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二階の、上がって左に行った一番大きな客室が、二人が居た部屋だという事だった。
別々ではなく、同じ部屋がいいという事だから、その部屋にしたらしい。
確かにここには、他の部屋と同じようにベッドが入って右側にあったが、左側の奥の壁にももう一台あって、二人が泊まれるようになっている仕様だった。
松本は、三人を案内してから言った。
「では、私は用がありますので、一度帰らなければならないのです。お屋敷の中はどこでも入ってくださって結構ですので。明日の朝には戻って来ますので、それまでお願いします。」
美里は、驚いて松本を見た。
「え、帰るんですか?」
松本は、頷いた。
「はい。もう施錠して離れようと思って戻って来たら皆さんがいらっしゃったんですよ。幸い、私がどれだけ滞在するか分からないので、冷蔵庫に食べ物買って来て入れてますし。あるものは何でも食べて頂いてよろしいですので。本日はもう、誰も来ない予定でした。そもそもここは、無人で使っていない場所ですので。」
湊が言う。
「でも…オレ達が悪い人間じゃないのはオレ達には分かってますけど、あなたにはわからないでしょう。こんな高価そうな物がたくさんある家に置いて帰っていいんですか?主人に叱られるんじゃ。」
松本は笑って首を振った。
「ないですよ。だってここにはそんなに価値のあるものは置いていないって主人は言っていました。そりゃ家具は高価ですけど、あなた方は車でもないのに、どうやってここから運び出すんです?下の敷地の門は閉じてたでしょう?車を呼ぶことも出来ないのに。」
言われてみたらそうだった。
ここから遅くに物を運び出そうにも、その手段がない。そもそも帰ろうにも、夕方のバスは6時までで、それまでに下まで歩くのすら大変そうだった。
美里は、仕方なく頷いた。
「では、明日の朝までお邪魔します。鍵は…?」
閉めて行かれて出られないのは避けたい。
松本は、あっさりポケットから鍵を出した。
「これです。明日の朝まで預けておきます。屋敷のどこへ行ってもよろしいですが…一つだけ。」と、険しい顔をした。「キッチンの、床下から続く階段には、絶対に入らないで下さい。危険ですので。」
湊は、眉を寄せた。床下…?
「…そんな所があるのも知りませんでした。」
湊が言うと、松本は頷いた。
「床下収納だと思って開けたら、困るから言っておきました。地下へ入って洞窟から海へと抜ける道なんですが、長く使われていなくてメンテナンスされていません。落ちたり崩落したりする可能性があるので、海に降りたいなら外の階段を使って下さい。その方が安全ですので。」
先に聞いておいて良かった。
湊は、思った。確かにそんなものを見つけてしまったら、多分降りて見てみようと思うだろう。
美里と弥生は、顔を見合わせたが黙っている。
松本は、湊に屋敷の鍵を手渡して、そうしてその客間を出て行ったのだった。
美里は、それを見送ってから、腰に手を当てて言った。
「さ、何を探す?」と、ぐるりと大きな部屋を見回す。「もしかしたら、持ち物とか忘れてるものがあるかもしれないしね。それか、メモとか…書き残したもの?」
湊は、頷く。
「じゃあ、君達はそっちの右側のベッドから探して。オレはあっちのベッドから探す。」
二人は頷いて、綺麗に整えられたベッドへと足を向ける。
湊も、そちらの方へと足を向けた。
本当に大きなベッドだった。
これ一台で余裕で三人は眠れそうだ。
何か忘れていたとしても、これだけ綺麗に整えられてあるという事は、恐らくシーツも取り換えた後なので、回収されているのではないだろうか。
でもそれなら松本が忘れ物だと教えてくれたはずだった。
そう思いながらも、一応ベッドの隙間などを隈なく手を突っ込んで探し、ベッドの下を覗いて、サイドテーブルの方も調べた。
サイドテーブルの上には、きちんとした角度でホテルにあるようなメモと、ボールペンが置いてあって、ここも綺麗に片付けられている空気がバリバリだった。
