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【第2話】三日ぶりの在廊



 バックヤードから店内に出ると、整然と並んだ棚が目に入った。


 絵の具、鉛筆、紙、キャンバス。陳列されているのは全てが表現をするために使う道具で、クリエイティブな場にいるという実感が私の身を包む。平日だから人は少ないものの、店内にいる人たちは、たぶん全員が私の同志だ。そう思うと、心強さが湧いてくる。


 私は両手にかごを手にして歩き出した。好きな場所でバイトができる、ささやかな幸せを感じながら。


 油絵具のコーナーに着いて、少なくなってきた色の絵の具を補充する。なんてことない単純作業も、私は苦にならなかった。たとえバイトでも絵に関わる仕事ができているのは嬉しいし、頭では常に個展のことを考えて、退屈する暇がない。


 ギャラリーに人は来てくれているのだろうか。私の絵を見て、もしかしたら購入してくれているのだろうか。私の頭と心はここにあらずといった状態で、隣に人が近づいてきていることにも、すぐに気がつかなかった。


「すいません。絵の具、見させてもらっていいですか?」


 その声が誰のものなのか、私には瞬時に分かった。顔を上げると、私の隣には浅香さんが立っていた。ニヤニヤと微笑んでいて、私に会えたことを喜ばしく思っている。


 私は他のお客さんにもそうするように「失礼しました」と言って、油絵具の前から一歩離れる。でも、浅香さんの目は油絵具じゃなくて、私に向いたままだった。


「佳蓮じゃん。本当にここで働いてたんだ。ようやく会えたね」


「は、はい。あの、浅香さん、何しに来たんですか……?」


「何しにって、買い物に来たに決まってんでしょ。絵の具とか油とか色々切れてきちゃったから、買い足そうと思って」


「で、ですよね」


 私が軽く目を泳がせていても、浅香さんはまだ絵の具を選ぼうとはしなかった。私をじっと見たまま、さらにいたずらっぽい微笑みを浮かべて言う。


「ねぇ、佳蓮。今日バイトさ、何時に終わる?」


「えっ、何時って……?」


「せっかく会えたんだから、バイト終わりにお茶飲んだりとか、ご飯食べたりしたいなって。佳蓮も大丈夫だよね?」


「はい。私も今日は特に予定ないので大丈夫です。今日のバイトは六時に終わりますね」


「分かった。じゃあそれまでカフェで本読んだり、適当に映画観たりして時間つぶしとく。六時過ぎたら、また連絡するね」


 私は頷いた。どのみち今日も、晩ご飯はその辺のファミレスで済ませようとしていた。それが一人か二人かの違いしかない。


 私が同意したことを確認すると、ようやく浅香さんは絵の具に目を向けた。真剣に絵の具を選んでいる浅香さんから、私はそっと離れる。


 絵の具の補充はまだ途中だったけれど、別に急いでやらなければならない仕事でもなかった。





「で、どうよ。個展の調子は?」


 浅香さんが訊いてきたのは、私たちがドリンクバーから戻ってきてからすぐのことだった。さっそく直球を投げ込んできた浅香さんに、私は小さく笑う。そうできたのは、ここに来る間に唐須さんから一件のラインが送られてきたからだった。


「実は、今日も絵が一枚売れました!」


 ほくほくした顔で口にする私に、浅香さんは即座に「えっ、マジで! すごいじゃん!」と反応を示してくれるから、私はおだてられているような気持ちよさを感じた。いつもは少し鬱陶しく感じる他の客の話し声も、まったく気にならない。


「ちなみにどの絵が売れたの?」


「『荒野の三人』です。ほら、一番手前に飾られていた」


「あぁ。あの、荒野にアイドル衣装を着た三人の女の子が立ってる絵ね。よかったじゃん。あの絵、私も好きだよ」


「はい! これで始まってから三日連続で絵が売れて! 初日は一枚、昨日が二枚、そして今日が一枚。すごくないですか!? まだ何の実績も残してない私がですよ!?」


「うん。すごい順調じゃん。まあ佳蓮の才能は認められるべきだと私は思ってたからね。嬉しいけど、そこまで驚いてはないよ」


「そんなこと言ってー。さっき『えっ、マジで!』って、めっちゃ驚いてたじゃないですかー」


「それは反射だよ。脊髄反射」


 私たちは笑いあう。お酒はまだ一滴も飲んでないのに。少しずつでも着実に認められている現実が、私に小さな自信を与えていた。


「ちなみに買ってくれたのはどんな人なの?」


「えっと、一枚目が五〇代の男性。二枚目と三枚目が四〇代の女性。四枚目が六〇代の男性だって言ってました」


「やっぱそれくらいの年齢の人になるかぁ。佳蓮、言われなくても分かってると思うけど、その人たちのこと大切にしなきゃダメだよ。コレクター界隈は、横のつながりが強いからね」


