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【第5話】二回目の個展



「は、はい。本当ですか。ありがとうございます」


 部屋のドアの前で、私は何度も頭を下げていた。今シーズン初めての木枯らしが吹いていても、少しも気にならない。


 電話の向こうの唐須さんが「本当ですよ」と語りかけてくれて、喜びは増していく。暗く先の見えない道に、明かりが灯された感覚がした。


 電話を終えて、ドアを開けて部屋に入ると、私は両手を高く掲げた。「やった」という声が口から漏れる。


 唐須さんが電話をしてきた理由。それは私の二回目の個展の開催が、来年の四月に決まったからだった。夏頃から唐須さんと何度も話してきたことが、ようやく形になろうとしている。


 もちろん個展で展示する作品はまだこれから描かなければならないし、大変なことには違いないけれど、それでも私は再び作品を発表する場が得られたことに、大きな安堵と感謝をしていた。次回は、前回以上の販売数を目指そうと思う。評価の尺度が統一されていない美術の世界だからこそ、目に見える数字が強い意味を帯びる場合もあるのだ。


 家に帰ってきたのは夜の七時頃だったから、私は仕事場に向かう前に、ひとまず夕食にしようと思い立つ。


 でも、その前にスマートフォンを手に取って、SNSに二回目の個展の開催が決まったことを書きこんだ。唐須さんのギャラリーの写真と一緒に投稿すると、一分も経たないうちに最初の「いいね!」がつく。前回の個展にも来てくれた友達からの「いいね!」だったから、私は純粋に喜ぶことができた。


 水がなくても焼ける冷凍餃子をフライパンで焼いて、ご飯や白菜の浅漬けと一緒に食べる。


 夕食を食べ終わる頃には、時刻は八時になろうとしていた。私は再びSNSを開く。一時間前にした私の投稿にはもう一〇件以上の「いいね!」がついていて、こんなにも私の個展を望んでいてくれた人がいたことを知って、私は嬉しくなった。表情も緩んでしまう。


 でも、その嬉しい気持ちは、一〇分前に到着していた一件のダイレクトメッセージによって吹き飛んだ。


〝菰田ちゃん、二回目の個展の開催おめでとう。俺も絶対行くよ。ところでさ、今から会えない? 俺、今阿佐ヶ谷駅にいるんだけど〟


 ダイレクトメッセージを送ってきた鍛冶屋さんに、悪気はないのだろう。だけれど、私の心は一瞬にして凍りついた。


 阿佐ヶ谷駅は私の最寄り駅だ。特定されるような投稿は今までしていないはずなのに、なぜ鍛冶屋さんは気づいたのだろう。


 身体が震えそうになりながらも、無視することはできなくて、私はどうにか返信を打ちこむ。


〝すいません。これから制作に取りかかりたいので会えません〟


 作品のことを持ち出せば、鍛冶屋さんも納得してくれるだろう。その期待は一分もしないうちに打ち砕かれる。


〝いいじゃん。別にご飯食べようとか言ってるわけじゃないんだし、ちょっと話すだけだから。ていうか、阿佐ヶ谷の辺りに住んでるんでしょ? 先週『フラフラフニクラ』って映画を観たって投稿してたけど、その映画今東京じゃユジク阿佐ヶ谷でしかやってないよ。それに一昨日トマトラーメン食べてたよね。インスタに投稿された写真を画像検索したら、阿佐ヶ谷の店がヒットしたよ。だからさ、会うのにもそんな時間かかんないじゃん〟


 鍛冶屋さんがダイレクトメッセージを送ってくるたび、恐怖は加速度的に増した。何としてでも私に会おうとしている鍛冶屋さんが怖くてたまらない。軽率に映画やご飯の投稿をした私も迂闊だったけれど、普通の人はそこまでして会おうとは思わないはずだ。


