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【第3話】ホテルのレストラン



 地下鉄の出口から少し歩くと、その建物はすぐに見えた。他の建物よりもひときわ高く、シャンパンゴールドの壁が風格と歴史を感じさせる。


 今まで訪れようとも思わなかった格調高いホテルに、私はドキドキしながら足を踏み入れた。ロビーには絢爛豪華なシャンデリアが目を引き、あちこちに装飾が施されているから、まるで宮殿か迎賓館みたいだ。


 でも、今日は泊まりに来たんじゃない。というか私の収入じゃ、こんな高級ホテルには泊まれない。


 私はロビーを通り抜けて、レストランへと向かった。でも、このホテルはレストランもいくつもあって、目当てのレストランを探すのも一苦労だった。


 ようやく入り口を見つけてレストランに入る。天井の高さは変わらないのに、柱が少ないからどこか開放感があった。テーブルや椅子からちょっとしたインテリアまで、全てのものが確かなセンスを感じさせ、私が来るような場所じゃないと瞬時に感じてしまう。


 でも、やってきたスタッフに予約してある名前を告げると、私はもう後には戻れなくなる。店内に案内されると、柳のような色のスーツを着た男性がそこには座っていた。


「やあ、菰田ちゃん。今日は来てくれてありがとう」


 そう言って、鍛冶屋さんは微笑む。私が進んでここに来ていると思っているみたいに。


 どうしてそんな勘違いができるんだろうと思いつつ、おくびにも出さずに「はい。お久しぶりです」と答えて座る。向き合うと、鍛冶屋さんのほんのりと焼けた肌に真っ白な歯がミスマッチだった。


「じゃあ、ひとまずは初めての個展の成功おめでとう」


 注文した白ワインで乾杯をすると、鍛冶屋さんは真っ先にそう言ってきた。「成功」という言葉を、私は胸の中で反芻する。


 一ヶ月ほど前に終わった私の初個展は、六日間で九枚の絵を販売していた。確かに一枚も売れない可能性さえ考えていたから、その意味では成功と言える。


 でも、売上の総額は私のバイト代一ヶ月分、いやよくて二ヶ月分くらいにしかならなくて、とても絵だけで生活できる額じゃない。絵だけで食べていける、いわゆる職業作家への道のりの険しさを改めて突きつけられて、私は気が遠くなる思いがしていた。


「あ、ありがとうございます」


「いや、本当よかったよ。俺もさ、最終日にもう一度ちょっとだけ様子を見にいったんだけど、けっこう売約済の絵多かったじゃない。手ごたえもあったんじゃないの?」


「それは、まあはい。ありました」


「でしょ。俺、菰田ちゃんの絵、『終焉と芽吹』、書斎の一番目立つところに飾ってあるもん。いや、めっちゃいいよ。何度見ても飽きないどころか、新たな発見があって、見れば見るほど好きになってる」


「それは、ありがとうございます。私も嬉しいです」


「でしょ? ねぇ、気が早い話ではあるんだけど、次の個展はいつやるの? 俺、菰田ちゃんの新作見たいな」


「そ、それは今のところはまったくの未定です。というか個展に出せるような絵も、それほど描けてないですし……。もちろん、なるべく早くにまた開催できるように努力はします。また鍛冶屋さんをはじめとしたコレクターの方々に、絵を見てもらえるようにがんばります」


「そう。まあ焦らずやりなよ。あまり根詰めすぎちゃって倒れちゃったら、元も子もないから」


「は、はい」と答えつつ、私は鍛冶屋さんの優しさを言葉通りには受け止められなかった。


 もし、私がまた個展を開いたとして、鍛冶屋さんは再びギャラリーにやってくるのだろうか。もちろん買ってくれるかどうかは、私がこれから描く絵にかかっている。でも、この前みたいに絵を見ている時間よりも私と話している時間の方が長かったら、私は笑顔で対応できる自信がない。