「はい。感謝の思いを胸に、またその人たちに見てもらえるような作品を描きたいと思います」


「うん。その意気だよ」


 私は頷く。安くないお金を払って絵を買ってくれた人たちに恥じないような作品を、また描かなければならない。なんだかプロの画家みたいだなと思った。まあ今くらいの売り上げじゃ、まだ当分バイトは続けなきゃいけないけど。


「そういえば、浅香さんの方はどうなんですか?」


「どうって?」


「制作ですよ。最近は何描いたんですか?」


「大雑把だね」浅香さんは小さく笑う。満面の笑みではなかったけれど、苦笑という雰囲気でもなかったから、私は機嫌のいい顔のままでいられた。


「最近はね、一〇〇号の制作に取りかかってるよ。今度大阪であるアートフェアに出展するから」


「えっ、すごいじゃないですか!」その言葉に私は、嘘やおだてる気持ちはこめなかった。私も大学時代に一回だけ一〇〇号を描いたことがあるけれど、あまりの大きさに死にそうになったのを覚えている。


 それに一〇〇号という大作は、誰もが描けるもんじゃない。もちろん描くこと自体は可能かもしれないけれど、それは勝手に描くだけで、求められて描くのとは雲泥の差がある。


 一〇〇号を望まれるような作家に、既に浅香さんはなっている。そのことが羨ましくもあり、どこか途方もつかない感覚もあった。


「うん。まあ当然大変なんだけど、それでも少しずつ形になってきてるから、締切には間に合うと思う。それとさ、私去年個展開いたじゃん?」


「はい。マーズギャラリーででしたよね」


「そう。で、その個展を見に来てくれたキュレーターの人がいたんだけど、私のことを高く評価してくれたみたいでさ。驚くことに熊坂さんに、私のことを紹介してくれたんだよ」


「えっ、熊坂さんって、あの熊坂理人(くまさかまさと)さんですか!?」


 浅香さんは何の恥ずかしげもなく頷いたから、私は余計驚いた。


 熊坂理人といえば、国内の有名美術館の企画展だけじゃなく、国際的なビエンナーレも手がける日本でも有数のキュレーターだ。遠い存在すぎて、私からすれば文字通り雲の上にいるような人である。そんな人に認知されてるなんて。


 着実に人気作家への階段を上っている浅香さんが、さらに眩しく見えた。


「でさ、なんとこの前熊坂さんと会っちゃったんだよ。あっ、もちろん一対一じゃないよ。熊坂さんが三冊目の著書を出したから、その刊行記念パーティーに混ぜさせてもらったんだ」


「いや、それでもすごいですよ。今の私が絶対行けるようなとこじゃないですもん」


「うん。私もまだ早いなとは正直思った。でも断っちゃったら、その誘ってくれたキュレーターの人に申し訳が立たないじゃない? だから、それっぽいドレスを借りて行ったの。そしたらさ、まさかの熊坂さんに話しかけられちゃって」


「えっ、主役自らですか?」


「うん、主役自ら。私の絵も見たことあったみたいでさ、褒めてくれたんだよね。『将来性を感じる』みたいに。それだけで私は天にも昇るような心地になったんだけど、さらに『今度、上野の森美術館で開く企画展に絵を出してみないか』みたいなことも言われちゃってさ。本当嬉しすぎて死ぬかと思った」


「めちゃくちゃすごいじゃないですか! 願ってもない大チャンスですよ!」


「まあ今度って言っても、まだ一年半ぐらい先の話だしね。それにそのときは興奮したけど、後になって考えてみれば、別に声かけてるの私だけじゃないよなとも思った。とりあえず今の私にできることは、地に足つけて一枚一枚の絵を丹精込めて描くことだよ。今までと何にも変わんない」


「まあ、連絡先は交換したけどね」照れ隠しみたいに話にオチをつけた浅香さんを、私は頼もしいと思った。現実に適応するしたたかさを持ちつつ、それでも誇りは失わない。理想的な作家の姿だと感じた。