 鍛冶屋さんの行動は、常軌を逸している。このままでは私の部屋や仕事場の住所さえ、特定されてしまうかもしれない。


 私はSNSをやめるべきなのか。でも、好きでやっているはずのSNSを制限しなければならないことが、私にはもどかしかった。


〝いえ、それは遠くからわざわざ行ったんです。電車を乗り継いで少なくない時間をかけて。とにかく私は今は作品の制作に取りかかりたいので、鍛冶屋さんには会えません。また別の機会にしてください〟


 そう返信して、私はスマートフォンの電源を切った。


 鍛冶屋さんがどんなに食らいついてこようが関係ない。二時間も三時間も返事をしなかったら、諦めて帰ってくれるはずだ。


 私は仕事場に向かおうとする。もしかしたら鍛冶屋さんはとっくに私の住所を突き止めていて、ドアを開けたらアパートの前にいるかもしれない。


 不安に駆られながら、私は思い切って部屋を出る。目に見える範囲に鍛冶屋さんの姿はなくて安堵したけれど、こんなことで安堵している自分が悔しかった。





 私が個展の開催に向けて作品の制作や諸々の準備に明け暮れていると、年は明け、冬は終わり、近くの民家では梅の花が咲いていた。


 時々バイトもしながら、個展に向けて集中する。そうしたいのは山々だったが、私は主に二つの要因によって完全に集中ができずにいた。


 一つは浅香さんが作品を描かなくなってしまったことだ。浅香さんの作家用のホームページは閉鎖され、SNSの更新も、入社して間もなく途絶えてしまった。


 仕事に忙殺されて、作品を描けなくなってしまったのか。


 私は一度それとなくラインで浅香さんに訊いてみたが、返事は「大丈夫」で要約されるぐらいしかなかった。


 私はその返事を信じきれずに、今も悶々とした思いを抱えている。もしかしたら、もう絵に興味をなくしたのかもしれないとさえ、考えたこともあった。


 でも、浅香さんのことはもう一つの要因に比べれば、言い方は悪いけれど、些細なことだった。


 鍛冶屋さんのつきまといは、まったく止む気配を見せなかった。


 SNSを更新するたびにダイレクトメッセージを送ってくるし、ラインでも美術とは関係のない身の丈話や自慢話をふっかけてくる。幸いまだ私の家にはやってきていないが、阿佐ヶ谷駅を利用するたびに、私は鍛冶屋さんに見られていないかと怯えている。最寄り駅だから、積み重なるストレスは大きい。


 スマートフォンの通知や、今にもインターフォンが鳴らされて鍛冶屋さんが現れるかもしれない現実は、私にとっては率直に恐怖で、最近は一度に長い時間眠れなくなった。引っ越しも検討したけれど、個展の準備と並行して進めるのは難しく、何より私には気軽に引っ越せるだけのお金がまだなかった。


 それでも何とか私は作品を描き続け、準備を完遂し、二回目の個展の開催にこぎつけた。


 都合を合わせ、初日から在廊する。それまでいたスタッフの人は入れ替わるようにして、外に昼休憩に行ってしまい、例によって私は、一人でギャラリーに残される心細い時間を味わう。


 だけれど、私がギャラリーに来たときは既に、妙齢と呼ぶにはまだ若々しい女性がいて、一人ぼっちではなかった。


 作品の解説を含め少し話していると、同じ作家をしていることが分かる。私が絵にかけた時間や想いを感じ取ってくれたのか、その女性は私の絵を一枚買ってくれた。


 いきなり絵が売れて、幸先のいいスタートを切れたことに、私は女性の手を握ってまで喜びを表現したくなる。優しく微笑む女性に、後でSNSをフォローして、投稿されている作品に「いいね!」をつけようと自然に思えた。


 だけれど、喜ばしい時間は長くは続かず、次に訪れたお客さんに私は崖下に落とされるような感覚を味わう。


 女性が帰っていってすぐにギャラリーに現れたのは、他でもない鍛冶屋さんだった。女性が去って私が一人になるタイミングを計ったかのような登場に、私はかすかに鳥肌が立ってしまう。


