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【第10話】勇気の連帯



「最初に言っておきます。その方に加害を与えたキュレーターとは、熊坂理人氏、その人です」


 私がその名前を口にした瞬間、記者席が小さくどよめいた。ここには美術雑誌の編集者も何人か来ていたから、熊坂さんの名前が出たことに驚いたのだろう。私が実名で告発するとは思っていなかったのかもしれない。


 でも、浅香さんはもう筆を折ってしまったのだ。作家生命を絶たれてしまったのだ。だから、熊坂さんにもそれ相応の報いがあってしかるべきだ。


 記者席のどよめきが収まったのを見計らって、私は続ける。もう後戻りはできなくなっていた。


「熊坂氏と被害者の女性が初めて会ったのは、熊坂氏の著書刊行記念パーティーでした。知り合いのキュレーターに声をかけられてパーティーに参加した女性は、その場で熊坂氏から声をかけられたのです。熊坂氏はその女性、そして彼女の作品のことを以前から知っていて、女性の作家性を評価する言葉をかけました。国内外で著名な熊坂氏に褒められて、嬉しくない作家はいません。女性もそのときは素直に喜び、二人はその場で名刺、つまりお互いの連絡先を交換しました」


 浅香さんから教えられた通りの内容を、私は語る。固唾を呑んで、耳を傾けている記者たち。


 嫌で嫌で仕方なかったけれど、今日まで何度も原稿を復唱したことで、私は何も参照することなく話せるようになっていた。


「『近々美術館で企画展を開催するから、そこに出展する絵を描いてほしい』。熊坂氏はパーティーの場で、女性にそう言いました。しかし、そのときは熊坂氏は飲酒していており、リップサービスだろう、他の作家にも同じように声をかけているのだろうと、女性は冗談半分で受け止めていました。しかし、日を改めて熊坂氏からもう一度同じことをメールで言われ、時間を置いてもなお言ってきたということは冗談ではないだろうと、女性は感じていました。よって『詳しい話がしたい』と食事に誘われても女性は断らず、むしろ喜んで熊坂氏のもとに出向きました」


 ここから話は斜面を転がり落ちるかのように、望まぬ方向へと進んでしまう。話すのをやめたいという気持ちも、私ははっきりと感じる。


 それでも、私はその感情を胸の奥深くに押しこんだ。感情のまま動いたら、誰一人として救えない。


「一回目、そして二回目の食事は何事もなく終わりました。熊坂氏から企画展の概要や作品の詳しい条件などを説明されて、女性も出展が現実味を帯びてきたと感じられたと言います。しかし、加害は三回目の会合で起きました。熊坂氏は女性を、ホテルのバーへと呼び出しました。『海外出張から戻ってきたばかりで、また明日には九州に飛ばなければいけない』と嘘をついて。女性もいったん自分の家に帰るべきではと疑念は抱きましたが、それでも忙しいのだろうと考え、熊坂氏がいるホテルへと向かいました。バーでは、しばらく二人だけで飲酒したそうです。次に手がける海外での展覧会について、熊坂氏は自慢するように女性に話しました。企画展の話がなかなか出てこないことを女性は不審に思いましたが、それでも話を聞いていました。そのような展覧会は存在しない。全て熊坂氏の作り話にも関わらず、です」


 自分で話していて、私は少し気分が悪くさえなった。何度も確認していても、その度に怒りを覚える。


 私は自分に落ち着くように言い聞かせて、なるべく感情をこめずに事実を伝えることに徹した。


「女性がバーにやってきてから数時間が経った頃、熊坂氏は『まだ時差ボケが残っていて、気分が悪い』と言い出しました。女性は一人熊坂氏を放っておくこともできずに、ひとまずは宿泊する部屋までは送っていこうと、熊坂氏と共にバーを後にしました。これこそが熊坂氏の罠でした。熊坂氏は女性と共に部屋に入ると、すぐに部屋の鍵をかけ、カードキーを自分の服の内ポケットにしまいました。こうして女性は、部屋に閉じこめられてしまいました。そうなればもう、熊坂氏の思うがままです。熊坂氏はすぐに具合が悪い演技をやめて、女性にキスをしたのです。女性の意思を確認することなく一方的に。言うまでもなく、この時点で既に性加害は成立しています。ですが、熊坂氏の要求はこれだけには留まりませんでした」