とても、何か見つかるとは思えなかった。
「そっちはどう?」
湊が聞くと、二人は振り返った。
「何も。そもそも片付いてるし、あったら松本さんが知ってるはずよね。」
美里が答える。
やはり同じことを考えたらしい。
「だったら、書斎に行こうか?二人が籠ってたっていう。あの二人が何か見付けたならそこだし、あと管理室じゃないかな。行って調べてみよう。」
二人は頷いた。
「そうよね。大河くんと理久くんが何を見てたのか探してみよう。」
そうして、三人は客間を出て、書斎へと向かった。
書斎は、やはり鍵もかかっていなくてすぐに入れた。
中には本棚がたくさん並んでいて、真ん中にテーブルとソファが二つ置いてある。
本の数は、尋常ではなかった。
「えー?この中から何を見てたのか分かる?」美里が、うんざりしたように言う。「綺麗に片付けてあるから、何を読んでたのか全く分からないわ。」
湊も、お手上げだなと思ったが、近付いて見てみると、結構洋書も多い。
あの二人が、洋書を見るとは思えないので、見たとしたら日本語の本だろう。
「…この棚じゃないな。」湊は、言った。「そっちじゃないか。日本語の本しか読めないだろ?」
日本語の本が収めてあるのは左の棚一つだけだった。
だが、弥生が言った。
「でも、見て。」と、辞書らしい物をソファの上から持ち上げた。「これ…英和辞典よ。もしかしたら、何かを読もうとして辞典を出したんじゃ。」
黒いソファの端に、隠れるようにあったそれは、パッと見たところあるのが分からなかった。
片付けたとしても、忘れられていたのだろう。
「でも、あの二人が辞典を引いてまで調べたかったのって?そこまでして読みたそうな本はある?」
湊は、膨大な数の本を見回した。
いろんな言語の本がひしめいているが、あの二人が読んだのは英語…だとしたら、英語の背表紙だけを見ていけばいいのか。
「英語の本だけ見てみよう。」と、弥生を見た。「弥生さんは、英語の背表紙を見て読みたそうな本を探して。オレも探す。美里さんは、日本語の本棚を見て。もしかしたら興味のありそうなのがあるかもしれないし。」
二人は頷いて、早速本棚に向き合った。
湊も、本棚の本の背表紙だけを必死で目で追いながら、その本を探した。
「なんだか、難しい本ばっかり。」弥生が、背表紙だけでは判断が付かなかった本を、手にとって開いて見ながら言った。「こんなの、あの二人が読もうとするなんて思えない。」
弥生は、本を閉じてまた元に戻す。
湊も、頷く。
「なんか経済学とか、心理学とか。学術書が多そうだよね。」
分類分けもされていないようで、小説などもごっちゃになって立ててある。
あの二人が、小説を辞典を引いてまで読もうとするかと言われると、あり得なかった。
そもそもそんなに勉強家ではない。
そんな中、美里が真剣に何かの冊子のような物を読んでいて、顔を上げた。
「ちょっと、これ見て。」二人が振り返ると、美里は続けた。「民族学的に気になる本よ。古いんだけど…信仰のことについて書いてある。」
弥生が、興味があるように目を輝かせたが、あいにく湊は、そんな気分ではなかった。
「民族学を専攻してた君たちなら読みたいかもだけど、あいつらが読むか?」
美里は、首を振った。
「違うの、ここでの信仰なのよ?」と、茶色く変色した紙のそれを聞いて見せた。「ほら、地下の祭壇で崇めてるんだって。その神は、遠く地下を自由に行き来して、地上の出口の幾つかには祭壇があって、その神を信仰している人々の元に現れるんだそうよ。姿は闇のような…でも虹色の形の定まらない…?」
美里は、読みながら段々に顔色を変えていく。
湊が、顔をしかめた。
「なんだ?何か?」
弥生が、じっと考え込む顔をする。
「…聞いた事がある。何だったかしら、神々の一柱だったような…。」
湊は、またクトゥルフか、とハアとため息をついた。
「でも、あいつらが読みたいと思っていたのは英語だろ?辞書が…」と、さっき弥生が見つけた辞書を見た。「あれ?英語?」
それにしては、知らない単語?
