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あれから、もう二年の時が経った。
湊の記憶も薄れ始め、何もない毎日にあれは夢だったのかもと思い始めていた。
美里から、時々に連絡が来て、まだニクラスがパンデミックの影響と仕事が忙しくて渡航出来ないので、大河達は仕事を請け負えていないのだそうだ。
あちらからも、待たせるので違う仕事を請け負ってくれ、時間が空いたら連絡をするし、その時にはそちらの予定に合わせる、と連絡が来ていたらしい。
ようは、アテにしないで待っていてくれということだ。
ニャルラトホテプも忙しいだろうし、気が向かないとこちらへ来ないのだろうから、あまりうるさくしたら何をされるか分からない。
なので湊は、わざともう仕事をくれないつもりかもしれないし、面倒がられたら連絡を絶たれるから、こっちから連絡するなと言ってくれ、と美里に言っておいた。
こちらとしては、忘れてくれるぐらいの方がいいのだ。
平穏な毎日に感謝しながら仕事をして、明日から休みだと今日も一人暮らしのアパートへとたどり着くと、美里からの着信があった。
また何を言って来たんだろうと画面をタッチした。
「もしもし?」
すると、美里の声がした。
『湊くん?仕事終わった?』
湊は、電話の手に頷く。
「ああ、今帰って来たとこ。どうした?」
美里は、困惑したような声で言う。
『それが、大河くんと理久くんに連絡がつかなくて。アプリで連絡入れても二人共既読もつかないの。大河くんからやっと仕事の受注が来たって連絡が来てからだから、一週間前から。忙しいのかなって放って置いたんだけど…私ね、あの人達が留守の時、仕事が休みだったらここの事務をアルバイトでやってるんだけど、今回留守にするからまた、ここに通ってメールチェックとかしてたわけ。普通は三日ぐらいで帰って来るし、今回もそんなものだと思ってた。何しろ、見積もりに行っただけだからね。』
湊は、顔をしかめた。
「メール見てるんなら、日数とか書いてないの?」
湊が言うと、美里は答えた。
『書いてない。というか、ニクラス教授関係のメールのやり取りが一切残ってないの。壁のホワイトボードには、一週間前の日付であちらへ出発、見積もりって書いてあって、住所のメモが貼り付けてあるだけ。施行日未定って。だから、そのまま何かやってるってことは無いと思うわ。だって、明日から別の仕事が入ってるのよ?そっちは点検整備って書いてあるから、いつものヤツだと思うけど、その会社からめっちゃメールが来てて、電話で連絡がつかないのでメールしました、至急電話でご連絡くださいって怒ってる。つまり、やっぱり連絡がつかないって事よね?』
湊は、考え込む顔をした。ということは、大河と理久はどっちにしろ一度帰って来るつもりだったのだ。
「…連休中は企業はいろんなメンテナンスを入れるからな。オレはたまたま今回受け持ちの企業が発注して来なかったから休みだけど、大河と理久にとってはかき入れ時なんだから、いつでもいいって言われてる屋敷のセキュリティなんかに今、時間をかけるはずないんだ。」
電話口では、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえて来た。
『どうしよう。湊くん、行ってくれないかな。明日の9時に現地に行く約束みたいなんだよね。このままじゃすっぽかしちゃうよ。』
湊は、ブンブンと首を振った。
「オレは理久たちと二年間話してないんだぞ?なんだってそんなフォローしなくちゃならないんだよ。それに、内容だって知らないし。勝手なことしたら、それこそヤバいじゃないか。本人達が行方不明だとか返事入れとけ。無事なら戻ってから自分達で何とかするだろうよ。」
無事なら、と、自分で言っておいて、湊は背筋がスッと寒くなった。
…そうだ。大河と理久は、ニクラス教授の…ニャルラトホテプの屋敷へ行ったのだ。
だが、全員で行ったわけでは無いし、そもそも湊はここに居て、何もなく無事なのだ。
美里が、暗い声で言った。
『あのさ…湊くん、悪い冗談だと思うよ。無事ならって。無事に決まってるじゃない。』と、息をついた。『メールしといた。従業員が事故で身動き取れないので、申し訳ありませんが日を改めさせてくださいって。退院したらこちらからお詫びに伺います、って。これなら向こうも何も言えないんじゃないかな。とにかく、世間は大型連休だし、私この住所に行って聞いて来るよ。』
湊は、慌てて言った。
「おい、一人で行ったら危ないって!二人からの連絡を待ったらいいじゃないか。」
美里は、フンと答えた。
『だから危ないって何?大丈夫よ、弥生が一緒に来てくれるから。あなたは精々家で楽にしてたら?』
湊は、必死に言った。
「君達が行く必要なんかない!やめとけって、ほんとに危ないんだよ!」
美里の声が、馬鹿にするように言った。
『なに?またニャル様?あなた、ほんとにそればっかりね。あれから二年も経ったのよ?まだそんなこと言ってるの?そもそもニクラス教授は、大概迷惑そうだったんだからね。でも大河くんと理久くんがしつこいから、仕方なくって感じだった。ニャル様だったら嬉々として呼んでるでしょうよ。もういい加減にして。私は行くわ。じゃあね。』
「美里さん…!」
ブツン、と電話は切れた。
