【第1話】初めての個展
「……なので皆さん、明日からよろしくお願いします」
私がマイクから口を離して、小さく頭を下げると、館内にいる人から一斉に拍手が飛んだ。
オーナーさん、バイト先の店長、学生時代にお世話になった教授、友達、先輩、後輩。一〇人ほどから送られた拍手は優しくて温かくて、私の新たな門出を祝福している。胸を張っていいのだと分かっていても、私は若干縮こまってしまっていて、ここにいる人たちから柔らかな微笑みを受けていた。
オーナーさんからマイクと交換するように、シャンパングラスを渡される。同じようにシャンパングラスを手にした人たちの前で、私が言うことは一つだった。
「で、では、乾杯!」
口々に「乾杯!」と答える声が館内に響いて、私はシャンパングラスを傾けた。たぶんそんなに高価なものじゃないけど、舌に広がる甘みが心地いい。
思い思いに話し始める人たちのなかで真っ先に私のもとにやってきたのは、ここのオーナーである唐須さんだった。紺色のジャケットが、細身によく似合っている。
「おめでとうございます。菰田さん。いよいよ明日から、初めての個展の開催ですね」
「は、はい。ありがとうございます。こんな駆け出しの私にここを貸してくださって。本当に感謝してもしきれないです」
「いえいえ、私も菰田さんの作品は学生時代から拝見していましたから。菰田さんのような新進気鋭の作家さんに展示場所を提供できるなんて、ギャラリー冥利に尽きます」
「いえ、新進気鋭だなんてとても……」そう私が謙遜しても、唐須さんは頬を緩めたままだった。私は少し恥ずかしくなって、こっそり唐須さんから視線を逸らす。
すると、楽しそうに話しているみんなの向こう側、真っ白な壁に私が描いた絵が飾られているのが見えた。大学院に通っている間や、バイトをしている合間にこつこつ一枚ずつ描きあげていった絵が額縁に入れられて、慎ましく飾られている。
一枚一枚飾られていくたびに増していた「本当に個展を開くんだ」という実感は、今ピークに達していた。
私はそれからも唐須さんをはじめ、店長や教授、先輩や後輩の子、友達たちと代わる代わる話した。初めての個展を開催する私に、誰もかれもが明るく前向きな言葉をかけてくれる。
唐須さんはまだ始まってすらいないのに、「次の個展もここでどうか」と言ってくれたし、店長は「今度店に飾る絵を描いてよ」と、冗談か本気か分からないことを言う。教授や先輩は「ここがスタートラインだ」と言っていたけれどその言葉には愛情があったし、後輩や友達はまだ何も成し遂げていない私を、無条件でちやほやしてくれた。
自分の絵とお酒と集まってくれた人たち。私を肯定する要素しかない空間に、私は目元を緩めた。少し理想的すぎやしないかと思ったけれど、明日からの会期中、絵が売れる保証はどこにもないから、今はこれくらいがちょうどいいだろう。
胸にある不安を期待が上回って、私は温かな万能感に包まれていた。ただ一人、招待した人がまだ来ていないことを除けば。
その人はオープニングパーティーが始まって一時間ぐらいした頃に、ようやくやってきた。
他の人よりもいっそうカジュアルな出で立ちをした彼女は、唐須さんに事情を説明すると、すぐに私のもとにやってきた。息が多少上がっていて、急いで来てくれたことが分かる。
「ごめん、佳蓮! 用事が思ってた以上にかかちゃって! 待った!?」
「大丈夫ですよ、浅香さん。来てくれただけで嬉しいですから。それより、ひとまず乾杯しません?」
そう言って私が目で、お酒と個包装のチーズをはじめとした軽食が載っているテーブルを指し示すと、浅香さんは「それもそうだね」とテーブルに向かっていった。
シャンパングラスを手に戻ってきた浅香さんと、私はグラスを突き合わせる。軽はずみな音がした。
「もうみんなに言われてると思うけど、とりあえず個展の開催おめでとう。佳蓮の作家人生の第一歩だ」
「ありがとうございます。浅香さんに比べたら、私なんて本当にまだまだなんですけど、それでもちょっとは追いつけるようにがんばります」
