エピローグ
湊は、ハッと起き上がった。
額からは汗が流れて来る…息が上がって心臓がこれでもかと速く打っているのが分かった。
ハアハアと必死に空気を求めて喘ぎながら、段々に落ち着いて来る呼吸に、やっと回りを見回した。
そこは、自分が一人、暮らすアパートの部屋だった。
…夢…そうだ、恐ろしい夢を見た。
湊は、その内容を思い出そうとしたが、全く出て来ない。
ただ、真っ暗などこか、何かの笑い声を聞いたような、そんな記憶だけだった。
ハアと肩で息をついて、起き上がってカーテンを開くと、清々しく晴れ渡った朝だった。
スマートフォンを見ると、今日は連休三日目。
果たしてこの二日、何をしていたのかも思い出せず、ただ自分は家で食っちゃ寝していたように思う。
…外に出ないのが悪かったか。
湊は、悪夢を見たのはだらけた生活を送っていたからだと反省した。
…大河達に連絡してみるかな。
最近は、全く連絡をとっていない。それがなぜだったか、皆目思い出せなかった。
どうせお互い忙しいとか、そんな単純な理由だったような気がする。
湊は、アプリで大河に連絡を入れて、駅前のカフェで会う約束をした。
昼前に待ち合わせてそこへ行くと、なぜか理久も、美里も弥生も一緒だった。
湊が驚いていると、大河が言った。
「湊!久しぶり、びっくりしたよ。お前最近忙しいとか言ってたよな。全然連絡ないし、こっちは遠慮してたのによお、急に連絡くれるから。」
湊は、注文を取りに来た店員にコーヒーを頼んで、言った。
「なんでだろうな。連絡ぐらい出来るのに、ほんと急に思い出して。今日はみんなで会う約束してたのか?」
理久が、顔をしかめた。
「それがさあ、不思議なことがあって。」と、弥生と美里を見た。「普段はオレ達、現場ばっかりだから、美里さんが休みの時に事務仕事のバイト頼んでるんだけど、昨日の仕事、なんでだかオレ達が事故で入院してるから、キャンセルしてくれとかメールしてて。でもその後、人が手配出来たからすぐに向かわせるとか書いてまた送ってあってね。美里さんは覚えがないって言うし、オレ達も記憶がすっぽぬけてて、ヤバいって客先に今朝、連絡入れたら、問題なく代わりの方がやってくださいました、大丈夫ですかって心配されてさあ…こっちはなんの事か分からなかったけど、大丈夫です、すみませんって答えるしかなかった。」
大河も、顔をしかめて頷いた。
「何かめっちゃ優秀な人が行ってやってくれたみたいで。逆に感謝されたぐらい。湊かな?って思ったんだけど…違う名前だったし。」
湊は、首を振った。
「オレは連休だから家でだらだらしてたよ。めっちゃ悪夢見て…やっぱり籠ってるのがいけないんだって、大河に連絡したんだ。でも、記憶ないって大丈夫なのか?」
美里が、横で言う。
「そうなのよ。今朝ね、事務所で目が覚めたら、弥生と私、それに理久くんと大河くんで、雑魚寝してたわけ。お酒の缶がいっぱい転がってたから、多分飲み過ぎたんだと思ったんだけどね。でも、ここ数日の記憶がすっぽぬけるってある?なんだか、自信失くなっちゃって。」
みんなで酒盛りしてたのか。
湊は、呆れて言った。
「なんだ、そのせいで忘れてるだけで、結局休みたいから誰かに頼んだんじゃないのか?」
大河は、うーんと首を傾げた。
「でもなあ…確かにうるさい客だから、めんどくさいと思ってはいたけど、お前以外に誰に頼むんだよ。そんな知り合い居ないし…請求書も来てないんだぞ?」
弥生が、割り込んだ。
「締め日の関係なんじゃないの?そのうち来るわよ。私もなんか、変な夢見た気がするし、やっぱり飲み過ぎは良くないよね。残りの連休は規則正しく生活するつもり。」
理久が、その話は終わりとばかりに身を乗り出した。
「じゃあさ、ネットでいいからシナリオ回さないか?オレ、新しいシナリオ見付けたんだよ、ネットにアップされてたヤツ。人数がちょうどいいし、短いヤツなんだ。みんなこのまま家に帰って、夕方ぐらいからどうだ?」
美里が、息をついた。
「今日はいいわ。なんだかそんな気になれないのよ。でも、どんなシナリオなの?」
理久は、残念そうな顔をしながら答えた。
「海辺の屋敷のヤツ。あんまり出ない邪神が出るから…おおっと、ネタバレしたら回せなくなるな。でも、そんなに時間が掛からない量なんだ。」
湊は、海辺の屋敷、と聞いて背筋が冷たくなるのを感じた。なぜだか、動悸がする。
自分だけかと思ったが、弥生も美里も固い顔をした。
「…なんだか、気が進まない。」弥生は、言った。「またにしよう?ほんと、嫌な夢を見たの。思い出せないけど。」
湊も、同感だったので頷いた。
大河も、頷く。
「こいつらは連休だけどオレ達は明日はまた仕事だろうが。かき入れ時なんだからな。今回は諦めろ。」
理久は頷いたが、納得していないようだ。
理久は気を失っていたから…。
湊は思って、ハッとした。気を失っていた…?いったい、いつの事だ?