 今、この場で話しているのは私しかいない。ここで黙ってしまったら、今まで言ったことが意味をなさなくなる。


 私は自分を奮い立たせて、マイクを掲げ続けた。たとえ記者席で数人の女性記者が、先の展開を予想して顔をしかめていたとしても。


「熊坂氏はいきなりキスをしたことを詫びることもせず、さらなる性的干渉を求めました。つまるところそれは、女性がベッドに横になることを意味していました。当然ですが、同意のない性行為は犯罪に当たります。女性も恐怖を感じて、断ること自体は考えたようです。ですが、女性の脳裏によぎったのは熊坂氏が手掛ける企画展のことでした。有名な美術館で開催される企画展に出展することは、作家にとってとても名誉なことです。有力な美術評論家やコレクターの方も来訪し、自分の作品を見てくれるかもしれない。言及したり、取り上げてくれるかもしれない。そうなれば作家として、大きな飛躍をすることができます。ですが、その企画展に作品を出展できるかどうかは、目の前にいる熊坂氏の一存にかかっている。ここで熊坂氏の機嫌を損ねたら、出展の話は取り消されるかもしれない。そのとき、女性の作家人生は熊坂氏の手に握られていました。圧倒的な権力者を前にして、女性はNOと言うことができず、熊坂氏の要求を受け入れてしまいました。女性の同意を得て熊坂氏がした行為は、とてもここではお話しすることができません。熊坂氏は女性を、朝まで家に帰すことはありませんでした。自分に性加害を与えた熊坂氏と同じ部屋で眠りにつくことは、女性にはとてもできず、朝を迎えるまでの時間が地獄のように長かったと言います。深い心的外傷を受けた女性は、その後絵を描こうにも熊坂氏の顔が思い浮かび、筆を執れなくなってしまいました。そして、現在に至るまで、一点も作品を制作できていません。企画展の話も取り消されてしまいました。さらに現在でも、熊坂氏のことをふとした瞬間に思い出すことがあるようです。熊坂氏の姿が怪物のように見えてしまって、恐怖で何も手につかなくなる。そう私に語っていました。熊坂氏は女性の作家生命を絶っただけではなく、女性に一生消えない心の傷を与えたのです」


 浅香さんが私に打ち明けてくれた内容は、もっと詳細でえげつないものだったけれど、それをそのまま言うことは、私にはその現場を想像してしまうようでできなかった。だからこれでも、特に性加害の内容についてはぼかして話している。でも、事細かに言わなくても、性被害を受けた事実は伝わるだろう。


 私の話を受けて、会場は水を打ったように静まり返っている。この場にいる誰もが、浅香さんが受けた被害を重大で深刻なものとして考えているようだった。


「この性被害の問題には、美術業界の歪な権力構造が反映されています。本来、作家とキュレーターは対等な立場のはずですが、展覧会を企画し作品を選ぶキュレーターの権力が強くなっているのです。実際、その女性も作品を出展するためにはと、断ることができませんでした。女性は作家人生を考えて、毅然と断れなかった自分にも悪いところがあると語っていましたが、私はまったくそうは考えていません。立場を利用して不当な要求をすることは、明確なパワーハラスメントにあたり、被害者に落ち度はありません。また、現在の美術業界は著名な作家、キュレーター、評論家、公募団体の委員、大学の教員、これら権力のある地位についているのは未だに男性が大半で、著しくジェンダーバランスを欠いています。このままこの構造が温存されれば、女性のような性被害を受ける方が、再度出てくることは明白です。それは男女の別を問いません。その女性のように才能ある作家が、性被害やハラスメントによって筆を折ることがもう二度とないよう、私は今こそ美術業界が変革していかなければならないと考えます。でも、それは私たちだけでは難しく、今ここにいる皆さんの力が必要です。どうか今日の会見を、自身のメディアを通して広く発信してください。重ね重ねお願い申し上げます」


「私からは以上です」。そう言って私は、話を結んだ。なおも静まり返った会場に、私の訴えは十分に伝わったのだと知る。


「では、続いて同じ当会委員の永長より、ギャラリーストーカーや性被害について、複数の事例の説明がございます」と南海さんが言うまでの短い間、私は一仕事終えた感慨に浸る、なんてことはまったくなかった。


 まだ何かが変わったわけじゃない。私たちはまだ何も成し遂げておらず、あくまで今日は一つのスタートにすぎない。気を緩めていい理由はどこにもなかった。


 永長さんがマイクを持って立ち上がる。そして、席を立つと、長机の隣に向かっていった。私たちの机の右隣にはスクリーンが用意されていて、スライドショーで説明ができるようになっている。永長さんは机に置かれているパソコンを操作して、私たちのホームページに寄せられた事例をまとめたスライドショーを表示した。


