【第4話】無情の就職
無情だ。駅を出てすぐに容赦なく照りつけてくる日差しに、私はそう思う。今日の東京の予想最高気温は三八度。もはや亜熱帯を通り越して熱帯だ。道行く人たちもあまりの暑さに、どこか顔をしかめているように思える。
日傘を差しながら歩く。でも、暑さは少しも手を緩めずに、地面からの照り返しで私に襲いかかってきていた。
無情といえばSNSもそうだ。なかなか作品を発表する機会がないなかでも、私はこまめにSNSを更新していた。
SNSは嫌いじゃない。でも更新するたびに必ず送られてくる鍛冶屋さんからのダイレクトメッセージは、正直鬱陶しい。毎回ある程度の長さがあるから読むだけで時間がかかるし、どうでもいい話も多かったから、この人は私の他に話し相手がいないのかなとさえ思ってしまう。
はっきりとやめてくださいとも言えず、毎回同じような返事をする私にも、鍛冶屋さんはダイレクトメッセージをやめなかった。まさかとは思うが、私がうんざりしているのが分かってないんだろうか。
今日もSNSに投稿しようと思っているけれど、また鍛冶屋さんからダイレクトメッセージが届くのかなと思うと、私は少し憂鬱な気分にさえなっていた。
ギャラリーは、駅から歩いて五分ほどのところにあった。私が四月に個展を開いたギャラリーよりも少し広いそのギャラリーは、ビルの三階にあり、外からは中が簡単に見えないようになっていた。
階段を上がり、ギャラリーのドアを開ける。入り口に座っている女性と目が合うまでに、時間はかからなかった。
「えーっ、菰田じゃん。来てくれたんだ。ありがとう」
椅子から立ち上がった千曲さんは、若干驚きつつも笑顔で私を迎えた。あけすけな態度に、私も緊張せず応えられる。
「学生時代にお世話になった千曲さんの個展ですから。行かないわけにはいかないですよ。それよりすいません。今日何も持ってきてなくて」
「いいよいいよ。私は菰田が来てくれただけで嬉しいから。ほら、ゆっくり見てってよ。で、気に入った作品があったら、買っていってくれたら嬉しいな」
さりげなくかけられたプレッシャーを逃がすかのように、私は小さく笑った。「では、お言葉に甘えて」と、ギャラリーの中を見ていく。
千曲さんは油彩画、特に人物画を得意としている。モデルとなった人間を美化するのではなくありのまま、というかむしろ実物よりも醜めに、汚めに描くというなかなかに尖った作風だ。
でも、それがかえって「人間って綺麗なだけじゃないよね」というリアリティを感じさせて、私は好きだ。
同じように思っている人もいるようで、多くの作品が既に売約済となっていた。まだ開催期間の半分を過ぎたぐらいだから、このままだと完売する可能性も高い。
作品を見る私を見る千曲さんの視線を感じつつ、私は素直に羨ましいなと思った。
「どう? 同じ作家の目から見て。率直な感想を聞かせてほしいな」
いつの間にか近づいてきていた千曲さんに声をかけられて、私は少し驚く。貶すような言葉は思いつかないけれど、それでも千曲さんが喜ぶように言葉を選ぶ必要があった。
「すごくいいと思います。構図も冴え渡ってますし、強みだった配色にもさらに磨きがかかっていて。人間の醜さ汚さを見つめることで、逆に人間に対して希望を見出そうとするみたいな。そんな千曲さんの想いを、より強く感じます」
「ありがと。同業者にそう言ってもらえると自信つくよ。実際この個展を開くまでは色々あったからね。辛いこともあったし。でも、菰田にそう言ってもらえて報われたよ。諦めずに開催までこぎつけられて、本当によかったなって思う」
千曲さんの言葉には重みがあって、私は「そうですね」と微笑みながら返事をした。
千曲さんは先々月、ネットに投稿した作品が「不謹慎だ」と炎上していた。母親が小さな子供を手にかけるまさにその瞬間を描いた作品だ。
確かに倫理的には良いとは言えなかったけれど、それでも作品を通して社会問題を提起したり、現状に警鐘を鳴らすのも作家の存在理由の一つだから、私は千曲さんが悪いとは少しも思わなかった。
なのに、そのことを理解できない人たちが一方的に騒ぎ立てて、一時はこの個展の開催まで危ぶまれた。
でも、こうして無事開催できているから、関係者たちの多大なる努力があったからだろう。実際千曲さんは多くの作品を販売している。分かってくれる人は分かってくれるのだ。
「ところで菰田は最近どうなの? また個展開けそう?」
千曲さんはなんてことのない話の延長線上で訊いてきたけれど、私はかすかに顔を引きつらせてしまう。
はっきり言って、次回の個展についてはまだ何も決まっていない。開催するかどうかさえ、だ。
気にしていないという風に笑う余裕も、張れるだけの見栄も私にはなかった。
