美しい、男。⑨
「なぁなぁなぁなぁなぁ」
「…なんべん言うたらわかんねん。俺の名前は『なぁ』とちゃう」
「…、てらもっちゃん」
「甘えんな、咲子」
勉強しているときの寺森は、いつも以上に冷たい。
寺森よりも冷たい風の2月。
山間部に校舎が位置していることもあり、外は雪がちらついていた。
しんとするだけの図書館。
ここは私のお気に入りの場所の一つだ。
「いまリーダーの訳してるんやん! おまえが宿題してきてへんのに、明日当たるからどうにかしろって言うたんやん!」
「ライブ、いこ?」
「…なんやそんなことか。ええよ」
寺森は彼女と別れていた。
寒い、2月。
「…なぁ、なんで寺森は別れたん?」
あんなに熱あげてたやん。いつも一緒に帰ってたやん。
「…なんか、面倒くさくなって」
「そぉいうもんよねぇ~、思春期って!」
「おまえも思春期やろ…」
「そやけど」
ふと、あのことを思い出した。
「なぁ、松永とあの子、まだ付き合ってるんやで?」
「…カムフラージュなんやろ。終わるもくそもないんやん」
「まあ…、せやけど」
図書室はしんとしていた。
誰も利用者はいない。
だって、そもそも、そんなに本がそろってない。おまけに校舎からちょっと離れた別館にある。不便な上になんだか暖房の効きもあまり良くない。なので生徒はあまり入り浸らない。
それをいいことに、私と寺森はよくここで勉強していた。というよりも、寺森に宿題をしてもらったり、勉強を教えてもらったり、していた。
図書司書の先生が私に苦笑の表情を向けて、人差し指を唇に当てる。他に生徒がいないからと言って、うるさくするのは違うよとたしなめられる。
ごめんなさい、と遠くから、ぺこりと頭をさげた。
「…先生に怒られた。寺森のせいや」
「いや、いまのは完全に咲子が悪い」
ぼそぼそと小声で悪態を付き合う私達は、なんてことのない日常を送っていた。
私は週末を除いてのんびりと奈良で過ごしているし、新婚生活なんてわずらわしいものもない。
夫の史希さんは、何年か我慢すると言った。
東京で働く男は毎日PCでメールをくれる。
こっちは雪だよ。
このあいだ演劇を見たよ。
新しくこんな仕事が始まったよ。
最後は、必ず「元気にしているかい」。
なんて献身的な夫だろうか。
不思議な新婚生活。
あるようでない、生活。
寺森とばかりつるんでいるわけでもない。
友達もたくさん出来たし、松永や広田とも時々しゃべる。けれど、美しい顔をした男二人は最近ライブの練習にいそしんで相手をしてくれないでいた。
自主制作で作ったというCDを貸してもらったけれど、なかなかよかった。
コピーバンドでもしてるんやろ、と思っていたけれど、とんでもない。全曲オリジナルで、広田や松永が曲や詞を書いているという。
それなりにきちんと設備の整ったところをお金を出して借りて、音の収録をしたんだと自慢していた。
「リブラ」
それがバンドの名前。聞けば、メンバー4人全員が寺森と同じ中学校出身だという。
中学のときに友達同士で組んだのが始まりらしい。
「卒業式にライブしてさ。それ、見てたんよ。みんな咲子好みのカオした連中の集まりやねんけど、よかったで」
そんなに音楽を聞かない寺森が言うのだから、リブラはきっと、いい曲を歌うのだろう。ライブに向けて私の期待値はあがっていた。
「パフォーマンスがな、なんていうか、ふつうの中学生じゃないっていうかな。派手な感じやったわ」
「…広田がどういう顔して歌うかが興味あんねん、私」
あの寺森以上の無表情が。
その顔に歌と伴う表情を浮かべるのだろうか。
そもそもMCしたりは? しないよね、絶対ね。
「….いや、いつもどおりあんま笑わんけど」
「やっぱり…」
「でも、…なんていうか、伝わってくるモンはあんで? 歌詞は全部、広田くんが書いてるって言ってたし」
「へぇ」
あの無表情が。
恋だの愛だの友情だの家族だの勇気だ希望だの歌を歌うんだろうか。まるで想像がつかなかった。
ぼそぼそ話をしていたあたしの視界に、雪のちらつく校庭を歩く男子生徒の姿が入り込む。図書館は校庭に面しているから、それが誰かはすぐにわかった。
「広田や」
広田は雪がちらつく曇天の下を静かに歩いている。目を凝らして見ると、口が少し動いているのが見て取れた。
「…広田くん、なにしてん?」
「さぁ? 歌って…る?」
「俺に聞くな」
確かに、広田は歌ってた。無表情で。
冷たい雪を、全身で受けて。
薄墨を溶かしたかのような空の下で。
寒いだろうに。指先まで凍りつきそうな風の中で。
ーーああ、綺麗やな。
雪みたいに白い肌に。黒い髪に。赤い唇に。
まるで、白雪姫。
一人で、校庭で、雪の中、何かを思って、歌う白雪姫。
…なぁ、松永のことどう思ってるん?