 軽く挨拶をしてから、被害者が特定されないよう編集された事例たちを、永長さんは話し出す。もう内容は確認済みだったから、私はスクリーンを見ることなく、正面を向き続けた。


 それが話す順番が終わった今、紹介されている事例に説得力を持たせるために、私にできる唯一のことだった。


 永長さんに続き、嘉数さんが同じようにスライドショーを用いて、大学や予備校といった教育現場で行われているハラスメントを告発すると、ひとまず私たちの記者会見の、最初の部は幕を閉じた。ここまでで優に一時間以上かかっているけれど、まだ記者会見は終わらない。


 私たちが水を飲んだりして呼吸を整えたのを確認すると、南海さんが「では、これから質疑応答の時間に移らせていただきます。時間は三〇分程度を予定しております。質問のある方は挙手していただくようお願いします」と言う。


 今回の記者会見で記者からどんな質問がなされるのかは、私たちは一切知らされていない。というか私たちも事前に会見の内容を、「美術業界にはびこるギャラリーストーカーやハラスメント、性被害を告発する」くらいしか伝えていない。


 だから、どんな質問が来るか、いくつか想定はして準備はしているけれど、私たちには未知の部分の方が圧倒的に大きかった。


 一般紙、ネットニュース、美術雑誌といった記者から、次々と質問が発せられる。私たちが告発した内容を掘り下げたり、美術業界の構造的な問題、さらには今後の活動の展望についてなどを事細かに訊かれて、私たちはその一つ一つに真摯に答えた。


 もちろん私たちは喋りのプロではないから、言葉足らずな部分は多分にあったけれど、それでも逃げたりごまかしたりは一度もしなかった。私もたとえ拙くても、借り物ではない自分の言葉で応じる。話すたびに喉が渇いて、何度も水を飲む。


 定期的に記者会見をしなければならない人たちの大変さの一端を、私たちは味わっていた。


 その人が手を挙げたのは、そろそろ最後の質問に差しかかろうかというときだった。他の多くの記者と同じようにワイシャツを着用したその女性を、南海さんは指名する。


 立ち上がった女性は最前列、私の真ん前にいたから、私は息を呑んだ。


「『アルテリヴィスタ』編集部の佐伯(さえき)です。本日は貴重なお話をありがとうございました。私どもとしてもギャラリーストーカーの問題は認知していたのですが、今まで軽視していたところがあり、深く反省いたしています。本日の会見の重要性を鑑みて、多くのページを割いて記事を伝えられるよう、努力いたします」


「本当にお願いしますよ」と心の中で応えながら、私は佐伯さんの言葉を黙って聞いた。美術業界では名の知れた雑誌である『アルテリヴィスタ』に取り上げられたならば、私たちが受けた被害は、業界に広く知られることになるだろう。


 佐伯さんは「そして、皆さんに質問がございます」と続ける。私はもう一度背筋を伸ばした。


「この度は大変つらい思いをされたことと思います。菰田さんやその女性の方が受けた苦しみを想像すると、同じ女性として胸が張り裂けるような心地がします。その上で質問なのですが、これからギャラリーストーカーやハラスメント、性被害などの問題を少しでも減らして、やがては撲滅していくためには、どのような対策が必要だとお考えでしょうか?」