「えっと、正直に言うとまだ完全に白紙の状態です。作品は少しずつ描いてはいるんですけど……。そう遠くないうちに開けるようがんばります」
「うん。まあ、そんなもんだよね。でも、半分くらいは売れたんでしょ。だったら次もあるって。絶対とは言えないけど、菰田が描くのをやめない限りは。まあまた早く個展開けるようにがんばりなよ。今度は私も行くからさ。もちろん会期中にね」
「本当ですか……? そう言って、千曲さんこの前は来てくれなかったですよね……?」
「本当だって。あのときはちょっと制作に行き詰まってた時期だったから。絵を見るような気分じゃなかったんだ。でも、次あったら絶対行くから。どんなに悩んで行き詰まったとしても」
「約束ですよ」
「うん、約束ね」
私たちは小さく笑いあう。今した約束を果たすためにも、何としてもまた個展を開けるようにならなきゃなと思う。今度機を見て唐須さんに連絡を取ってみようか。少しでも話を前に進めなればならない。
そう一人で考える私をよそに、千曲さんは「ところでさ」と話題を変えようとする。
どんな話でも大丈夫。そう私は思ったけれど、千曲さんが続けた言葉は、私の「大丈夫」の範疇を越えていた。
「彩夏さ、来月から就職するらしいんだけど知ってる?」
突然告げられた事実に私は唖然として、首を横に振ることすらできなかった。「えっ……」という言葉になっていない声しか出てこない。
千曲さんは浅香さんと大学の同じ専攻の同級生で今も仲がいいから、浅香さんについて私が知らないことを知っていてもおかしくない。
いや、それにしてもだ。そんな素振り、浅香さんは一度も見せていなかった。
「なんかIT企業? の事務やるんだってさ。社会人経験ないどころか、絵しか描いてきてないから、ちょっと不安だよね」
「まあ絵しか描いてきてないのは、私も同じなんだけど」そう千曲さんは若干笑いながら言っていたけれど、私にはまったく笑いごとじゃなかった。
先輩としても作家としても尊敬している浅香さんが、一般企業に就職するなんて考えられないし、考えたくもない。もちろんそっちの方が収入は安定するんだろうけれど、浅香さんも絵を描かずにはいられない性分のはずだ。仕事終わりや休日に描くとしても、作品数が減るのは避けられない。
それは私にとっては、簡単に受け入れられない未来だった。
「あの、浅香さんは絵を続けるんでしょうか……?」
「さあ、どうだろうね。それについては、私も何も聞いてないかな。でも、就職を機に描かなくなっちゃう人も少なくないからね。まあもちろん、私は彩夏にはそうはなってほしくないけど」
「私もです。浅香さんには絵を続けてほしいです」
「うん。私もそう祈ってるよ」
千曲さんが話題を結ぶ。それ以上に今の私たちが、浅香さんについて言えることはなかった。
会話が途切れるのは悪い気がして、私は私たちの目の前に飾られている絵のポイントを千曲さんに尋ねる。老夫婦が正面を向いてぎこちない笑いを浮かべている絵の狙いを、千曲さんはつぶさに話してくれたけれど、申し訳ないことにその説明は、私の頭には全然入ってこなかった。
千曲さんの個展会場を出て家に帰るまでの間、地下鉄に乗った私はいてもたってもいられず、スマートフォンを手に取っていた。浅香さんとの個別ラインの画面を開く。
最後のメッセージは二週間前。国立西洋美術館の企画展がどうだったというやりとりで、止まってしまっている。
久しぶりにラインを送るのは少し勇気が要ったけれど、このままでは私のモヤモヤは解消されない。
私は思い切って短いメッセージを打ちこんだ。
〝今、少しお話しできますか?〟
簡単なラインに、すぐに既読はつかなかった。当然だ。浅香さんだって暇なわけではない。
私はいつ返信が来るか気を揉みながらも、最寄り駅に到着するまでの乗車時間をSNSを見たり、電子書籍を読むことで潰した。電車は最寄り駅に到着し、私は一〇分ほど歩いて帰宅する。
家に帰って一時間くらい待ってみても、浅香さんが返信をよこすことはなかった。というかまだ既読すらついていない。スマートフォンの電源を切って作品を制作している最中なのか、もしくはバイトが忙しいのか、ひょっとしたら大分長めの昼寝の途中なのか。既読がついていない以上、続けてラインを送っても意味はなくて、私はひたすら待つしかない。
とりあえず制作中の絵を少しでも進めておこうと、仕事場へ向かう。手を動かしていれば、気も少しは紛れるはずだ。
スマートフォンが着信音を鳴らしたのは、私が作品の制作を切り上げて、晩ご飯でも作ろうかと家に帰ってきた頃だった。作品に向かっている最中も、浅香さんのことが気になって完全に集中できていなかった私は、すぐにスマートフォンを手に取る。
ホーム画面の通知は、ようやく浅香さんからの返信が来たことを伝えていた。