 やっぱり浅香さんはすごい。私の遥か先をいっている。


「そうですね。私も今描いてるのも含めて、浅香さんの次の作品楽しみにしています。でもってその企画展で、作品が展示されたらいいですね」


「うん。私もそう願ってるよ」


 穏やかな顔で言った浅香さんに、私はその未来が訪れる可能性は低くないと予感する。


 浅香さんはもっと知られるべき作家なのだ。もっと評価されるべき作家なのだ。その思いを視線にこめた。



 店員が私たちのもとにやってきて、注文したハンバーグとアンチョビのパスタ、それにシーザーサラダを置く。「じゃあ、食べよっか」と浅香さんが言ってから、私たちは夕食を始めた。


 食べている間も会話は弾み、いつか浅香さんが人気作家になっても、またこうしてファミレスで一緒にご飯を食べたいなと、私は自然と思った。





 翌日。私は三日ぶりに一二時からギャラリーに在廊していた。この個展は天気も味方してくれて、今日も窓の外はすっきりと晴れ渡っている。


 そしてまた、私の心にも太陽が爛々と輝いていた。私の目の前でまた絵が売れたからだ。買ってくれたのは妙齢の女性で、寄り始めている皺を隠そうともしない笑顔に、私の心は強く暖められる。


 ここまで四日間で、五枚の作品を販売した。知名度が皆無に等しい若手作家の初個展にしては、上々の滑り出しと言っていいだろう。


 何となく中に立って、作品やいくつか貼られた「売約済」のシールを目にしながら私がほくそ笑んでいると、ドアが開く音がした。


 入ってきたのは、鍛冶屋さんだった。薄手のカーディガンが、筋トレをしているのか引き締まった身体に似合っている。


「やぁ、菰田ちゃん。また来たよ」


 まだ会うのは二回目だというのに、早くもの「菰田ちゃん」呼び。私は生理的な嫌悪感を抱いた。私たちの関係性はまだ作家とコレクターにしかすぎなくて、そこに最低限のリスペクトはあってしかるべきだ。この人は既に、私を下に置いてるんだろうか。


 そう思うと、顔が引きつりそうになってしまう。


 でも、今日もこの人は私の絵を買ってくれるかもしれない。私に嫌な顔をすることは許されていなかった。


「はい、鍛冶屋さん。また来てくださってありがとうございます」


 私は精いっぱいの笑顔を作って応える。苦々しく思っているのは伝わらなくてもいいし、むしろ伝わってほしくなかった。


 いきなり名前を呼ばれたにもかかわらず、鍛冶屋さんは平然としていた。そんなこともあるだろうくらいにしか思っておらず、私が若干引いていることを察していないようだった。


「どう? 個展の方は順調?」


「はい、おかげさまで毎日作品をお買い上げいただいています。今のところは順調と言えると思います」


「なら、よかった。俺もさ、SNSで繋がってるコレクター仲間に、菰田ちゃんのこと紹介しといたから。もしかしたら、それを見てここに足を運んだ人もいるかもね。ほら、俺ってコレクターの中でもわりと影響力ある方だから」


 知らんがな。頭の中に思わず、使ったことのない関西弁が浮かぶ。


 もちろん紹介してくれるのはありがたいけれど、普通自分から「俺には影響力がある」なんて言うだろうか。本当の可能性もあるけれど、私はどうしてもこの人のことを自意識過剰なんじゃないかと疑ってしまう。


 まあコレクターは多かれ少なかれ、誰もが自意識過剰ではあるんだけれど。


「ところでさ、菰田ちゃんって何か好きな食べ物ある?」


 その言葉が突拍子もなさすぎて、私は一瞬耳を疑った。なんだそのプロフィール帳の一ページみたいな質問は。私の作品と、何か関係があるんだろうか。


 返事をした方がいいのは分かっていても、私はすぐには答えられなくて戸惑ってしまう。鍛冶屋さんは「あっ、変な意味じゃないよ。ただ単に菰田ちゃんのことちょっと知りたかっただけ」と続けてきたけれど、そのフォローになってないフォローは、私に「気持ち悪い」以外の印象を与えなかった。


