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湊がその輪頭十字に手を伸ばすと、それは目の前でサッと何かに掠め取られた。
風にさらわれたかと顔を上げると、そこには、ニャルラトホテプが宙に浮き、湊を蔑むような目で見下ろしていた。
湊は、思わず尻餅をついた。
「ニャ、ニャルラトホテプ…!!」
湊が、思わず言うと、相手は不快そうにその美しい顔を歪めた。
「お前如きが、我の僕と?」と、ヒラヒラと輪頭十字の絵を振った。「こんなもので退散?我がこんなものを怖がるとでも思うのか。子供騙しぞ。」
ニャルラトホテプは、それをピッと弾くと、燭台の蝋燭の炎の上へと弾いた。
「ああ!」
湊がそれを追おうとしたが、輪頭十字の絵はメラメラと燃え上がってみるみる燃えカスへとなって消えて行った。
だが、祭壇の前にいた怪物の方は、確かにそれを避けようと横へ動いたのを湊は見た。
つまり、ニャルラトホテプには利かないが、あのニョグタには利いたということなのだ。
自分の荷物の中には、エルダーサインだって入っていた。だが、捕らえられた時にどこかへ放ってしまわれたらしく、ここには無い。
これで、退散させる手段が無くなってしまったのだ。
その上、燭台の近くに立っていたあの、ゴブレットのような瓶は、倒れて中身がぶちまけられていた。
松本が、退散呪文を唱えようと駆け寄った先がそこだったことを考えても、恐らくあれが、ティクオン霊液だったのだろう。
湊がガックリと下を向いて項垂れているのに、ニャルラトホテプは責めるように言った。
「つまらない。お前は誠につまらない。もっと面白い動きをするかと思っていた。それなら我が僕だと言っても我はそうだと言ってやっただろう。もっと我を楽しませるだろうからだ。だが、お前は何をした?…我が知らぬとでも思っているのか。」
湊は、もう駄目だと思った。自分が逃げた事を、ニャルラトホテプは知っている。洞窟へ来たのは、強制的に連れて来られたからだった。
それを、全て知られているのだ。
「オレが…オレが生き残った方が、もっといろいろ楽しませられると思ったからです!」湊は叫んだ。「もっと…別の人間を連れて、またあなたを楽しませる動きを…。」
ニャルラトホテプは、ほう、と湊を見た。
「楽しませようと?もっと人間を連れて来るのか。お前のせいで死ぬものを増やすのか。そしてそれを見て狂気を生み出すのか。」と、スッと表情を険しくした。「魅惑的な話だが、我を騙せると思うているその心が気に食わぬ。」
湊は、見透かされている、と慌てて言った。
「本当です!本当に次を連れて来ますから…!もう、もう生き返らせてくれとは言いません!ずっとあなたを楽しませるために人間を連れて来ます!」
ニャルラトホテプは、無表情でそれを聞いていたが、言った。
「…そうだな。お前が我のために出来ることがある。」と、ニッとゾッとするような笑みを浮かべた。「さあ、残虐に死んでくれないか。お前が死の寸前に何を見るのか教えてくれ。お前がこの場に引きずり込んで恐怖に狂い、残虐に食われて死んだ友ら以上の狂気と、後悔と、絶望と、そして長く続く苦痛の中の猛り狂う生への執着を見せよ。長ければ長いほどいい。絶望と恐怖の叫びを、失われて行く肉の身の一片が消え去るまで聞かせてくれ。お前が苦しめば苦しむほど、我は楽しむ。さあ、我を待たせたのだ。今すぐに。」
湊は、必死に立ち上がろうとしたが、出来なかった。
なので、そのまま這って逃れようとしたが、その足を、何かがグッと掴んで引き寄せた。
「ひい!」
湊が言ってそちらを見ると、ニャルラトホテプがじっと空中で見守る中、ニョグタが湊の足から順に、モグモグバキバキと音を立てて噛み砕き始めた。
「あ…」湊は、ジリジリとその口の中へと引きずり込まれて、まるでシュレッダーにかけられているような状態になりながら、絶望の叫びを上げた。「あああああ!!助けて!助けてください!」
痛みは鈍い。だが、確かに足が無くなって行くのを感じる。
湊は、必死に腕だけで床へと貼りつき、必死に逃げようと腕をバタバタと動かした。
ニャルラトホテプは、言った。
「人それを〈闇に棲むもの〉と識る。〈古きもの〉それを〈ニョグタ〉と称ぶ。すなわち〈在りうべからざるもの〉と。このもの、秘められし洞あるいは罅より出でて地のうわべにいたりぬ。このもの、シリアにて、あるいはレンの〈黒き塔〉の下にて、魔の術をあやつる者らの目に触る。また韃靼のタンの洞より出でて、大いなる王の宮殿に恐れと崩れをもたらしぬ。このものをかつて棲みいたる暗き洞の隠されし腐濁のなかに退かせしむるは、ただ環の十字と、ワク‐ウィラジの祓式と、ティコウンの霊液のみにてかなうべからん。」まるで何かを読んでいるかのようにスラスラと唱えるように言ったニャルラトホテプは、クックと笑いながら湊を見下ろした。「わざわざ用意してやったのに。読んだだろう、この文言を。ここは、これが出現する場所。せっかくお前が存分に楽しめるように用意してやった舞台だというのに、お前は約束の半分しか果たさなかった。我があれらを生き返らせてやったのに。あれらを残虐に死なせたのは成した。だが、お前は?お前は何をしたのだ?我は我を謀る人間など許すことはない。だが我の手をお前如きに下すのはもったいない。これの餌になるが良い。これに食われたものは永遠にその暗き闇の中に囚われ、魂となっても逃れる術はない。永久に闇の中をさまようが良い。時にその狂気を眺めに行ってやろうぞ。」
永遠に。
永遠に、死んでも逃れられない闇の中へ放り込まれると言うのか…!
「や、やめてくれ!頼む、何でもする…!せめて死んでからぐらい、解放してくれ…!!」
もう、腰の辺りまでニョグタに覆われて最早痛覚も無くなったのではないかというぐらい、鈍い痛みだけを感じながら、湊は叫んだ。
しかし、ニャルラトホテプはそれを、ただ嘲るように笑って見ているだけだった。
「おおそうだな。お前の仲間は、助けてやってもいいぞ?もう死んでいるし、今回は魂だけの話だがな。あれらは戦った。とりあえずは、な。少しは楽しんだし、我は慈悲深い神なのだ。」
もはや胸ぐらいまで来て、もう息をしているのかも分からない状態の湊は、切れ切れに、言った。
「オレ、も…。オレ、を、たすけて…」
ニャルラトホテプは、わざと耳をそちらへ向ける仕草をした。
「聴こえぬぞ?」と、フンと笑った。「お前の願いは、もう聞かぬ。何もしなかった己を恥じて、悔いながら、去れ。永遠の闇の中へな。」
どこで間違ったのだろう。
湊は、薄れていく視界の中で、思った。
遠く、ニャルラトホテプの高笑いが聴こえている中、湊は真っ暗な空間へと落ちて行った。