 にっこりとした表情は、私を苦しめこそすれ、安心させることはなかった。


「やあ、佳蓮ちゃん。また絵を見に来たよ」


 小学生の発表会でも見に来たかのように言う鍛冶屋さんに、私は苛立ちとそれ以上の恐怖を感じた。


 SNSでもラインでも、鍛冶屋さんは今まで私のことを「菰田ちゃん」と呼んでいた。それがどういう思考回路で「佳蓮ちゃん」と呼んでいいと、思えるようになったのだろう。


「菰田ちゃん」も当然嫌だけれど、「佳蓮ちゃん」と呼ばれる嫌悪感は、その比ではない。私は「は、はい……」と答えるだけで、「ありがとうございます」とすら言えなかった。


 ドン引きしている私を見て、いい加減自分がどれだけ気持ち悪いことをしているか気づいてほしい。


 でも、鍛冶屋さんはそんな私の態度を意にも介さず、ギャラリーの中へと進んでいった。


 私が心血を注いだ絵が、鍛冶屋さんに見られる。話の道具にされる。そう考えると、歓迎はできなかった。


 鍛冶屋さんがじっくりと絵を見ていく。その度に私は、何かの辱めを受けているような気分になる。スタッフの人が戻ってきたり、誰か他の人がギャラリーに来てくれないかと思ったが、その気配は残念ながらどちらともなかった。個展は二回目だが、まだまだ私は駆け出しの作家にすぎないと思い知らされる。


「ちょっといい?」と鍛冶屋さんに声をかけられて、私はすくみ上がった。無視することはできず、動揺が隠せていない返事をして、鍛冶屋さんのもとへと向かう。


 鍛冶屋さんは微笑んでいたけれど、それは私がどう思っているかをまるで気にしていない、身勝手な笑顔だった。


「佳蓮ちゃん、第二回の個展の開催、改めておめでとう」


「は、はい……、ありがとうございます……」


「いや、俺も嬉しいよ。佳蓮ちゃんは俺の推しの作家だからね。個展が再び開催されると知ったときは、飛び上がりそうなほど喜んじゃったよ」


 私は寒気を感じた。鍛冶屋さんがしている行為、何度も私のSNSにダイレクトメッセージを送ってきたり、執拗に私の住所を知りたがったりが、「推し」という言葉に矮小化され普遍化されたことに、震えあがる思いがした。


 もしそれをいわゆる「推し活」というのなら、まったく私のためになっていないし、今すぐやめてほしい。


 でもそんなことを言ったら鍛冶屋さんの機嫌を損ねて、絵を買ってもらえなくなるかもしれないので、私はおどおどと礼を言うだけに留めた。


「ところでさ、この『微熱な私たち』いいよね。微熱って言っておきながら、丁寧な筆致にそれ以上の熱さを感じるよ」


 鍛冶屋さんが目をつけたのは、よりによって今回展示している作品の中でも、一番の自信作だった。合わせ鏡に二人の女性の姿が果てしなく映っていく、今までにない構図に挑戦したものだ。


 もちろん作品を褒められるのは、いつだって嬉しい。だけれど、鍛冶屋さんに褒められると、嬉しさよりも嫌悪感が勝ってしまう。買ってほしくない。鍛冶屋さんの手元に置いていてほしくないとすら思ってしまう。


 だけれど私の思いは通じず、鍛冶屋さんは私の解説を聞くと、その場で購入することを即決した。そんな思い切りのよさはいらないのにと思いながら、私は精いっぱい笑顔を作って「ありがとうございます……」とお礼を言う。


 いいことをしたと、満足げな表情をしている鍛冶屋さんを見ると、値段を二倍、いや三倍にしてもよかったと感じた。


「それでさ、今度はいつ一緒にご飯に行こっか。俺、最近美味しいイタリアンの店見つけたんだけど」


 作品の話はアイドリングトークにすぎないみたいに切り出した鍛冶屋さんに、私は顔を引きつらせてしまう。私を食事に誘うためにギャラリーに来たのかと思うと、胃がキリキリと痛んだ。