 佐伯さんの質問は少し漠然としていたけれど、それでも考えなければならないことだった。私たちだけじゃなくここにいる全員が、だ。


 私たち四人の間に、一瞬沈黙が降りる。きっとここは、会の代表である向ヶ丘さんが答えるべき場面なのだろう。


 だけれど、私は率先してマイクを手に取っていた。私たちみたいに苦しい思いは、もう誰にもしてほしくない。その一心だった。


「そうですね。まず比較的すぐにできることとしては、在廊の際にルールを定めることでしょうか。作家をギャラリーに一人きりにさせず、必ずスタッフの人間が在席するようにする。食事等に誘うことや、執拗に連絡先を尋ねることなどの迷惑行為を禁止する。そういったルール作りを、ギャラリーを経営する方々にはしていただきたいですし、私たちからも求めていきたいと思います。加えて被害を受けた作家が相談できる窓口の拡充も課題です。作家は多くがフリーランスで活動しています。たとえば会社員の方なら、会社に相談窓口がある場合もありますが、フリーランスの作家が相談できる窓口は、現状ではまったく足りていません。ギャラリーストーカー等の被害を受けて、ギャラリーのオーナーに相談したとしても、その先が続かないのが現状です。当然私たちも相談は受けつけますが、一団体だけでは限界があるのも、残念ながら事実です。なので、フリーランスの作家が被害を相談できる窓口が、各地域に複数できることが理想です。また、私どもとしても被害の声をまとめ、どうすればよいのか対策を考えて、それを講習会という形で、作家の方たちに還元したいと考えています。まだ開催の見通しは立っていませんが、それでも必ず定期的に行わなければならないことだと考えています」


 向ヶ丘さんたちと以前話した内容を、私は仔細漏らさず語る。どれも喫緊の課題だ。既に唐須さんをはじめ、いくつかのギャラリーには連絡しているし、これからもっとルール制定の輪を広げていかなければならない。


 だからこそ、私は今回の会見が広く発信されることを望んだ。じっと質問者である佐伯さんを見つめる。この業界がどれだけ問題を抱えているかを分かってもらうために。


 私の話が一区切りついたと察したのか、横目で向ヶ丘さんがマイクを手にしたのが見える。だから、私はマイクを下ろして向ヶ丘さんに発言権を譲った。


「ただ今菰田が言ったことを補足しますと、確かに全て行わなければならない対策ではあります。私どもも活動をより増やしていかなければなりません。ですが、これらは全て対症療法にしかすぎません。当然これらの対策も必要ですが、私どもとしては原因療法も進めていかなければならないと感じています。具体的には大学や予備校に向けて、在廊の際の注意事項やハラスメントの防止方法を指導する時間を設けるなどのガイドラインを策定して、配布・周知したいと考えています。一年や二年で成果は出ないかもしれませんが、長期的に見れば教育の現場を変えることで美術業界も変わっていくはずです。ここにいらっしゃる南海さんをはじめとした法律家の方々や、教育現場の方々などとも相談して、ガイドラインの策定を急ぎたいと考えています」


 嘉数さんと永長さんは、マイクを取る気配を見せなかった。私と向ヶ丘さんは、質問に余すところなく答えたのだろう。


 だから向ヶ丘さんもそれを確認して、「私どもからは以上です」と答えを結んだ。既に予定していた三〇分を過ぎてしまっていたからだろう。南海さんが「他に質問のある方はいらっしゃいますか?」と訊いても、誰も手を挙げなかった。


 ようやく訪れる会見の終わりに私は、かすかに安堵し始める。この後は南海さんの事務所に移動して、今日の振り返りと今後に向けた話し合いを行う予定だ。それも終わって家に帰ったら、私はすぐに横になってしまうのだろうと、まだ何一つ終わっていないのに思った。


「それでは向ヶ丘より、最後のご挨拶がございます」


 南海さんに再び発言権を渡されて、向ヶ丘さんは再度マイクを持って立ち上がった。横目で見た向ヶ丘さんの凛々しさは、会見が始まってから二時間が経っても変わっていなかった。


「皆様、改めて本日は私たちの会見に足を運んでいただき、誠にありがとうございます。皆様のおかげで実りの多い会見となりました。私どもの話を真摯に聞いてくださったことに、もう一度感謝を申し上げます。ありがとうございました。皆様が私どもの会見を、意図を歪めることなく記事にして、発信してくださることを私どもは願っています。改めてどうかよろしくお願い申し上げます」


 向ヶ丘さんがそう言ったのを合図に、私たちは全員で頭を下げた。気分はまるで謝罪会見だったけれど、これだけすれば記者の人も、誠意のある記事を書いてくれるだろう。


 私たちが頭を上げたところで、向ヶ丘さんは挨拶の続きを話し出す。


「そして、この場を借りて言わせていただきます。私たちと同じように被害に遭われた方々。月並みな言い方ですが、あなたは一人ではありません。きっと周囲に話を聞いてくれる、相談に乗ってくれる方がいるはずです。もしそれが難しいのであれば、私たちに相談してください。メールフォームに相談内容を入力して送信していただければ、私たちが真剣に応じます。そして、もしよろしければ私たちと一緒に声を上げてください。負担がかかるであろうことは承知の上です。ですが、現状を変えるために声を上げることを決意したのなら、ツイッターやフェイスブック、インスタグラム等のSNSでこちら」


