んだ。声や口調は少したどたどしいところはあったものの、話している内容にはリアリティがあって、私は容易に嘉数さんを信じることができる。
私だって講評のときに男性教員しかいなかった経験をしている。学生に対するリスペクトや、真摯に学び続ける姿勢がなければ、そのような講評になってしまうだろう。
情けないことだけれど、嘉数さんの話には説得力があった。今もその大学では同じような光景が繰り広げられているのだろうと、簡単に想像ができてしまう。
「嘉数さん、お話しくださってありがとうございました。私も学生の方から相談を受けたことは何度かあります。その度に大学の信じられないような実態を知って、閉口する思いをしています。嘉数さんがお話しいただいたようなアカデミックハラスメントやアルコールハラスメントは、一つでもあってはなりません。美術業界にハラスメントがはびこっているのも、大学に小さくない原因があると私は考えています。少しずつ教育現場も変えていかなければなりませんね」
そう嘉数さんの話を総括するように答えた南海さんに、全員が頷いた。
この業界を変えるには、まず根っこの部分である大学や予備校から変えていかなければならない。長い時間がかかるだろうけれど、私には現状を変えるためにやらなくてはならないことの一つに思えた。
(続く)