【第6話】決意の相談
鍛冶屋さんが帰ってからは、在廊はつつがなく進んでいた。何人かの人がギャラリーに来て、私と少し話をしたけれど、誰もが作者である私に敬意を持って接してくれていて、馴れ馴れしい鍛冶屋さんとは大違いだった。
作品は売れなかったけれど、もともと美術品は高額な買い物だ。だから、私はさほど構わなかった。じっくりと考えて買う価値があると判断したら、またギャラリーに足を運んでくれればいい。そう思えるぐらいには、私は自分の作品に自信があった。
でもそう考えると、鍛冶屋さんに一番の自信作を買われた苦々しい思いが蘇ってくる。
私は在廊中、鍛冶屋さんのことを考えないようにしたけれど、それは無理で、思い出すたびに心が締めつけられていた。
「菰田さん、お疲れさまです」
私がこの日の在廊を終えようかという午後三時ごろ、唐須さんがギャラリーに様子を見にやってきた。私は思わず椅子から立ち上がって、「お疲れさまです」と返事をする。唐須さんは館内を一目見て、目を細めていた。
「いかがですか? 作品の評判は」
「は、はい。何人かお客さんがやってきたんですけど、皆さん褒めてくださって、私としても手ごたえを感じています。今日だけで作品が二点売れたので、上々の滑り出しだと思っています」
「そうですか。それは何よりです」唐須さんは穏やかな表情で言う。小さく笑みも浮かべていて、心から喜ばしいと思っているのだろう。
でも、私は同じように心から喜ぶことができなかった。胸には未だに、嫌悪感が渦巻いている。
こんなことを唐須さんに言ってもいいのか。でも、明後日在廊すれば、きっとまた鍛冶屋さんはやってくるだろう。それは私にとって、恐怖以外の何物でもなかった。
私は思い切って「あの、一ついいですか」と切り出してみる。「どうかされましたか?」と訊き返す唐須さんは、表情を少し真剣なものに変えていて、私をこの人は信じていいのかもしれないという気にさせた。
「そうでしたか……。菰田さんに不安な思いをさせてしまって、誠に申し訳ありません」
鍛冶屋さんのことを話すと、唐須さんは私が感じた思いを追体験するかのように、表情を曇らせていた。心を痛めているのが分かって、自然と「いや、唐須さんが謝らないでください」という言葉が口から出る。
「いえ、私どもの対策が不十分でした。スタッフを常駐させず、菰田さんを一人にさせてしまった。私どもの落ち度です」
「いえ、唐須さんたちのせいじゃないです。事前に鍛冶屋さんのことを伝えなかった私にも、悪かったところはありますから」
「そんな。菰田さんは何も悪くないですよ。その執拗にSNSにメッセージを送ったり、住所を知ろうとする鍛冶屋さんが一〇〇パーセント悪いです。菰田さんを守ることができなくて、本当に申し訳ありませんでした」
唐須さんが頭を下げてくるたびに、私は戸惑ってしまう。唐須さんの言う通り、一番悪いのは鍛冶屋さんなのに。
そう思うと、より強い怒りが私の中で湧き上がった。きつい言い方をしたくなるのを抑えて、慎重に言葉を選ぶ。
「あの、こんなこと言うのは本当に申し訳ないんですけど、私はもう鍛冶屋さんに会いたくないです。明後日の在廊もまた鍛冶屋さんが来ると思うと、怖くてたまりません。なので、お願いです。鍛冶屋さんをギャラリーに来させなくすることは、できるでしょうか?」
「はい。もしまた鍛冶屋さんが来たらお帰りいただくようお願いするように、スタッフ全員に周知しておきます。休憩の時間もずらして、菰田さんを一人きりで在廊させないようにもします。菰田さんが安心して在廊できるよう、私たちは全力を尽くします」
「はい、お願いします。だったら、鍛冶屋さんと一緒に撮った、というか撮らされた写真があるので、それも参考にしてください」
「写真がおありなんですか?」小さく驚いた唐須さんに、私はラインで送られてきた鍛冶屋さんとの二ショット写真を見せた。ぎこちない私の表情に、唐須さんは事態をより重く見たのだろう。「後で私のメールに送っていただけますか? スタッフにも周知させますので」と言われて、私は頷く。
まだ完全に安全になったわけじゃないけれど、それでも少しは落ち着いて在廊できそうだ。
「それと菰田さん。この鍛冶屋さんという方なのですが……」
写真を確認した唐須さんは、どこか重々しい口調で話す。その声に、私は不吉な予感を覚えた。
「どうかされたんですか?」
「おそらく、いわゆるギャラリーストーカーだと呼ばれる方だと思います」
私はすぐに返事ができずに、視線を床に落とす。胸に「ああやっぱりか」という思いが去来した。