 本当のことを言うのも癪で、適当に答えを取り繕う。


「えっと、カレーとかラーメンとかですかね」


「へぇ、庶民的なんだね」そう返してきた鍛冶屋さんの目を、私は見られなかった。本当はウニとかイクラとかが好きなのに、嘘をついてしまった罪悪感があった。こんなことを感じる必要なんてないのに。


 でも、「俺はさ、ステーキとか焼肉とか好きだよ。だって肉だもん。菰田ちゃんだって肉好きでしょ?」と言ってくる鍛冶屋さんに、後ろめたさは少しも見られない。「この子は俺と話したい」と本気で思っているようで、私はかすかに寒気さえ覚えた。


「あ、あの。鍛冶屋さん。よかったら作品ご覧になっていってください。どれも私が心血を注いで描いた絵ですので」


 ここはギャラリーで、話をする場所じゃなく、作品を見る場所だ。そんな当たり前のことを言うにも勇気が要る自分が、少し情けない。


 でも、私の思いが通じたのか鍛冶屋さんは「そうだね。またじっくり見させてもらうよ」と言って、いったんは私のもとから離れていった。


 私はバレないように一つ息を吐く。もちろん作品を見られているという緊張感はある。だけれど、必要のない話をしなければならない重圧に比べるといくらかはマシだ。


 私は入り口近くで、スタッフの人の横に座る。ギャラリーには私たち三人の他には、誰もいなかった。


 しばらくしてスタッフの人が、「ちょっとトイレ行かせて」と言いだす。このギャラリーにトイレはない。だからトイレに行くとしたら、近くのコンビニのトイレを借りなければならない。


 当然私にスタッフの人を止める権限はなく、私はギャラリーに鍛冶屋さんと二人きりになってしまう。


 スタッフの人の姿が見えなくなった瞬間、鍛冶屋さんはすぐ私のもとに近づいてきた。その切り替えの早さは、スタッフの人が邪魔だったと言わんばかりだった。


「ねぇ、菰田ちゃんってラインやってるよね?」


 スタッフの人がいないうちに話を終わらせたかったのだろう。鍛冶屋さんは単刀直入に切り出してきた。「いえ、やってません」と言ってもよかったが、それくらいではこの人は引き下がらないだろう。


 私は「まあ、やってますけど……」と答えてしまう。よくない返事だとは分かっていても、ごまかす言葉が思いつかなかった。


「じゃあさ、ライン交換しようよ。俺さ業界に知り合い多くてさ、人気の企画展のチケットをいち早く手に入れたり、キュレーターの人にも菰田ちゃんを紹介できると思うから。何かあったときのためにも、一応連絡先だけはお互い知っとこうよ」


「何かあったとき」って何だ。そんなシーンは、これから一度も訪れない。他にも私の絵を買ってくれたお客さんはいるのに、特定のコレクターとだけ懇意になるのはどうなんだろう。


 でも、そんなことは私には言えなかった。もしかしたら鍛冶屋さんは本当に影響力があって、キュレーターの人とも知り合いなのかもしれない。そう考えると、私は鍛冶屋さんを無下に扱えなかった。


 頷いて、お互いコードを見せあって、ラインを交換する。にっこりと微笑んでいる鍛冶屋さんの顔を直視できなくて、私はスマートフォンに目を落とす。


 画面の一番上に追加された「鍛冶屋正治」という名前。大丈夫だ。私から連絡しなければ、どうってことない。現に私だってラインを交換したものの、一度もメッセージを送ってない人はいる。鍛冶屋さんとも同じようにすればいい。そう自分に言い聞かせる。加えて鍛冶屋さんが忙しくありますようにとも願った。


「じゃあ、俺もう行くから。菰田ちゃん、残りの期間もがんばってね」


 ギャラリーから去っていった鍛冶屋さんに、私は「絵は買わないんですか」とは言えなかった。作家側からそう言うのは浅ましいし、きっと鍛冶屋さんが気に入るような絵はなかったのだろう。そう思うのが一番平和だ。


 でも、疑問が首をもたげてしまう。鍛冶屋さんはひょっとしたら、最初から今日は絵を買う気はなかったのではないか。私と話すため、あわよくば連絡先を交換するために、ギャラリーを訪れたのではないか。


 そんなこと考えてはいけないと分かっていても、私は鍛冶屋さんを完全に信頼できなかった。


 しばらくしてスタッフの人が戻ってきて、「お客さん、帰っちゃったんですね」と言う。他意のない言葉に、私は「そうですね」以上の返事ができなかった。



(続く)

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