「いいよ、比べなくて。絵は競うもんじゃないでしょ。佳蓮は佳蓮の道を歩けばいいんだよ。それが芸術ってもんでしょ?」
浅香さんが和やかに笑うから、私も「そうですね」と微笑んで返せた。
浅香さん、浅香彩夏は常に私の先をいっている。個展ももう複数回開催してるし、去年の日展でも入選を果たしている。先々月の美術雑誌で取り上げられたのは記憶に新しい。
大学も私は一浪したけれど、浅香さんは現役で入った。だから、私たちは年は一つしか違わないのに、学年は二つ違う。
もちろん卒業した今となっては関係ないけれど、私は今でも浅香さんに敬意を払わずにはいられなかった。
「でもさ、本当に久しぶりだよね。最後に会ったのって私の個展のときだから、もう半年以上前になるか」
「そうですね。大学のときは毎日のように会ってたんですけど」
「本当だよ。佳蓮、新宿のタネダ画材でバイトしてるんでしょ? 私も何回か行ってみたんだけどさ、全然会えないよね」
「まあそれはシフトとかあるので。あっ、何だったら浅香さんが来る日に、私合わせましょうか?」
「いいよ、そこまでしなくて。それじゃあ私が佳蓮を縛ってるみたいじゃん」
冗談っぽく笑う浅香さんに、私も言われてみればそうだなと思う。私には私の、浅香さんには浅香さんのペースがあるのだ。無理して合わせる必要なんてない。
それに、そもそもお互いのラインを知っているから、その気になればいつでも連絡できる。会う機会を作るのもたぶんそう難しくはない。私が勝手に遠慮してるだけで。
「しかし、まあよくこんだけ描いたよね。まだ院出て一年くらいでしょ。佳蓮、入ってきたときから筆速かったもんね」
壁に飾られた私の絵を見回して、呟くように口にした浅香さんに、私は思いっきり照れてしまう。今回の個展には二〇枚ほどの絵を用意したけれど、どれもそこまで号数は大きくないし、自分としては大したことをしたつもりはない。「まあ、時間だけはありましたから」と、本音で応える。
それを浅香さんは謙遜と受け取ったらしく、「そんなことないって」とやんわりと否定した。
「時間があっても、アイデアとかモチーフがなきゃ描けないでしょ。佳蓮、学生のときから絵だけじゃなくて、小説とか映画とか貪欲にインプットしてたじゃん。描いた量も人より多かったし。その努力の成果が、ここには溢れてる。それはもっと誇っていいと思うよ」
目標とする浅香さんにそう言われて、私は嬉しくないはずがない。だけれどあまりに嬉しすぎて、すぐに受け止めることはかえって難しかった。
「それはまあそうなんですけど……」と、ワンクッションを必要とする。目を瞬かせている私にも、浅香さんは相好を崩さない。早くもお酒で赤くなり始めた顔で、揚々と口にする。
「それにさ、私佳蓮の絵好きだよ。何描いても、たとえ無機物だったとしても、全部から生命力を感じて。佳蓮の想いが絵に乗ってる気がしてさ。技法よりもパッションで描いてるっていうの? そういうところが私は好きだな」
「……本当ですか?」
「本当本当。っていうか、大学んときから何度も言ってんじゃん。毎回それ訊いてるけど、そろそろ信じてよ」
そう言う浅香さんの目は、私を面倒くさがってはいなかった。あくまで思ったことを言っている。
それでも私は、浅香さんがリップサービスで言っている可能性を捨てきれない。どれだけ自分に自信がないんだと思う。でも、それを口に出したら、せっかく「好き」と言ってくれた浅香さんに失礼だろう。
私は「そ、そうですね。ありがとうございます」と、まだ歯切れの悪い返事をする。これも毎回のことだから、浅香さんも特に責めることはしない。
シャンパンを飲み干して、二杯目のシャンパンを取りに行く浅香さんは、その途中で私の先輩、つまりは浅香さんの同期である千曲さんに声をかけられていた。
軽く話している二人を、私はぼんやりと眺める。束の間の落ち着ける時間。でも、またすぐに友達に話しかけられて、主催者である私が休める時間はあまりなかった。