作家、主に若い女性作家につきまとうギャラリーストーカーと呼ばれる人がいるということは、私も大学時代に耳にしてはいた。というか実際に大学の卒展で同じ人が毎日来て、女性の作家に話しかけているところを、私も見てきている。
でも、私が被害に遭うなんて。鍛冶屋さんがしていることにはっきりとした名前がついた瞬間、私はより怒りに燃えた。私は絵を描いて発表しているだけなのに、若い女性だからといってつきまとわれるのは、理不尽以外の何物でもない。
「菰田さん。実は、私の知り合いにこういった問題に詳しい弁護士がいまして。もしよかったらお話を聞いてもらえるよう連絡することもできますが、どうしますか?」
「はい。ぜひお願いします」私は考える間もなく答えていた。この状況が少しでも改善できるなら、何にだって縋りたかった。
「分かりました。私の方から連絡しておきます」と言って、唐須さんは最後にもう一度謝ってきた。私は「謝るくらいなら、本当にお願いしますよ」みたいなことを答えてしまっていて、自分でも少し厳しすぎると思う。
でも、私はもう鍛冶屋さんに会いたくなかった。そのために今できることは、唐須さんたちを信じることしかなかった。
二日後。結論から言えば、鍛冶屋さんはギャラリーにやってきた。本人からすれば善意のつもりなのだろう。
でも、私は鍛冶屋さんの姿を見ただけで、全身が硬直してしまう。
何とかスタッフの人が私をバックヤードに逃がしてくれて、鍛冶屋さんに帰ってもらうよう説得できたから事なきを得たけれど、それでもその説得には優に三〇分がかかっていた。その間私はバックヤードで不安に震えていて、何でこんなことしてるんだろうと考え続けていた。
在廊後に鍛冶屋さんから「今日はどうして会ってくれなかったのか」というラインが来ていたけれど、私は勇気を出して、それを無視した。既読すらつけなかった。そうでもしなければ、鍛冶屋さんが自分がしていることを自覚することはないと思った。
唐須さんが紹介してくれた弁護士、南海遥奈さんに相談する機会は思ったよりも早く、個展が終わった翌日にはもう準備されていた。
電車と地下鉄を乗り継いで、一番近い出口から歩くこと五分。南海さんの事務所は、一〇階建てのビルの五階にあった。エレベーターを降りると、真正面のドアに「南海法律事務所」と書かれていて、私ははっきりと緊張してしまう。
それでも、私はインターフォンを押して、返ってきた声に自分の名前を告げた。「少々お待ちください」と言われて、通信は切られる。南海さん、もしくはスタッフの人を待っている間、私は借りてきた猫みたいに縮こまってしまっていた。
事務所のドアは、私がインターフォンを押してから一分もしないうちに開けられた。出てきたのは灰色のスーツ姿が似合う、細身の女性だった。目や口、鼻や眉。全てのパーツから優しいオーラが出ていて、それが私の緊張をかえって際立たせた。
この人が誰か、名乗られなくても私はすぐに分かる。右胸のポケットに、「所長 南海遥奈」と書かれたネームプレートがつけられていた。
「こんにちは。菰田佳蓮さん。私、南海法律事務所の所長をさせていただいています、南海遥奈と申します」
「は、はい。こんにちは。す、すいません。ちょっと早く来すぎてしまって」
「いえ、大丈夫ですよ。こんなところで立ち話もなんですから、中に入りましょうか。座ってじっくり、お話をお聞きしますよ」
南海さんに案内されて、事務所に入る。初めて足を踏み入れた弁護士事務所は、淡い黄色の壁紙に印象派の絵が飾られ、おそらく判例が入った棚の上にはいくつものぬいぐるみが置かれていて、南向きの窓から日の光が盛んに入ってきて眩しいくらいだった。五つある机は、どれも意外なほどに整頓されていて、二人のスタッフの人(たぶんこの人たちも先生と呼ぶべきなんだろう)が座ったまま、私に笑顔を向けてくれていた。
弁護士事務所だから、もっと無機質で冷たい空間を想像していた私は、思いがけない柔らかさに軽く面食らう。南海法律事務所は、子供が遊ぶプレイルームのような趣さえあった。
私は、奥にある衝立で仕切られた相談スペースへと通される。温かみのあるベージュのソファに座ると、見た目で想像していた以上に柔らかかった。
女性スタッフの人が、テーブルにお茶を置いて自分の仕事に戻っていくと、私は相談スペースに南海さんと二人きりで残される。
南海さんは出されたお茶を一口飲んで、私に微笑みかけた。「緊張しなくていい」と表情が語っていたけれど、私はその微笑みにうまく応えられない。
「いかがですか? 当事務所は。ドラマなどでよく見る弁護士事務所とは雰囲気が違っていて、驚いたでしょう?」