 そう向ヶ丘さんが言ったタイミングで永長さんが持っていたリモコンを操作する。するとスクリーンには真っ白な背景に黒い文字で大きく『#ArToo』と表示された。


「『#ArToo』で投稿してください。私たちは全て読みますし、多くの声が集まれば本などの形にまとめて、公開したいと考えています。もちろん強制はしませんし、辛くてできないと思うのも当然です。ですが、口をつぐんで黙っていては、私たちは連帯したくてもできません。ですから、よろしければこちらの『#ArToo』をつけて投稿してください。大丈夫です。あなたは微力かもしれないけれど、無力ではありませんから。たとえ一人一人の力は小さくても、幾重にも集まれば必ずや大きな力を発揮します」


「私からは以上です」。そう向ヶ丘さんが言葉を結ぶと、私たちの会見は大部分が終わりを迎えた。後は記者の人たちに、改めて写真を撮ってもらうだけだ。「それでは最後に写真撮影の時間を設けます。皆様ぜひ四人の姿を撮影して、記事に掲載ください」と南海さんが呼びかけると、私たちは立って中央に集まる。


 私は足元にあらかじめ準備されていた、『#ArToo』と書かれたパネルを手に掲げた。これで被害に遭った人が声を上げられる指標ができるだろう。


 シャッター音がいくつも切られ、フラッシュが眩しいほどに焚かれる。私たちは笑顔はできなかったけれど、それでも決意を帯びた目をカメラに向けた。


 今日という日が、美術業界が変わるきっかけになってほしい。私は写真に収まりながら、そう強く願った。





 記者会見、並びに南海さんの事務所で振り返りと今後の活動についての相談を終えて、家に帰ってきた私は、スーツから着替えるとすぐにソファに座りこんでいた。疲れ果てていて絵を描く気にはなれずに、緊張の糸が緩んだこともあって、私はそのまま眠ってしまった。


 やるべきことをやった後の睡眠は心地よく、目が覚めたときには私が帰ってきてから三時間が経っていた。そろそろ夕食の時間だろう。


 だけれど、私は夕食を作る前にスマートフォンを手に取っていた。SNSを開く。既に私たちの会見についての記事が出ているはずだ。


 記事は簡単に見つかった。会見後に作られた私たちの会のアカウントがリツイートをしていたからだ。眠っている間に配信されていた記事をいくつか読んでみる。数行の短い記事から、何ページにもわたる長文記事まで私たちの会見は、様々な媒体がニュースにしてくれていた。


 どの記事も私たちが会見を開いた意図を不当に歪めているものはなくて、私はひとまず安心する。配慮したのか熊坂さんの名前は挙げられていないことは悔しかったけれど、それでも私たちが会見を開いた意味は、確かに存在していた。


 私たちのアカウントはできたばかりだから、まだフォロワー数は少なくて、直接的な反応は届いていなかった。いったい世間ではどんな反応をされているのだろう。


 私はいくつかの記事のタイトルで検索をかける。するといくつもの声が出てきて、私たちの会見に対する反応を直に知ることができた。


「美術業界の裏側でこんな酷いことが行われているなんて、知りませんでした。私は声を上げた方々を支持します」


「ギャラリーストーカーもハラスメントも性加害も許せない。美術のファンを自認する者として、作家さんが安心して活動できる業界になることを望みます」


「この話は何も、美術業界に限った話じゃないと思う。もしかしたら、他の業界にも同じような被害があるかもしれない。そんななか勇気を出して告発した四人に拍手」


 記事の反応は私たちを支持する声や、応援する声が多かった。私たちの思いが正しく伝わってくれたようで、ひとまず胸をなでおろす。


 でも、反応は私たちに賛同するものばかりではなく、否定的な声もいくつか散見された。


「そんなにギャラリーストーカーが嫌なら、在廊しなければいい」


「先輩の作家はそういった問題をうまくいなしてきた。近頃の作家は何かあるとすぐに文句を言うから困る」


「男性にそういう気があるのは、いくらなんでも気づくはず。嫌なら断ればいいだけの話。そうしなかった被害者にも、考えるべき点がある」


 全体としてはほんの一割にも満たなかったけれど、否定的な声は私の心に深く刺さった。


 これは美術業界の構造的な問題だし、時代にそぐわなくなった慣習を変えるべきときは今なのだ。私たちは決死の思いで会見を開いて、記者の人も私たちの思いを汲んだ記事を書いたのに、どうしてそのことが分からないんだろう。