気づいてるん?
それとも、なんも気づいてないん?
なぁ。広田。
一人で歌う広田は、孤独であり孤高に見えた。重たいものを抱えていない人間は、雪の中わざわざ歌ったりしない。
広田はきっと、吐き出したいものがあって今、当たっているのだ。
なんとなく、そんな気がした。
私の勝手な思い上がりかもしれない。
「…ちょっと、広田んとこ行ってくるわ」
「…おい、俺にはリーダーの訳をやらしておいてか」
「シーッ静かに、寺森。後で戻ってくるから」
寺森は釈然といかない風だったが、少しだけの間だから、すぐ戻るから、と寺森を残して校庭に出た。
放課後の静けさは今日はいつも以上。雪が降るから、この時期はどの部活も室内で練習中。
校庭には、たた一人、広田だけがいて。
宙を仰いで目を閉じて、まるで空とお話しするように歌っていた。
どうしてそんなに綺麗なんだろうね。
きみは。
私は上履きのまま、肌にあたっては冷たさだけを残してすぐに消えていく雪の結晶を無視して、広田に駆け寄っていった。
広田は確かに、歌っていた。
アカペラで。
音程をしっかり取って、空に向けて声を上げてた。
「広田!」
「…、藤倉、なにやってん」
私の声に気づいて歌うのを途中でやめた広田は、瞼を開けるとゆっくりとこっちを見て、少し驚いたような顔をした。
歌に没頭していて、私が走ってきたところなんて気づかなかったのかもしれない。
「図書室から見えた。歌、うまいな」
「ライブ、来てくれるんやろ? けんいっちゃんが、喜んでた」
「喜んでたん? あいつ、可愛いヤツやな」
「チケット、売れて」
ガクっと、思わずわざとらしく肩を落とした。
ふ、と広田は笑った。
笑ったとき、目尻にしわができて、表情がおだやかになる。こんな表情を独り占めしてきたら、松永も惚れるよね、きっとね。
「…俺にな、歌ったらええやん、って言ったん、けんいっちゃんやねん」
ふと、いつもは少ないはずの口数をやぶって、広田は呟くように言った。さっきまで小さな花のように微笑んでいた顔は、もう無表情に戻っていた。
「カラオケで歌うくらいしか興味なかってんけどな。バンドやるし俺ギターやるし、おまえは歌ったらええやん、って。今は歌うことが楽しいねん。苦しいこともあるけど、…楽しいねん」
その無表情に、他人との間に完璧に引いた一線を感じた。広田のことをあまり知らない人なら、その話を聞いても、あっそう、と聞き流しただろう。
でも私には、ぴんときた。
ああ、この美しい男は、見せないだけでいろいろ背負ってきて、けれどそれを苦しいだなんて言えずに、どうしていいか困って迷って悩んできたのだ。
けれど、その黒くて重たい闇から、松永の差し出した手によって、すくわれたんだ。
そして、救われたんだ。
だから、ほら、そんな顔ができる。
そんな目をして、歌うことができる。
雪の中で。
「なぁ、藤倉。おまえ、けんいっちゃんのこと」
広田は私の顔をじっと見て、瞬きひとつせずに、雪が視界に紗をかける中、呟くように言った。
広田の言葉を全部聞く前に、気づいてしまった。
どうして私は、こんなにカンがいいのだろう。我ながら、すごいとさえ思ってしまった。
広田の私への問いかけは、全て聞き取らなくてもわかってしまったのだ。
「由樹ー!」
昇降口から松永の叫び声がして、広田ははっとして弾かれたように松永の方を見る。言葉は途中で遮られ、結局その先のセリフがなんだったのか、わからないままになった。
そして広田は、私の方を見て、自分が無意識のうちに口にしようとしていた言葉が何であったかということを自覚したのか、突然バツが悪そうに俯いた。なかったことにしてくれと、全身からオーラのように漂ってくる。
私は、降り注ぐ雪の中、ただ突っ立ってることしかできなかった。
広田の気持ちに気づいた。そしてそのことを広田もきっと、気づいたのだ。
「…ごめん、藤倉」
その「ごめん」は、何?