南海さんは私の緊張をほぐそうと、世間話から会話を始めた。すぐに本題に入ると思っていた私は、虚を突かれて一瞬答えに窮してしまう。
「は、はい。なんかイメージしていた堅さとか敷居の高さがなくて、フレンドリーな空間だなって思いました」
「そう言っていただけると何よりです。弁護士事務所は、なかなか人には言えない相談をする場ですからね。堅くびしっとした雰囲気よりも、柔らかく話しやすい雰囲気を作るのは当然のことです」
「そ、そうなんですか。確かに無機質な空間よりかは、話しやすい空気だと思います」
「ありがとうございます。実は、今度壁に飾る絵を増やそうと思っているんです。どんな絵がいいか、今探している最中なんですよ」
「そ、そうなんですか。それは素敵ですね」
南海さんとの世間話にも、私はうまく乗れなかった。これから話すことの重さを考えてしまうと、どうしても心が逸ってしまう。
思うように弾まない話に見切りをつけたのか、南海さんが「まあ世間話はこれくらいにして、本題に入りましょうか」と言う。私の同意を得てから、ボイスレコーダーの電源を入れて机に置いていて、私は心臓を鷲掴みにされているような感覚を味わった。残念だけど、リラックスなんてとてもできない。
「では、菰田さん。そのコレクターの方と何があったか、できるだけ詳しくお聞かせ願えますか?」
真剣な目をしている南海さんに私は頷き、話し始めた。とはいえこの場で記憶を頼りに話すのも限界があったので、唐須さんからのアドバイスの通り、あらかじめメモしてきた内容を、その都度補足して話す形になる。
私は鍛冶屋さんから受けた主に心的な被害について、精一杯南海さんに訴えた。SNSでダイレクトメッセージを送られたこと、食事に誘われたこと、住所を教えてほしいと言ってきたこと。しかも一度ではなく、何度も何度も執拗に。
私の話は一〇分や二〇分では終わらなかったけれど、南海さんは話の腰を折ることなく、真剣な表情で聞いてくれる。訴えている内容がちゃんと伝わっている感覚があって、この人なら私の力になってくれるかもしれないと、話していて思えた。
「菰田さん、お話してくださってありがとうございます。さぞ不安で苦しかったことと思います。これからは私たちと一緒に対策を考えていきましょう」
三〇分以上にも及んだ私の話を、南海さんは最後まで聞くと、理解を示すように言ってくれた。それだけで私の心はいくらか救われる。事態が好転していく予感が、おぼろげにした。
「ありがとうございます。それで南海さん、私はこれからどうすればいいでしょうか……?」
「そうですね。まず警察に行って相談することをお勧めします」
「警察、ですか……」
「ええ。菰田さん、何もたらい回しにしようというわけではないんですよ。警察に相談すれば、相手にストーカー行為をやめるよう警告したり、禁止命令などの行政措置を下すことができますから。それは私たちにはできないことです。大丈夫です。説明を十分に行うために、私も一緒に行きますから」
「それは……はい。お願いします」
「はい。その場合には、今読んだメモも持参してください。またSNSやラインなどでの会話履歴も、有力な証拠になるので、辛いと思いますが、スクリーンショットで残しておくこともお願いします」
「分かりました」
話は進み、さすがに今日中は無理だったけれど、明後日南海さんと一緒に、私は警察に被害を訴えに行くことが決まった。警察に行くという選択肢も頭の中にはあったけれど、なかなか踏ん切りがつかなかった私にとって、南海さんの存在はこれ以上ないほど心強かった。
「それでは、菰田さん。ここからは少し法律的な話をしたいのですが」
「は、はい。お願いします」
「まずその相手方の行為ですが、ストーカー規制法違反での立件は、十分に可能だと思われます」
立件。その言葉が私の頬を叩いて、目を覚まさせる。鍛冶屋さんは法に抵触するような行為をしていたのだと、初めて気づいた。
「立件、ですか」
「はい。ストーカー規制法の対象となっている『つきまとい等』の定義は、恋愛感情が満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、その人または家族などに、特定の行為をすることとなっています。この特定の行為の中には、SNSや電子メール等で何度もメッセージを送ることも含まれています。なので最初の要件、相手方に恋愛感情があったことを証明できれば、立件は可能です」
恋愛感情というなかなか重い言葉が飛び出してきて、私は口をつぐんでしまった。ただ頷くことしかできない。鍛冶屋さんが私に恋愛感情を抱いていたら、それこそ気持ちが悪すぎると思った。