 ふらりと絵を見に来て、必要最低限の話をして、絵を買ったら足早に立ち去ってくれる。そんな理想のコレクター像を、私は心の中で鍛冶屋さんに押しつけていた。鍛冶屋さんはそういうタイプのコレクターではないのに。


「でさ、俺最近主にFXをやってるんだけどさ、いいよFXは。少額から始められるし、手数料も全然かからないし。この前なんて、ニューヨーク市場だったんだけど一〇万ドルの利益が出ちゃって。これでもう向こう一年は食べていくのに困らないよ。いや、本当よかった。さっさと会社を辞めて、投資一本に絞っといて大正解だったよ」


 やってきたオードブルを食べながら、鍛冶屋さんの話を私はなるべく相槌を返しながら聞いていた。でも、私は鍛冶屋さんの投資の話に、まったく興味が持てない。


 鍛冶屋さんは最初は美術の話題から話を始めていた。どこそこの美術館は常設展示も凄いとか、この作家がこれから来そうだとか。鍛冶屋さんの知識は広範で、私にも興味がある話題だったから、まだ前向きに聞いていられた。


 でも、それは最初だけで、どんどん鍛冶屋さんの話は美術に関係のないものにシフトしていた。投資がどうだとか、政治がどうだとか。話自体も硬かったし、どこか自分以外の人間を見下している態度が言葉の節々から滲み出ていて、聞いていて楽しいとは言えない。「今の日本は終わってる」と言われて、誰が笑顔でいられるだろうか。


 もちろん私だって表現をしているからには、今の日本の問題について少しは知っているつもりだ。でも、それは今日で会うのが三回目の人間にする話ではないだろう。


 なのに、鍛冶屋さんは自慢話や自分の主張を押しつけてくることをやめなかった。私がまったく同じことを思ってるとでも考えてるんだろうか。


 一方的に話されて、逆に今日までどうして生きてこれたんだろう? という疑問すら湧いてくる。五〇歳を機に仕事を辞めたと言っていたけれど、周囲はもしかしたら鍛冶屋さんの退職を喜びさえしたのではないか。


 もちろん、そんなことは口が裂けても言えなかった。


「ほら、メインのカレーが来たよ。さ、食べて食べて」


 相槌しか打てない私がどう思っているかもお構いなしに、鍛冶屋さんは無邪気にカレーを勧めた。今日のメインディッシュであるカレーは、茹でてあったり素揚げの野菜がふんだんに盛りつけられていて、確かに美味しそうではある。


 食欲を刺激するスパイスの香りに私は負けて、「では、お言葉に甘えて」と食べ始めた。香りもコクも普段食べているようなレトルトカレーとは段違いで、舌が喜んでいるのが分かる。


 でも、私の気分はあまり晴れなかった。今食べているダイナーセットは一食八〇〇〇円で、この野菜カレーだって単品で三五〇〇円する。そんな高いご飯を私が食べていいのか。


 いや、百歩譲っていいとしても、こんな高いカレーをまだ面識の浅い鍛冶屋さんに食べさせてもらっていることが、率直に言って気味が悪かった。私に大きな貸しを作ろうとしている。そんな意図が透けて見えた。


 なのに鍛冶屋さんはビーフカレーを食べて、あっけらかんと「美味しいね」と言っていたから、私は「そうですね」と頷くしかない。


 口に合っているという演技をしなければならなくて、それが文句なしに美味しいカレーに申し訳なかった。


「ねぇ、菰田ちゃんって彼氏さんとかいるの?」


 鍛冶屋さんが何の気なしに訊いてきたから、私は食べていたカレーを吹き出しそうになってしまった。


 完全にアウトだ。もし鍛冶屋さんがまだ会社にいて、部下の女性に同じことを言ったとしたら、確実にセクハラで訴えられるだろう。この人はそんなことも分からないのか。


 私は軽く失望する。何も考えていないみたいな鍛冶屋さんに、私は望まれていないだろう言葉を口にした。


「は、はい。二年前からお付き合いさせていただいている人がいます」


「へぇー、その人ってどんな人? 二年前からってことは、その人も美術をやってたりすんの?」


 鍛冶屋さんの配慮のなさは、留まるところを知らなかった。彼氏の事情を聞き出そうとする神経が分からない。というか、今私に彼氏はいない。誰かと付き合いたいともあまり思わない。