湊は焦って何度もかけ直したが、美里は電源を切ってしまったのか、全く繋がらなくなってしまった。
「クソ!」
湊は行ってスマートフォンをベッドへと投げたが、このままではみんな居なくなってしまうかもしれない。
湊は思い直して急いでアプリを立ち上げ、住所を教えてくれ、オレも行く、と送った。
既読もつかず、美里は本当に怒っているらしい。
湊はイライラとスマホを握り締めたまま連絡を待ったが、全く反応がないまま、気が付くとそのまま、ベッドの上で眠ってしまっていたのだった。
次の日の朝、ハッと目を覚ました湊は、慌ててスマホを見た。
時間は、午前9時を回っている。
疲れていたのか、全く目覚めないまますっかり眠ってしまっていた。
着信が一件あって、急いで中を開けると、美里から住所のメモの写真が添付されてあり、それだけだった。
怒っているらしく、他に何の言葉も送って来ていなかった。
…関西。
湊は、急いで服を脱ぎ捨てるとシャワーへと駆け込み、出発の準備を始めた。もし、あの四人が何かに巻き込まれるのだとしたら、それは自分が、あの時ニャルラトホテプにあんなことを願ってしまったから…。
湊は思惑通りには絶対にさせない、と思いながら、ここ数年で買い集めたエルダーサインや輪頭十字の小物を身に着けて、懐中電灯やら水や食料、登山用のロープなど、探索に必要な物を集めてリュックサックに詰めて、覚悟を持って列車に飛び乗ったのだだった。
新幹線の中で食事を済ませた。
大型連休初日だったが、なんとかグリーン車なら一席確保出来たのはラッキーだった。
パンデミックも下火になって、皆旅行に出掛けるので、パンデミック前のようにどこも満席で、一時はどうなることかと思ったが、そこは本当に運が良かった。
この幸運が続きますように、と願いながら、湊は在来線に乗り換えて、送られて来た住所へと向かった。
最後にはバスで近くまでたどり着いたのだが、そこからは潮の香りがする町を、山へと向けて歩く形になった。
スマホで位置を確認しながら道なき道を登って行くと、やっと開けた場所まで出て、そこには轍の後がある、明らかに普段から車で通っている舗装されていない山道があった。
スマホの表示では、ここを道なりに行くとその場所のはずだ。
湊は汗を拭いながら、その道を上がって行った。
爽やかな風が吹き抜けて行くのが心地よく、そうやって30分ほど上がると、空が見えた。
…山頂?
湊が思って足を速めると、目の前には広々とした敷地が目に入り、向こうに大きな洋館が建っているのが見えた。
…あれだ。
湊は、ホッと足を止めた。
相変わらず綺麗に手入れされた感じの洋館で、特に何かおどろおどろしい感じはない。
しかし、前もそうだったので、湊は警戒を緩めなかった。
こんなところに侵入して来る人もいないのか、柵は全くなかった。
意を決して進んで行くと、森を出た所で左に広く海が見えた。
ここは高台になっていて、どうやらこの下は海のようだった。
洋館にたどり着く前に見て見ようと左に寄ると、下は断崖絶壁で、かなりの高さがあるのが分かった。
それでも脇の方には岩を削られた階段があり、落ちないように杭を立ててロープを這わせて捕まって下へと降りられるようになっている。
遥か下には、小さく申し訳程度の砂浜が見えるので、恐らくそこへ降りるためなのだと分かった。
それでもその砂浜は極々僅かで、両側は岩がゴツゴツと張り出していて、海側から来ようと思ったら船でなければ無理そうだった。
「湊くん?」
湊がそんな様子を見ていると、聞きなれた声が後ろから呼んだ。
ハッとして振り返ると、そこには弥生と、不貞腐れた顔の美里が立っていた。
「弥生さん!美里さん!」湊は、二人が無事なのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。二人とも、鞄を背負っている。「あれ、今着いたの?」
弥生は、頷いた。
「新幹線の指定席が取れなくてね。仕方ないから自由席で来て、途中までタクシーで登って来たの。ここまで来てもらおうとしたんだけど、ここは私有地だから勝手に入れないみたいで。下の林道の所に門があって閉じてたから、そこからは歩いて来た。湊くんはどうやって来たの?」
湊は、答えた。
「オレはうまいことグリーン車一席だけ取れて、後はバスで来て歩いて登って来たんだ。途中から林道に出たけど、そこまでは山の中だったから、門には気付かなかったな。」
美里が、疲れ切って言った。
「もうお昼もとっくに過ぎてるわ。お弁当買ってきておいて良かった。でも、先に中を確認するでしょ?別荘番の人とか居るんじゃない?」
こっちの連絡に答えなかったことに対しての言及はない。
湊は、言った。
「あのな、無謀なんだよ!二人きりで探しに来るなんて、なんかあったらどうするんだ!」
美里は、湊を睨んだ。
「何よ!せっかく私がそれを言わないであげたのに!だったら言わせてもらうけど、あなたあの人達を探そうって気があった?無かったじゃないの!行くなってそればかりで、心配もしてなかったじゃない!」
弥生が、急いで割り込んだ。
「ここで言い合っても仕方ないよ!湊くんは来てくれたんだし、煩く言うのはやめよう?後で話し合えばいいわ。ほら、行くよ。別荘番の人が居るかもなんでしょ?」
弥生は、強引にそう言うと、美里を押して洋館へと歩かせた。
湊もこれは後にしよう、と黙り込んで、二人に遅れて洋館へと向かった。