 被害者に非があると責められる状況は、絶対に間違っていると私は言い切れる。加害者がした行為を正当化するのは、まったくもってありえない。


 それを分かっていない人が少なからずいる現実に、私は辟易した。それは数多くの賛同する意見でも、打ち消すことはできなかった。


 でも、私はスマートフォンから目を離さなかった。最後に一つだけ確認しておきたいことがあったからだ。検索窓に『#ArToo』と入力する。どの記事にも『#ArToo』のパネルを掲げた私たちの写真が掲載されていた。だから一件や二件の投稿は、きっとあるはずだ。


 そう思って検索ボタンを押して私が見たのは、いくつもの『#ArToo』が並んでいる光景だった。軽くスクロールしてみても、ざっと一〇〇件はあるように思える。


 それはたぶん私たちよりも、公募の審査員を務めるような有名な女性作家が投稿していることが大きかった。


 でも、拡散したのはその女性作家でも、ハッシュタグを作って呼びかけたのは私たちだ。だから、こうしていくつもの声が集まっていることは、素直に喜ぶことはできないけれど、私は会見を開いた手ごたえを感じていた。


「私も、ギャラリーストーカーの被害に遭いました」


「私が通っていた大学も同じような状況でした」


「私も先輩の男性作家から、人にはとても言えないような酷いことをされた経験があります」


 上げられた声は一つの投稿に収まっているものもあれば、いくつの投稿にまたがっているものもあって、どれもが現実に起きたことだと説得力を持って、私に迫ってきた。この人たちが胸に抱え込んでいた痛みや苦しみを、少しでも吐き出させることができたと思うと、自分たちがしたことに意義があるように思えた。


 全ての投稿にリツイート、ないし「いいね!」といった反応を私は示す。せっかく投稿してくれた、この人たちの勇気を無駄にしないこと。それは会見を開いた私たちがなさねばならないことだった。


 私は立ち上がる。今日は夕飯を食べて寝て、また明日から作品を描き始めよう。それが私たちに降りかかる、ありとあらゆる加害に屈しないために、私ができることだった。





 オレンジ色を含んだ光が、柔らかに灯る。地下の展示室はかすかに暖房が効いていて、絵画を鑑賞するには絶好の環境だ。土日は人気で人がごった返すこの展覧会も、平日の昼間である今は比較的空いていて、私はゆっくり一つ一つの作品と向き合うことができた。


 ピカソやブラックといった作家の作品が展示されているこの展覧会は、キュビスムをテーマにしている。幾何学的な形で構成された画面は抽象度が高い分、想像力を駆り立てる。現実をそのまま写し取ろうとする旧来の絵画とは大きく異なるアプローチは、制作の参考になる部分も多い。


 同じように作品を見ている人たちは、どんな感想を抱いているのだろうか。


 私はさっそく今度制作する作品に、キュビスムの手法を取り入れてみようかなと、ぼんやりと考えていた。


 私が展示室の奥に向かおうとする頃、入り口から一人の観客が入ってくる気配がした。その姿を見て、私は大いに驚いてしまう。


 展示室に入ってきたのは浅香さんだった。黒いジーンズに紺色のカーディガンという、今まであまり見たことがない服装だったけれど、でも浅香さんに間違いない。


 浅香さんも離れたところにいる私に気づいたようで、作品に向かう前に一瞬こちらを向いていた。あの日レストランの個室で話してから、私は浅香さんとは会っていない。


 声をかけたい気持ちが湧き出たが、それでも私はぐっと堪えた。美術館では、できる限り静かに作品を鑑賞するのがマナーだ。それを作家である私が、率先して破るわけにはいかない。


 私は展示室の奥へと向かった。浅香さんと話すのは、全ての作品を見終えてからでいいと思った。


「佳蓮さ、久しぶりだよね。前会ったのが六月ぐらいだから、四ヶ月ぶりくらい?」


 コーヒーを一口飲んでから、浅香さんはさっそく話を始めた。「少しお茶していきませんか?」と声をかけたのは、私の方だというのに。


 展示を見終わった後、私たちは美術館の中にあるカフェでコーヒーを飲んでいた。それなりに人がいる空間は話し声もあったけれど、大声で騒いでいる人はいなくて、天井が高くて開放的な空間が、私たちの気分を和らげていた。