 でも、もしかしたら鍛冶屋さんは私の嘘を、既に見抜いているのかもしれない。つぶさに訊き出すことで、私の嘘に矛盾が生じる瞬間を狙っているのかもしれない。だとしたら、鍛冶屋さんの性格の悪さは私の想像を超えている。


 その手には乗りたくなくて、私は「すいません。ちょっとあまり言いたくなくて……」と深刻そうな表情を装い、鍛冶屋さんが引き下がってくれる可能性に賭けた。


 何らかの人には言えない事情を勝手に感じたのだろう。鍛冶屋さんは「そっか。言いたくないならしょうがないね」と言葉を収めてくれた。


 存在もしない彼氏についてどう思われているのかは不安だったけれど、私は内心胸をなでおろす。ちょっとは理解があるじゃないですか。


 でもそんな私の安堵は、すぐに鍛冶屋さんが放った言葉に破壊される。


「まあ彼氏がいるっていうのはいいことだよ。一人だけじゃ思いつかない表現もあるし。それにさ、もし絵が描けなくなったりスランプに陥ったりしても、その彼氏さんが支えてくれるでしょ。それってとてもありがたいことだからね。どんな事情があるかは知らないけれど、その彼氏さん、大切にした方がいいよ」


 追い打ちのようにかけられた言葉に、私は曖昧に笑って返すことすらできなかった。


 確かに私だってスランプに陥ったことはあるし、これからもきっとスランプは訪れるだろう。


 それでも私は周囲の支えと何より自分の力で乗り越えてきたし、これからも乗り越えていくつもりだ。デリケートな問題だから、鍛冶屋さんには関知されたくない。


 何より「絵が描けなくなっても彼氏がいる」ということは、彼氏さえいれば私は絵を描かなくてもいい、経済的にも情緒的にも彼氏に支えてもらえると言っているのと同じことだ。その延長線上には「女は絵を描かなくてもいい」という、百年前でさえそぐわない価値観がある。私は大学の中でもあまり我が強いタイプではなかったけれど、さすがにそれは私のプライドが許さない。


 鍛冶屋さんは本当に、私のことを作家として見ているのだろうか。疑わしく感じてしまって、私はこんなにも美味しいカレーを、ただ口に運ぶだけの機械に成り下がってしまう。


 この後にはデザートにパンケーキが出る。多少は楽しみにしていたはずなのに、私はこのカレーを食べ終わったら、すぐにでも帰りたいと思っていた。





〝新作、ただいま絶賛制作中です。今回は今まで使っていた紙を別の紙に変えてみたのですが、にじみやぼかしがいい感じに出ていて、イメージしていた以上のものが描けそうです。今は全体の半分ぐらい。完成まで引き続きがんばります〟


 思いついた文面を書き連ねて、SNSに投稿する。制作中の新作の一部分を撮影した写真も添える。


 いくつかのハッシュタグもつけた投稿は、一分もしないうちに最初の「いいね!」がついた。認められている感覚に、私は安堵の息を吐く。


 現代の作家にとって、SNSは必要不可欠なツールだ。自分からこまめに発信していかないと、存在を知られてもらえないし、反対に忘れられてしまう。私にとっては個展と同じくらい、作家活動の生命線だ。


 また「いいね!」がつく。私は心の中で「ありがとうございます」と呟いた。


 私のアトリエ、もとい仕事場は、私の家から徒歩五分ほどのところにあった。部屋に戻ってSNSを確認すると、「いいね!」の数は四件に増えていた。だから、私はシャワーを浴びている間も、前向きな気分でいられる。