翌日。軽く二日酔いをしていた私は九時に目を覚ましたものの、それから二時間ベッドから出られなかった。ペットボトルの水を飲んで酔いを醒ましてから、支度をして家を出る。
JRから地下鉄に乗り換えて、ギャラリーへと向かう。
この日の私は一二時から三時までの三時間、ギャラリーに在廊することになっていた。コレクターだけでなく美術関係者も来る可能性があるから、駆け出しの私は作品だけじゃなく、顔も売らなければならない。
それに私は在廊している作家の前で作品を見たり、作家と話したりすることが嫌いではなかった。だから、バイトさえなければ、毎日でも在廊したいくらいだった。
一二時一〇分前にギャラリーに辿り着く。中にはスタッフの人が一人入り口付近に座っているだけで、あとは誰もいなかった。
まあ平日の昼間だしなと私は自分を納得させ、館内に入る。スタッフの人から「まだ私の絵は一枚も売れていない」と聞かされたときは、さすがに少し落ち込んだけれど、院を修了してまだ一年ほどしか経っていない私の絵が、二時間やそこらで売れるわけないよなと思い直す。
挨拶をした私に諸々の説明をすると、スタッフの人はギャラリーを後にしてしまった。昼食も含めた一時間の休憩である。
私は一人ぽつんとギャラリーに残される。壁に飾られた絵が「私を見て」と、めいめいに叫んでいるように感じられた。
個展の開催が初めての私は、当然在廊するのも初めてだった。さて、何をしたらいいのか。
ギャラリーは大通りから一本脇道を入ったところにあるから、人通りはあまり多くない。月曜のこの時間帯ならなおさらだ。
でも、私が座っているのは窓に面したところなので、外からはばっちり見えてしまう。いくらなんでも、俯いてスマートフォンばかり見ている人間がいるギャラリーに入りたいと思う人はあまりいないだろう。
私は頭の中で好きな音楽を再生しながら、適当に視線を遊ばせた。心の中は「誰でもいいから入ってきて、私を安心させてほしい」という思いで占められていた。
すると、私の願いが通じたのか、座り始めて二〇分ほどしてから、一人の男性がギャラリーに入ってきた。身長はそんなに高くないけれど、コーヒーブラウンのコートが落ち着いた印象を与える、ぱっと見五〇代くらいの男性だ。
私と小さく会釈を交わすと、その男性はギャラリーの奥へと進んでいく。一枚一枚を絵と対話するようにじっくりと見ていく男性。
鑑賞の邪魔になるから私は男性を凝視しなかったが、それでも意識せずにはいられない。私が描いた絵を見て、何を感じているのだろう。気に入ってくれているのだろうか。
私は祈るような気持ちで、椅子に座り続ける。時間が過ぎるのが、ひどく遅く感じた。
「ねぇ、ちょっといい?」
近くに来るとかそういう予兆もなく、男性は本当にいきなり声をかけてきたから、私は思わず慌てた返事をしてしまう。こちらに向いた目が、心を抉ってくるようだ。私に話しかけられた在廊中の作家たちも、こんな思いをしてたんだろうか。
「ここにある絵って、君が描いたの?」
私は「は、はい」と頼りない声とともに、首を縦に振った。胸を張るべきシーンなのに、なぜか委縮してしまう。男性は納得するように二度頷いただけで、それ以上喋ろうとしなかった。
中途半端に終わってしまった会話に、場が持たない感覚がする。私はおそるおそる口を開いた。
「あ、あの、何かお気に召した作品はありましたか?」
「うーん、この『終焉と芽吹』って作品は、結構いいと思うけどね」
「は、はい。ありがとうございます」そう言って私はようやく腰を上げて、男性のもとへと向かう。男性は緩やかに目を細めていて、少しためらいはしたものの、私もその表情を額面通り受け取った。
壁に飾られた『終焉と芽吹』は、廃墟の中に咲く小さな花を一筋の光が照らす水彩画だ。もちろんここにある全ての作品が大切だが、この絵は私にとっても自信作に入る。だから、褒められたことは素直に嬉しかった。