「そうですね。今日浅香さんと会えたの、ちょっと意外でした」


「まあ今日は平日だからね。でもさ、こういう企画展って休日はめっちゃ混むじゃん。だから、有給使わせてもらったんだ」


 どこか得意げに語る浅香さんに、私は微笑みを作って返す。「意外」と言った意味はそれだけじゃなかったけれど、私が微笑に隠した本心を、浅香さんはいとも簡単に見抜く。


「佳蓮さ、絵を描かなくなった私がこんなところに来るなんて、って思ってるでしょ? 確かに私は絵をやめちゃったけどさ、それでも美術や芸術が嫌いになったわけじゃないから。それに今回ぐらいの規模のキュビスム展は、日本では数十年ぶりなんでしょ。そりゃ行くよね」


 浅香さんは何の気なしに言っていて、言葉に嘘が含まれていないことが私には分かった。絵を描くのをやめてしまった無念さと、それでも美術や芸術に興味を持ち続けてくれている嬉しさとが、私の中で混在する。


 それでもなお、「そうですね」と返した私は、残念そうな顔はしなかった。美術館に足を運び続けていれば、またばったりと浅香さんに会うことがあるかもしれない。


 そのことが私には小さかったけれど、確かな希望に思われた。


「あの、浅香さんは最近どうなんですか?」


 私がそう訊いたのは、私たちが今回のキュビスム展の感想を、あらかた言い終えた後だった。


 さすがに質問が大雑把過ぎたのか、浅香さんは「どうって?」と若干目を丸くしている。その姿は、かつて頻繁に話していた頃の浅香さんと何も変わりなく、私はわずかに頬を緩める。


「仕事とか、他にも色々です。浅香さんは元気ですか?」


「何それ。プロレスラーみたい」。そう言って、浅香さんも小さく笑う。その恥ずかし気な笑みが、何も言わなくても私に、浅香さんの現状を察知させた。


「まあまあかな。毎日どうにかやれてるよ。でもさ、入社してからの私の働きが評価されて、来月から正社員にしてもらえることが決まったんだ。すごくない?」


「えっ、すごいです! よかったじゃないですか!」


「うん。これで給料も上がるし、簡単には切られなくなるし、ひとまずはよかったよ。まあ労働時間は八時一七時の八時間に増えるし、もしかしたら残業もしなきゃいけなくなるかもしれないんだけど、それでも認められたってことは、やっぱ純粋に嬉しいね」


 浅香さんの声は弾んでいた。私だって当然、浅香さんが正社員になれて喜ばしい気持ちはある。


 でも、会社にいる時間が増えるということは、それだけ絵を描く時間が減るということだ。私だったら手放しに喜べるかどうかは分からない。


 それでも、やっぱり浅香さんは、私の微妙な笑顔にすぐに気づく。


「って、佳蓮が知りたいのはこういうことじゃないよね。絵のことでしょ?」


「ま、まあ。はい」


「だよね。佳蓮には本当に申し訳ないんだけど、私はまた絵を描こうとはまだ思えないかな。もちろん、これから気持ちが変わることは大いにあり得るかもしれないんだけど、少なくとも今はまだ思い出しちゃうことがあるから。そんな簡単に忘れることはできないよ。たぶん一生、この傷は抱えて生きていくことになるんだと思う」


「そうですか……」


「でもさ、佳蓮があの会見で告発してくれたことは嬉しかったよ。あの人、ああいうことしてたのは私にだけじゃなかったみたいだし。他にも告発があったおかげで、今はあの人休職してるんでしょ? またいつかは戻ってくるかもしれないけど、それでも今は現場から離れてることに、私はちょっとホッとしてるよ」


「それは、私もひとまずはよかったと思っています。私たちの会見にも意味があったようで」


「うん。佳蓮たちの会見は業界に一石を投じる、大きな意味があるものだったしね。声を上げる人も増えてきてるし、私はもう離れちゃったけど、それでも美術業界が少しずつでもよくなっていくことを願ってるよ」


 私は頷いた。耐えがたいことがあってもなお、業界の浄化を願っている、浅香さんの思いを無駄にするわけにはいかない。


「それでさ、佳蓮はどうなの?」


 返すように訊いてきた浅香さんに、私は思わず「どうなのって何がですか?」と答えてしまう。緩やかに細められた浅香さんの目は、私と話したい以外には、何の思惑もなかった。