俺行くわ呼ばれてるから、の「ごめん」?
それともーーこんなこと言って「ごめん」?
手の甲で雪を避けるようにして歩いていく広田の背中を、私はずっと見ていた。
たとえ二人が互いを好きあってても。
ただ前進することしか知らない純粋な恋愛みたいにはいかないこと。そこには、雪みたいな儚さしかないような気がした。
だって、広田、あなたがいま歌ってた歌は、報われない恋の歌だったから。
* * *
なんやろな。こういうのを、天才っていうのんと、ちゃうのん?
神様は理不尽だ。全ての人に同じような才能を与えず、何が平等か。
ステージの上で、マイクを握りしめて力の限り歌う広田は、普段とはまるで別人みたいだった。
あいかわらずの無表情。
けれど、足りない表情の数だけ、言葉は歌と表現になって狭い箱に満たされた。
設備がいいのか、PAスタッフの腕がいいのかはわからないけれど、狭い箱にしては音は割れることもなく、ギターやベースやドラムの爆音に重なる広田の声は、孤高の人のそれだった。
隣の寺森も、一度は彼らのライブを見たことがある、と言っていたけれど、そこからずいぶんな成長をとげたらしい「リブラ」。
広田だけじゃない。
素人目で見ても、メンバーの腕も確かだった。
これはいずれ、モンターレベルのバンドの扱いを受けるんじゃないかとさえ思えた。
オーディエンスは、友達やら松永の取り巻き女やらで身内ばかりだと勝手に思ってた私は、その客層にも驚いた。
一般人、ごろごろおるやん。しかも、あの後ろの着崩したスーツの男性とか…、あきらか「ギョーカイ人」ちゃうの…。
私の夫の母、つまり史希さんのお母さんは、私のお母さんの「事務所」の社長である。
寺森にすら黙ってるけれど、私のお母さんは俳優だ。
お母さんは私を身篭ると、妊娠も出産も周りに伏せて、未婚で私を産んだ。けれど、お母さんはそのことは公表しなかった。
今もテレビや舞台で活躍する「花潟尚子」に子どもがいるなんて、誰もが知らない。
知っているのは、史希さんの家族だけ。
史希さんのお母さんが社長をしている「事務所」というのは「芸能事務所」のことである。
要は、私は幼い頃から「芸能界」とか「演劇の世界」とか、いわゆる「業界」を少しは知っている子供だった。そして、そういう空気を出してる大人は臭う。ピンとくる。
スカウトかな。様子を見にきただけ?
どのみちもう、この界隈では話題になるレベルの実力を持ったバンドということだ。
アカペラで歌う広田の声を聞いたときに、気づくべきだった。広田のその感情の発露が、安定した音程と人間離れした声量で爆ぜていた。
これは、「ホンモノ」だ。
照明に照らし出される広田の顔は、汗に濡れていて美しかった。
こんな小さなライブハウスでも、リブラは他のバンドに比べて別格に見える。
高校生の文化祭程度のバンドだと思っていた自分に絶望した。
狂ったようにギターをかき鳴らす松永からは、いつものようなチャラチャラした適当な雰囲気は漂ってこないし、冷静なベーシストは空気に飲み込まれることなくリズムを丁寧に刻んでいく。
空中に汗を散らしてドラマーは腕を振り下ろし武骨な音を奏で、広田はモニターに足をかけて、その声で伝えたいことを表現した。
いつもは口に出さない広田の本音がいま、音になって、旋律になって、私に届いた。
ふだん吐き出されない感情は今、まるで火の玉のようになって、低い音から高い音へと、流れに乗って吐き出された。
我々は、それを受け止めることもできず、ただ聴いて呆然とするしかない。
すごいな。
曲と曲の間で寺森が、心の底から、といった様子で呟いた。
広田の書く詞は、高校生にはおおよそ理解できないようなものだった。
死んだの死にたいだの堕胎だの殺されただの。ただの思春期の揺らぎが書く「絶望」ではなかった。それは、広田自身が抱える闇なんだろうか。
誰も理解できない闇。
けれどそれを、松永だけが吐き出せって言ったから、いま広田は歌にして吐き出してる。
美しい、闇だ。
広田の声が涙に濡れてるそのわけを、ここに来ている何人の人間がわかってるんだろう?