 でも、もしかしたらこれは私にも原因があるのかもしれない。私はあまりにも誘ってくる鍛冶屋さんに負けて、二月に一回食事に行ってしまっている。そのときは、これで鍛冶屋さんの気が済むならいいだろうと思っていた。


 でも、そんなことはなく鍛冶屋さんは、ますます図に乗ってしまっている。反吐が出そうなほどに。


「すいません……。お気持ちはありがたいんですけど、個展が終わった後もしばらくは忙しくて……。なかなか鍛冶屋さんとご飯を食べる時間は、作れそうにないんです……」


「何? どこかからオファー受けてたり、作品を描いてって頼まれたりしてるの?」


「ま、まあそんなところです」


「そっか。でも、佳蓮ちゃんが作家として求められてるのは俺も嬉しいよ。売れてきてるんだね。いいことだよ」


 根掘り葉掘りどこからの依頼か訊かれたらどうしようという私の不安は、ひとまずは杞憂に終わった。


 本当は、私に依頼は一つも届いていない。この個展が終わったらバイトの時間以外は暇になってしまうし、鍛冶屋さんとの食事の時間だって、その気になれば作り出せる。


 だけれど、私はどうしてもそうしたくなかった。鍛冶屋さんが話すことは自分のことばかりで、美術の話はほとんど出てこない。それに付き合うほど、今の私には余裕はなかった。


「そうだ。一緒に写真撮ろうよ。佳蓮ちゃんが二回目の個展を開催できた記念に」


 それからも散々自分語りをしてから、とどめのように鍛冶屋さんが放った言葉に、私は頭がクラクラした。


 私だって在廊しているからには、写真撮影ぐらい応じたいと思う。でも、それはちゃんと節度を持って接してくれたらの話だ。心を許していないのに、過剰に馴れ馴れしくしてくる鍛冶屋さんとじゃない。


 でもコレクター、作品を買ってくれる人あっての作家だから、私はNOとは言えなかった。


 小さく頷くと、気が進まない私の心情なんて気にしていないかのように、鍛冶屋さんは私の隣に立つ。掲げられたスマートフォンのインカメラに、微笑んでいる鍛冶屋さんとぎこちない表情をしている私が映る。


「ほら、もっと笑って」と言われても、腰や背中に手を回されそうなほど密着した距離では、私は恐怖で笑うことができない。鍛冶屋さんからかすかに香る、花の匂いの香水が本当に嫌だ。


 でも、笑わなければ写真撮影は終わらない気がして、私はどうにか口角を持ち上げた。インカメラの中の私は口元は笑っているけど目は笑っていなくて、そのアンバランスな表情がおぞましく見えた。


「佳蓮ちゃん、ありがと。ねぇ、次はいつ在廊してくれるの?」


 地獄のような写真撮影からようやく解放されても、鍛冶屋さんは素知らぬ顔で追い打ちをかけてきて、私は人を思いやる心がないのかと思う。


 辛うじて「明後日の予定です」と答えても、「そっか。じゃあまた来るね」と言われて、私はさらに深い谷底に突き落とされた。


 また鍛冶屋さんと顔を合わせる。在廊なんてしたくないと、はっきり思ってしまった。


 そこでようやくスタッフの人が戻ってきて、私はようやく鍛冶屋さんと二人きりじゃなくなった。


 会計を済ませると満足したのか、鍛冶屋さんは「じゃあ、またね」とギャラリーを後にする。


 鍛冶屋さんの姿が見えなくなると、私は力が抜けたように椅子にへたりこんだ。スタッフの人に心配されないように、浅いため息をつく。


 スタッフの人が取り出した売約済のシールを見ると、安堵や悔しさや情けなさといったいくつもの感情が押し寄せてきて、私は少しだけ泣きそうになった。



(続く)

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