「作品の制作とか会の活動とか。色々うまくいってんの?」


 浅香さんの質問はざっくりしていて、私は思わず苦笑が漏れそうになったけれど、それでも自分も大して変わらないなと思い直す。


 さて、何から答えたらいいだろう。私は頭を回す。そして、浅香さんが知りたがっているであろう順番を予想して、話し出した。


「はい。まだ次の個展の予定とかは決まってないんですけど、作品の制作は着々と進んでいます。あんな思いはしましたけれど、それでもやっぱり私は絵を描きたいですから。また個展を開催できるように、今はがんばっている最中です」


「そう。よかったよ。佳蓮がまだ絵を描き続けてられるみたいで。ねぇ答えたくないなら答えてくれなくて構わないんだけど、ギャラリーストーカーの人とはどうなったの? もう被害は止んだんだよね?」


「はい。先月相手方を刑事告訴することができて、今は第一審の準備をしている最中です。告訴されたことで、さすがに相手方も事の重大さを分かったのか、連絡してくることもなくなりました。でも、私はまだ許してませんけどね。私が受けた苦痛を、何としてでも刑罰という形で、相手方にも味わってもらいたいと思っています。それくらいのことを、私はされましたから」


「なるほどね。まあ裁判ってことは判決が出るまでには時間がかかると思うけど、でも私は佳蓮を応援してるから。ギャラリーストーカーは作家の敵だからね。絶対勝ってよ」


「はい。がんばります」


「うん。その意気だよ。それとさ、会の活動はどうなってるの? あの会見以降も活動してるんだよね?」


「はい。おかげさまで『#ArToo』で三〇〇件を超える投稿が集まってくれていますし、何人の方には声をかけて、さらに詳しく自分の経験を書いてもらって、一冊の本にして出版しようと今動いているところです。それに教育機関向けのガイドラインも少しずつ形になってきましたし、まだ時期は決まっていないんですけど、来年美術館で展覧会も開催する予定です。私たちが受けた被害や業界に向けてのメッセージを作品にして展示する計画で、現在は三〇人ほどの作家の方に参加していただける予定です。なので、これからの動き次第ですが、浅香さんにも近々いい報告ができると思います」


「よかった。色々動いてくれてるんだね。早くその展覧会開催してよ。私もできたら行きたいなって、今話を聞いて思ったから」


「大丈夫ですか? テーマがテーマなだけに、ショッキングな作品も予想されますけど。フラッシュバックとか大丈夫ですか?」


「それはまだ分からないかな。まあそのときになったら教えてよ。でも、よほどのことがない限りは行くつもりだから。被害を受けた方の声は、聞かなきゃならないしね」


「分かりました。なるべく早く開催できるよう、話し合いを進めていきたいと思います」


「うん。お願いね」


 浅香さんにそう言われると、何か大きなものを託された気がして、私は頷くとともに気を引き締める。


 被害に苦しんだのは、私や浅香さんだけじゃないのだ。今もなお苦しめられている、多くの作家がいる。その人たちを一人残らず救うこと。それが私が、いや私たちが何を置いてもなさなければならないことだ。


「ねぇ、佳蓮」


「何ですか?」


「今回のことって、佳蓮にとってどういう位置づけなの?」


 確認するように、浅香さんが訊いてくる。私は言葉に迷うことはなかった。


「『よかった』とは絶対に、口が裂けても言えないですね。ギャラリーストーカーの被害なんて、ないに越したことはないですし。でも、今回のことがあったから、会の方々とも繋がれて、美術業界を変えるきっかけに少しでもなれたわけですし、辛くしんどい経験でもう二度と味わいたくはないんですけど、それでもほんのちょっとだけ、意味みたいなものはあったのかなって感じてます」


「そうだね。佳蓮たちが会見を開いたことで、勇気づけられた人はきっと大勢いたと思うよ」


「はい。だからこそ、会の活動をもっと活発にしていかなければならないと思っています。ギャラリーストーカーやハラスメント、性被害が一つもないクリーンな美術業界にするために。それだけじゃなく、作家としても私は作品を作り続けていきたいです。何があっても屈しない。そのことを伝えるには、やっぱり作品を作り続けることが一番ですから」


「うん。がんばれ、佳蓮。私も応援してるよ」


「はい。がんばります」


 そう言って、私たちは見つめ合う。微笑むことはお互いできなかったけれど、それでも浅香さんの目は純粋に私を励ましていて、それだけで十分だった。


 少し騒がしいカフェ。私は今一度背筋を伸ばす。頭は、帰ったら制作をしようと思う作品のことを考えていた。



(完)

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