「灰色の廃墟と黄色い花のコントラストが綺麗だし、メディウムを使った光の表現も繊細で、いい味出してる。絶望することばかりの世の中でも、なんとか些細な希望を見つけて歩き続けていこうっていう、メッセージを俺は感じるよ。名作だと思う」
私が訊いてもいないのに、男性はペラペラと喋り出していて、少し肩身が狭かったけれど、それでも感想自体は喜ばしかった。この絵を描いたときは、個人的にも色々とうまくいかない時期だったから、絵にこめた思いを掬いあげてくれたことに胸を打たれる。
「ありがとうございます」という言葉のあとに、自然と「あの、絵お好きなんですか?」と出てくるくらいには、私はこの男性のことを身近に感じつつあった。
「まあね。暇な日はよくギャラリーを巡ったりするし、美術館目当てで色んなところに旅行も行ったりするよ。美術鑑賞は俺の一番の趣味だね」
「それは素敵ですね」
「まあ見るだけじゃないけどね。ギャラリーでいいなと思った絵は、よく買うようにしてるし。家にさ書斎があって、そこに絵を飾ったり保管したりしてるんだけど、たぶん一〇〇枚はあるんじゃないかな。まあ最近はあまり数えてないんだけど」
そう言って笑う男性は、露骨にコレクターであることをアピールしてきた。私は合わせるようにして笑いながら、どことなく居心地が悪い思いを抱く。
私たち作家は絵を買ってくれる人、コレクターがいなければ生活できない。もし変な態度を取って機嫌を損ねてしまったら、それこそ一大事だ。だから、私は笑顔を顔に張りつけるしかなかった。
一瞬で上下関係が生まれた気がしたけれど、男性はそんなことは気にしていないようだった。
「ところでさ、君いくつ?」
急に話題を変えた男性に、私だから訊いていることを、私は直感する。絵に年齢は関係ないし、この男性だってベテラン作家を目の当たりにしたら、年齢を訊くことはないだろう。
私は甘く見られているのだ。少し苛立ったけれど、当然顔には出さない。
「二十六です」
「へぇ、じゃあ院出てからまだ二年くらい?」
「いえ。一浪して入ったので、去年院を修了したばかりです」
「へぇ、なのにもう個展を開いてるんだ。すごいね」
「いえいえ」と私は謙遜したけれど、心の中では既にこの男性から離れたいという思いが、生まれつつあった。視線は絵に向いているのに、絵以外の部分を見られている感覚がする。「若い女性」は私を構成する要素の一つにすぎないのに、そこだけを過大に評価されている気がする。
男性は絵を見続けて、やがて何かが分かったかのように頷いた。こちらを向いた目が、穏やかで鋭い。
「この絵、買うよ」
「あ、ありがとうございます」そうとっさに返事をしたものの、私は完全には喜べなかった。もちろん作品のよさもあるのだろうが、それよりも作品の外の、私にまつわる要素で購入が決められたようだ。
でも、駆け出しの私に文句が言えるはずもない。絵を売って生活していくために、使えるものは全部使う。それは何も悪いことじゃないはずだった。
「電子決済でも大丈夫?」
「あの、すいません。係の者が来るまでもう少しお待ちいただけますか」そう言って、私たちはスタッフの人が戻ってくるのを待った。
スタッフの人は一〇分ぐらいしてやっと戻ってきて、事情を理解するとすぐに端末を操作して、男性が表示した決済画面を読み取った。
端末の画面に表示された「鍛冶屋正治様」は、おそらくこの男性の名前だろう。形式ばっていて、いかにも美術鑑賞を趣味にしてそうな名前だなと思ったけれど、当然口には出さない。
「じゃあね。応援してるから。これからもがんばってね」
そう言い残して、鍛冶屋さんはギャラリーを後にした。いいことをした、いい作家を見つけたと、後ろ姿が満足げだった。
本人がいなくなると雑念は消えていき、私の中にただ絵が評価されて、売れて嬉しいという感情だけが残る。だから、スタッフの人に「おめでとうございます」と言われて、素直に応じることができた。
赤い文字で「売約済」と書かれたシールを持って、スタッフの人が絵の方へと向かっていく。作品概要が書かれたプラカードにシールが貼られるのを、私はしげしげと眺めていた。
(続く)