〝ごめん。佳蓮。バイトが忙しくて遅くなっちゃった。で、どうしたの? 話って〟
心当たりはついているだろうに、文面からすっとぼけている浅香さんの表情が、私には想像できるようだった。
なんとなくつけていたテレビの電源を切る。真面目な話を、呑気なクイズ番組に邪魔されたくはなかった。
一つ息を吐いてから、私は意を決して返信を送る。
〝浅香さん、就職するって本当ですか?〟
〝それって、もしかして光咲から聞いた?〟
〝はい。今日個展に行って少し話してたら、浅香さんの話題が出てきました〟
〝そっか。まあ光咲なら喋っちゃうか。別に私も内緒にしといてとは、言わなかったわけだし〟
本題を切り出しても、浅香さんが慌てている様子は、文面からは見られなかった。否定はしていなかったから、就職が事実であることを私は察してしまう。
それは浅香さんが次に送ってきたラインで、確定事項に変わった。
〝そうだよ。私就職することにした。まあ私の叔母さんが経営してる会社で、言っちゃえばコネ入社なんだけどね。今から面接対策しても、職歴がない私が受かるまでどれくらいかかるかは分かんないから。まあ一日六時間の契約社員からのスタートなんだけど、いずれは正社員になれるようがんばるつもり〟
浅香さんのラインは淡々と事実だけを伝えてきていて、私には目眩がするようだった。別に今までもとても近くにいたわけじゃないけれど、それでも浅香さんが遠くへ行ってしまうような気がした。
〝どうしてですか? どうして急に就職しようと思ったんですか?〟
〝まあ色々だよね。色々な要因が絡み合って、特にこれって言える理由はないかな。でも人生って大体そんなもんでしょ〟
〝ごまかさないでください。浅香さんはあんなに絵に情熱を注いでいたのに。もしかして、絵を描くことが嫌になったりしたんですか?〟
私がそう送ってから浅香さんが返信をするまでに、少し間があった。その微妙な時間に、私はもしかしたら本心を言い当ててしまったのかもしれないと不安になる。そうだったら、今すぐ平伏して謝りたい。
不安はどんどん大きくなり、「すいませんでした」と打ちこんで、送信しようとする。そのときだった。浅香さんが返信を送ってきたのは。
〝ううん、違うよ。別に絵が嫌になったわけじゃない〟
〝じゃあ、どうして……?〟
〝だから色々だって。まあ一つ挙げるとするなら、このまま絵を描いてていいのかなって思ったんだよね。佳蓮もそうだけど私たちって不安定な職業でしょ。だからちょっと安定がほしくなっちゃったんだよね。私も三〇見えてきたし〟
浅香さんの説明は、私にも痛いほど分かった。
私たちは手を動かして作品を完成させない限り、作家としての収入はゼロだ。食べていけるかどうかは、自分のインスピレーション頼り。毎日が綱渡りだ。
でも、浅香さんは最近注目されてきてるし、前回の個展は完売していたし、私よりも作家として評価を受けている。そんな浅香さんでも、将来について悩むのか。いや、浅香さんぐらいの立場だからこそ、見えてしまうものや分かってしまうこともあるのかもしれない。
私は浅香さんを咎められなかった。浅香さんが自分で決めた選択だ。文句を言う権利は私にはない。
〝そうですか……。確かに安定した収入はほしいですよね。別に絵は働きながらでも、退勤後や休日といった空き時間に描くことはできますから〟
〝そうだね。私も絵を描くことは、なんとか続けたいなって思ってるから。夜中まで残業、休日出勤が当たり前なブラック企業じゃないことを祈ってるよ〟
〝はい。私も浅香さんの新作楽しみにしてます。どれだけ時間をかけてもいいので、絵を描くことだけはやめないでくださいね〟
〝分かってるよ。じゃあ、佳蓮。おやすみー〟
〝はい。おやすみなさい〟
もし浅香さんが全て本当のことを言っているなら、この時間まで続いたバイトで疲れているのだろう。「おやすみ」と言うのには少し早い気もしたが、私は話を終わりにしようとする浅香さんに素直に従った。
スマートフォンをテーブルに置き、テレビをつける。バラエティ色の強いクイズ番組を漫然と見ながら、私は浅香さんは今どうしているだろうと、思いを馳せる。
この国の美術業界から浅香彩夏という才能が、少なくとも表立っては失われたことは、今後数十年のことを考えると大きな損失だ。
でも、浅香さんは絵をやめるわけではないと言う。個展を開くことはできなくなっても、今はネットに発表の場はいくらでもある。いずれ新作を見ることもできるだろう。
私はそんな楽観的な思いを抱いて、ソファから立った。簡単なパスタでも作ろうとキッチンに向かう。
八月の夜は、外でセミがじりじりと鳴く。
浅香さんがその後、新作を発表することはなかった。
(続く)