 冷凍のピザで晩ご飯を済ませ、またSNSを開くと、「いいね!」の数は七件に増えていた。「新作楽しみです!」といったコメントも来ていて、私はほくそ笑んだ。ファンが確実にいて、私を作家にしてくれていることが嬉しかった。


 そして、SNSにはダイレクトメッセージが来ていた。送り主の見当は私にはついていたけれど、それでも私はメッセージを開く。目に飛びこんできた文面は、一度では見きれなかった。


〝菰田ちゃん、こんばんは。元気にしているようで安心したよ。紙、変えてみたんだね。確かに水彩画の紙はアルビレオとかウォーターフォードとかアルシュとか種類が豊富だから、色々と試して菰田ちゃんの表現にぴったりと合う紙を見つけ出してほしいな。そうそう。俺はさ、この前長野県立美術館に行ってきたよ。企画展もよかったけど、常設展では東山魁夷の絵がたくさん展示されていて。すごいためになった。日本画と水彩画だからちょっと違うけれど、菰田ちゃんにも参考になる点が多くあると思うから、今度行ってみたらいいと思うな。ねぇ、今度いつ会える? またご飯食べたりしながら話そうよ。俺、この前恵比寿に美味しいラーメン屋さんを見つけたんだ。あっ、安心して。雑多で汚いような店じゃなくて、オシャレで個室とかもあるラーメン屋だから。味もあっさりしていて、きっと菰田ちゃんの口に合うと思う。よかったらまた連絡ちょうだいね。じゃあ、これからもがんばってね〟


 鍛冶屋さん……、気持ち悪っ。


 スクロールを重ねてようやくメッセージを読み終わったときに、私は反射的に感じてしまった。自慢話をせずに美術の話題に留めているだけまだマシだとも言えるが、さすがにこの長さは気味が悪い。よかれと思って打ちこんでいるところを想像すると、鳥肌さえ立ってきそうだ。


 しかも、鍛冶屋さんがこの手のメッセージを送ってきたのは、今回が初めてではない。個展の期間中から私が何か投稿するたびに、ある程度まとまった長さのメッセージを送ってきている。私がどう思っているかなんて、まったく気にしていないのだろう。毎回「今度いつ会える?」と、必ず言ってくるのがその証拠だ。


 率直に言って会いたくないし、そのくらい毎回返す簡素なメッセージで察してほしい。


 でも、また絵を買ってくれるかもしれない鍛冶屋さんに、私ははっきりとNOとは言えなかった。何とか指を動かして、簡単な返信を打ちこむ。


〝いつも気にかけてくださってありがとうございます。お食事の件なのですが、今は忙しくてなかなか時間が取れそうにありません。なので、もう少し制作が落ち着いてからにしたいです。どうかよろしくお願いします〟


 送信してすぐに既読がつく。この画面の向こうに鍛冶屋さんがいると思うと、私は悪寒さえ覚えてしまう。


 返信は三〇秒もしないうちに来た。〝そっか。忙しいならしょうがないね。また連絡するね。落ち着いたら一緒にご飯食べに行こう〟。


 その文面を見て、私はかすかに絶望する。ダメだ。私の気持ちを全然分かってくれてない。いや、もしかしたら分かろうという発想自体がないのかもしれない。


 私は完全に嫌になって、笑顔のスタンプを押して会話を終わらせた。スマートフォンの電源を切って、適当に漫画を読みだす。


 もう何回も同じやり取りをしているのに、いつになったら鍛冶屋さんは自分が避けられていると分かってくれるのだろう。その鈍さや無神経さは、とても美術が趣味の人間のそれとは思えない。もっと思慮深くなってもいいのに。


 頭の中で愚痴り続けながら、私は漫画のページを捲る。ほんわかとした日常系なのに、私の心はちっとも癒やされなかった。



(続く)

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