湊がそう思って中を見ると、それは羅和辞典、つまり、ラテン語から日本語に訳すための辞書だった。
「…違う!これはラテン語の辞書だ!大河と理久は、ラテン語の本を読もうとしてたんだよ!」
「ええ?!」
二人は、寄って来て中を見た。
言われてみたら、英単語ではない。
辞書の背表紙が横文字なので、弥生は普通に英和辞典だと思ったらしかった。
湊は、さっと本棚を見た。ラテン語だったら、もしかして。
「…これ。」湊は、古いずっしりとした本を手に取った。表紙は革で出来ていて、革のベルトがついている。『Νεκρόςνόμοςεικών』と表記がある。「…読めないな。見た事なかったから、もしかしたらラテン語かと思ったんだけど。ギリシャ語か?ロシア語?紙が挟まってるな。ええっと、Necronomiconの写し。ってメモ書きが。」
「ネクロノミコン?!」
美里と弥生が、ワッと寄って来てその本を見た。湊は、首を振った。
「あの神話の中のヤツじゃないと思うぞ。こんな所にそんなものがあるはずないじゃないか。それに、写しって書いてあるし、模造したレプリカかなんかじゃないか?」
美里は、湊の手からそれをひったくるように取って、言った。
「それでもよ!見てみないと分からないじゃないの!」と、革のベルトを外して、中を開いた。「うわ…それっぽい。凄いわ、模造品だとしても完璧に世界観掴んでるよね。」
弥生が、脇からそれを覗き込んで頷く。
「本当。でも、中身が全く分からないわ。何語?」
湊が、その文字を見て、言った。
「あ、ラテン語。でも表紙は違うんだよ。でも中身はラテン語だ。」
美里は、読めない中身を見ながら、言った。
「それでもよく出来てるわ。なんだか見つめているとゾワゾワする…。ラテン語版ってことね。他にもあるって設定なの。アラビア語が原書で、ギリシャ語、英語、スペイン語。ネクロノミコンって名前は、ギリシャ語に翻訳された時に付けられたって読んだわ。」
相変わらず、よく知っている。
湊は思いながら、頷いた。
「で、これはラテン語版のレプリカって事か。中身は適当かもしれないぞ?読んでも仕方ないはずなのに、どうして二人はこれを読もうとしたんだろうな。」
美里は、首を傾げた。
「何かが起こって…それを解決しようとして、方法を探してたとか?」
湊は、首を振った。
「帰りたがってたんだろ?夜中にここを出て行くぐらい。何かを見つけたとしたら、解決する前に逃げたってことだ。逃げなきゃヤバいと…。」
そうだ、逃げたのだ。
二人は、ここで何かを見付けて、一刻も早く逃げなければとここを出たのだとしたら合点が行く。
「…逃げないと。」湊は言った。「あいつらが何かを見付けて逃げたとしたら、逃げなきゃならない何かがあったってことだ!」
美里は、顔をしかめた。
「何かって何?地下で崇めている神様が、ネクロノミコンの中に書いてある神様だったってこと?」
湊は、ゾワゾワと毛が総毛立つような気配を感じた。
ニャルラトホテプ…もしかしたら、ニャルラトホテプが?
「…ここを出よう!」湊は、必死に言った。「ニャルラトホテプかもしれないぞ!」
弥生は、首を振った。
「違うわ。ニャル様は虹色なんて表現されないわ。深淵、混沌、底知れぬ闇…でも、美里が見つけた本には、そんな文言はないわ。虹色なのよ。でも、なんだったかしら…ネクロノミコンに書いてあるんじゃない?」
美里は、頷く。
「多分、あの二人もそんな風に思って調べたんじゃない?」
「それで見つけたのがヤバかったんじゃないのか!」湊は叫んだ。「逃げたんだぞ?!」
弥生は、眉を寄せた。
「でも、二人は帰ってないわ。」弥生の声は、暗かった。「逃げきれなかったんじゃないの…?」
美里も、その可能性を考えて視線を落とす。
湊は、首を振った。
「暗かったからかもしれない。まだ明るい、今のうちに逃げて、ゆっくりネクロノミコンの中を調べて対策を考えよう!オレ達だってヤバいかもなんだぞ?」
だが、日が傾いて来ていて、窓の外は夕焼けになりつつあった。
今から山を降りても、恐らく麓までたどり着く前に日は暮れる。
美里は、言った。
「二人の二の舞になるわ。どちらにしろ、逃げるなら朝。今夜さえ乗り切ったらいいのよ。だって、あの二人は三日ここに居たわけでしょう?その間何もなかったわけだから、明日までならなんとかなるわ。辞書があるんだし、今から調べてしまいましょう。暗くなってからは危ないわ。」
湊は、歯ぎしりした。
美里は、もっともなことを言っている。だが、あの二人が逃げたほどの何かを、ここで待つなど出来ない。今夜、本当に無事で済むのかどうか、何も分からないのだ。
だが、湊には二人を置いてここを離れることなど出来なかった。
湊が一人で逃げれば、ニャルラトホテプはそれは喜んで嘲笑うだろう。生き返らせろと言ったのは、やはりもっと残酷に殺すためだったのかと。
湊は、自分の無力さに頭をかきむしりたい気持ちだった。