言い知れない不安が襲って来るが、その意味が分からない。
湊が青い顔をし始めたので、美里が慌てて言った。
「湊くん?大丈夫?あなた、前からダメだものね、この手の話。大丈夫よ、無理にシナリオ回したりしないから。」
そうか、そうだったオレはTRPGが苦手だった。
だが、なぜだった?
何も思い出せないのに、不安ばかりが押し寄せて来て、湊は皆に気遣われて、結局アパートへと、帰ることになった。
まだ、体の震えは止まらなかった。
全ては終わった。
なんの事はない、皆どこも傷もないまま、気を失って倒れているだけだったので、全員を回収して、記憶を綺麗に整理して消去し、それぞれのあるべき場所へ返して来た。
恐らく、あれだけの事を経験したので肌で覚えていることもあるだろうが、意識に残る記憶は何もないはずだ。
ただ、潜在意識の奥底に沈んだ記憶はあるかもしれない。
まだそこまで深く綺麗に消して操作するほど、脳の事は解明されていなかった。
大河と理久の仕事に支障が出るのは困るので、その間に入っていた仕事はこちらで手配して代わりの者が処理をした。
その代金を、請求するつもりはなかった。
彰は、初めて長い休暇を取れたと名残惜しげに関西を後にしていた。
紫貴も新ももちろん共に連れて戻ったが、二人はヘリで10分ほどの彰の屋敷に住んでいて、彰はそこから通う生活を再開していた。
これまで時間関係なくおっとりやっていた研究も、研究所に居る間にしなければならないので、帰宅時間を守るためにも、彰の処理スピードは格段に上がった。
もっと早くこうしていれば良かった、と、彰は怒涛の集中力を発揮して頑張っていた。
要が全て終わったと報告に行った時も、彰はパソコンに向かい合って物凄いスピードでキーボードを叩いている最中だった。
「もうすぐ退所時間ですよ。もう終わってると思いましたのに。」
要が言うと、彰は手を止めずに答えた。
「分かっているが、さっきまたメールが来てそれに返しておこうと思ってな。で?終わったか。」
要は、頷く。
「はい。完全に記憶が消去されているのを確認したと報告がありました。これで、あの五人とはもう関わる事はありませんね。」
彰は、頷いた。
「ホッとしたよ。もう邪神のふりをせずに済む。」と、ポンポン、と片手でキーを叩いた。「さて、終わった。」
要は、彰の左手に光る、結婚指輪を見た。クリスから、これを巡って土壇場で大変だったと聞かされたのだ。
「…それ、結婚指輪、外さないとごねたらしいですね。」
彰は、要を睨んだ。
「あの時紫貴に約束したのだ。君も知っている通り、紫貴は前の夫のせいで男が信じられないのだ。それを無理に頼み込んで新を産んでもらうために急いで再婚させたのに、私が一つでも約束を破れば途端に信頼関係が崩れてしまう。私は死んでもこれを外さないつもりだ。」
そういう事じゃないとは思うんだけど、彰さんの本気は伝わるよ。
要は思いながら、言った。
「彰さん、紫貴さんは、そんな小さなことで何か言う事は無いと思うんです。何しろ、前のダンナさんからは経済DVと暴言と浮気ってトリプルコンボを受けてたわけで、彰さんがそれをしなければ、指輪を一時外したぐらいでごちゃごちゃ言うような人じゃありません。そこまで気を張っていたら、あちらも疲れると思うんです。ほどほどにしたらいいと思いますよ。そもそも彰さんは、浮気の心配とお金の心配だけは無いわけで、それだけでもかなり紫貴さんには信頼できるポイントだと思うんです。」
「暴言だって吐かないぞ?」彰は言って、息をついた。「分かっている。紫貴も同じようなことを言っていた。そこまで厳密に外すなって訳ではないからと。自分だって病院での検査の時とか、外せと言われたら外すかもしれないから、お仕事で必要なら遠慮なく外してくださいとな。分かっているのだ…ただ、私が外したくないだけで。」
どうやら、紫貴はクリスか誰かから、あの話を聞いたようだ。
もう、彰に話していたのだ。
紫貴は、彰より年上なだけあって、落ち着いて彰を諭すことに長けている。彰は、そんな紫貴だから言うことも聞くし、安心するのだろう。
とにかく彰は、初めて愛して安心する場所である紫貴を、失いたくない一心で、そして何より自分が紫貴との繋がりを失くしたくなくて、指輪を頑なに外さないのだろうと思われた。
要は、そんな子供のような彰に、苦笑して言った。
「さ、もう時間ですよ?」要は、彰を促した。「紫貴さんが待ってるんでしょう?」
彰は、途端に元気な顔をして、椅子から立ち上がった。
「そうだ。今日はメイド達とハンバーグを作ると言っていた。では、私は帰る。何かあったら、連絡してくれ。」
要は、頷いた。
「はい。お気を付けて。」
そうして、人並に幸せそうな彰を微笑ましく見送った。
これが、ずっと続くことを、要は密かに祈っていた。
彰には、作業効率を上げてもらい、思考がスムーズに流れるように良い環境が必要なのだ。そうして、何としても生きているうちに、多くの人の命を助ける手段を構築してもらうために。