その世界観に合わせて、目の周りを黒く塗った化粧。ビジュアル系、にも近いのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。なんなのかもう、わからない。
カテゴライズなんて、そもそも必要としてないのかも知れない。
線引きも、カテゴライズも、協調性も嫌がる年頃の、反抗にも似た感情がそのまま具現化したような、バンドと音。広田の言葉。
どこか共感できるけど、別にオーディエンスの共感なんて欲しいと思ってないやろな、広田は。
ただ、吐き出すことで楽になれる。
そういって、あんたの目は歌ってる。
こんな音、知らなかった。私は、少なくとも、今日まで。
ファンの歓声と、沸き起こる拍手。
総勢200名いるかいないかのオーディエンス。
それでも、これだけ人を集めるってスゴイ。
芝居を本格的に始めた私にはわかる。
身内だけでもチケットを買わせて200も集めるなんて、かなり大変で労力もいることを。
それをけろりとやってのけてるのだ。きっと、それが偉業だってことも、知らないのかも知れない。本人たちが、分かっていないのかも知れない。
夢うつつのまま、耳元で死ねと囁き続けるような、甘美な毒に似た空間。
それが、リブラが作り出す音楽だった。
しびれる。心の芯が。
* * *
茫然自失。
って、こういうことを言うんやな。
と、ふと思ったらなんだかおかしくなってきて、一人でふふっと笑ってしまった。
ライブ後の電車の中。
奈良方面へ、暗闇をライトで切り裂き、電車は進む。
リブラのライブでは、広田の心の一番弱いところを、目の前で生々しく開胸された気がした。
毒々しいまでの人間の本性を目の当たりにしたような気にもなった。
汚いも美しいも、同時に存在していた。
そして、わかった。
私、こういう芝居がやりたかったんだ、ということに。
だから、すごいものを見せてもらった、という感情とともに押し寄せたのは「嫉妬」だった。
人間の狂気も、穢れた面も、美しい面も、涙が出るくらい優しいところも、息を呑むくらい汚いところも。そういう生々しい狂気を、表現したい。
私の具現化したがる全てを、すでにリブラは形にしてた。だから、正直に言って、悔しかった。
ライブの後で楽屋寄って顔見せついでにちょっと茶化したろ、とか色々考えていたことが全部ふっとんだ。
嘔吐しそうな気持ち悪さをおさえて、疲弊して、なかば寺森に寄りかかって電車に乗った。
「なに笑ってんの…」
一人で思い出したように笑った私がきみ悪かったのか、寺森がこっちを見る。
「いや…なんやろな、アレ、と思って。あのバンド…あれ、なに? なんか、すごいモン、見たやんな…?」
夜の田舎の単線は、大阪からベッドタウンへの帰路につく、疲れたサラリーマンであふれていた。
どうにか椅子に座ることにありつけた私と寺森は、人数の割には静かな車内で、こそこそと話しをした。
ガタンゴトンという電車の枕木を蹴る音でさえ、まぬけに聞こえた。あんな音を聴いたあとじゃ。
「…俺、前に見たとき、あんなんちゃうかったんよ。コピーバンドみたいな感じやったし」
「…寺森も、わかるやんな?」
「なんとなくな。咲子の言いたいこと、わかる気はする」
「ああいうのを、私は目指してたん。先にやられたって感じやわ」
「芝居?」
「そう…。やられた。少なくとも、同い年の人間にこの感情がわかるとは思わへんかってん。だから…なんか悔しいん」
自分で背伸びしているつもりはあった。
高校生がやるには少し大人びた芝居と表現を目指してる自覚はあった。
だけど、広田は、気づいてた。
そして広田は歌でそれを表現した。
彼ら、リブラは音でそれを表現した。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
電車の枕木を蹴る音が、やけに大きく聴こえる。
広田は歌った。この世界には、現実しかなんだ、と。突きつけられたものこそ、飲み込むべきものなんだ、と。
ただ、優しくなれないだけで。
…そんな歌を、16歳や17歳が歌うなんて。
美しすぎる闇を、表現するなんて。