「加えて何度も食事に誘うといった行為は、強要罪でも立件できるかもしれません。強要罪は相手方の生命や身体、自由や名誉、財産に対して害を加える旨を告知し、脅迫や暴行を手段として一定の行動を強要する犯罪ですから。たとえ正規の値段を払っていても、菰田さんの作品は菰田さんの大切な財産だと私は考えます。その財産の購入をちらつかせ、望んでもいない食事に誘うのは強要罪に当たると、私は菰田さんの話を聞いて考えました」
「そんな重大な罪に当たるんですね」
「はい。それにもしこれらの罪名で立件できなかったとしても、菰田さんには、まだ民事で賠償を請求するという選択肢も残されています。相手の出方によっては和解する場合もありますが、それでも法的効力のある判決が得られて、相手は従わざるを得ません」
「で、でもその場合は、裁判でまた鍛冶屋さんと顔を合わせることになりますよね……」
「確かにそれは否定できない事実です。さらに、民事訴訟を起こすには訴状が必要で、その訴状には菰田さんの住所も記さなければなりません。そして、その訴状は相手も読むので、必然的に菰田さんの住所は相手に知られてしまいます。その場合は引っ越しをしなければならず、その引っ越し費用は賠償金として請求することができますが、菰田さんに負担がかかることは確かです。ですので、私としてはあまり強く勧めることはできません」
「そんなの理不尽じゃないですか。被害を受けてるのはこっちだっていうのに」
「おっしゃる通りです。ですが、これが今の日本の裁判制度なんです。当然私たちも刑事で立件できるように努力しますが、民事で争うかもしれないという心構えだけは、菰田さんにもしていただけると幸いです」
私は頷きながらも、言葉を失っていた。住所を鍛冶屋さんに伝えるリスクが、とてつもなく致命的なものに思えた。どうして私がさらに苦しまなければならないのだろう。
そう思うと、何としてでも鍛冶屋さんを刑事裁判の方で立件してほしいという思いが湧いた。
「と、色々な話をしてきましたが、ひとまずは明後日警察に相談することを第一に考えましょう。警告や禁止命令などの措置を出してもらえるように、私も精一杯努力しますから」
「はい。よろしくお願いします」
同意しながら私は、今日以上に話すことを事前にまとめておかなければと思う。きっと警察は、南海さんほどには丁寧には話を聞いてくれないだろう。
南海さんは私が頷いたのを確認すると、ボイスレコーダーの録音停止ボタンを押して、スーツのポケットにしまった。相談の時間が終わった合図だと察する。
私は出されたお茶を飲み干して、南海さんに「今日はありがとうございました」と告げた。南海さんも「こちらこそありがとうございました」と返して、私は帰途につく。
かと思いきや、南海さんは「あの、菰田さん。最後に一つだけよろしいですか?」と尋ねてきた。私は少し意外に思いながらも、座ったまま「何でしょうか?」と答える。
「実は今、菰田さんと同じようにギャラリーストーカーの被害を受けたり、美術業界のハラスメントに苦しめられた作家の方、数人の有志の方で団体を結成し、声を上げようという動きがあるんです。もし菰田さんがよろしければなのですが、そこに参加していただくことはできませんか?」
私と同じように苦しめられている作家がいることは、私も知っていた。でも、今までは誰もがそのことを言わないでうまくいなそう、やり過ごそうという空気があった。だから、そういった動きが出てきたことに私は驚いていた。
現状を変えたいという思いには、もちろん私も同意だ。だけれど、そのために必要な覚悟や労力を思うと、私はどうしても二の足を踏んでしまう。
「……でも、それって私が受けた被害を人前で、初めて会う人たちの前で話すってことですよね……?」
「はい。小さくない精神的な負担がかかることが予想されます。ですから、強制はしません。でも、菰田さんがよろしければ、来週私の事務所で参加者の方々が顔を合わせる機会があるので、ご一考していただければなと」
「……分かりました。帰ったら考えてみます」
すぐにこの場では決められなかったので、ひとまず返事を保留にすると、南海さんは最後にもう一度爽やかな顔をして、「分かりました。菰田さん、本日はありがとうございました」と相談の時間を締めた。私も何度もお礼の言葉を言いながら事務所を後にする。
ビルを出た頃には太陽は傾き始めていて、私の影を着実に長く伸ばす。私は最寄り駅に向かいながら、明後日のこと、そして結成されるかもしれない団体のことについて考えた。
正直気が引ける思いはあるし、作品のことだけ考えていたい。でもそんな状況には、私はもう戻れなかった。
(続く)