美しい、男。⑧
男は、その美貌に神妙さをたたえて、あたしの名を呼んだ。
どことなく本意ではない顔をしていた。
「…藤倉」
あれから私には距離を置いていた松永だったけれど、年があけて、2年生になるかならないかのころ、昇降口で声をかけられた。
「…なん? 珍しいやん、声かけてくるなんて」
彼女も取り巻きもつれていない。だけど、相変わらず乱れた制服とぺったんこの鞄。
変わったのは、背中に背負ったギター。
ケースに入れられて大事に背負われている。
軽音楽部だったんだそうだ。寺森から聞いた。と言っても部活も出たり出なかったりでほとんど自主活動状態らしい。
中学の時からギターをやっていたけど、最近になって本格的にやりだしたと広田からも聞いていた。そういう広田は、歌をやっているらしい。
中学の文化祭で、広田と松永と他に同級生の男の子で4人組のバンドを組んで、それ以来、バンド活動をしているらしかった。
「あんな…ライブやるんやけど、…チケット買わへん?」
やけに真面目な表情で近づいてくるから、何かと思ったら。ライブのチケットを買え、と。
思わず、その必死な感じに面白くなって吹き出してしまった。
だって、おかしいやん。
ムカツクとか言われてそのままちょっとぎくしゃくしたのに、チケット売るのに必死で話しかけてくるなんて。そんな切羽詰まった顔をして。
「あ、ははははは!」
「なん! なに、笑ってんねん!」
「だって…あは、はは、はあ…あまりに真剣なカオして…近づいてくる…しっ、ひっ、ひひ、ははは」
「変な笑い方すんな!」
「あー、お腹苦しい! 殺されるんかと思ったわ」
「アホか! そんなキャラちゃうわ! それにもうムカついてへんわ!」
顔を真っ赤にして叫ぶところとか、面白い。
いつもは常に目を細めて斜めを睨み、周囲に威嚇しまくって、ふーふーいってる野良の猫みたいな男なのに。
「あー、苦しかった…。で、いつすんの? 広田とのバンドやろ?」
「あ、うん、これやねんけど」
「てゆうか、切り替え早すぎやろ。怒ってたのとちがうの?」
「…ムカツいたけどな…、まぁ、ほんまのことやし」
と、潔く広田への想いを認めた。
「内緒にしといてや。藤倉」
「…信用ないな、私」
「だって…、あんま人に知られたいこととちゃうやろ?」
そりゃそうだ。
ましてや、想い人は同性でそして親友。
「しょーがないなぁ、じゃあギブアンドテイクで、私の秘密、教えるわ。寺森しかしらんねんで。これでフェアやろ?」
にやりと笑えば、ギブアンドテイクという言葉に首をひねる松永。
ちょっとおバカで可愛いな。ふだんはツンツンしてピリピリして男前オーラ全開なのに。
周囲に誰もいないことを確認してから、松永に告げた。
「私な、結婚してんねん。半年前に」
「は!? カズと!?」
「なんでそうなんの。男は18からしか結婚できひんわ…やっぱりおバカやな…」
「あ、そか。…おバカ言うな」
「でも、隠してんの。知られたくないねん。ネタにされたくないから。わかるやろ? 興味本位で騒ぎ立てられることで、悪意がなくても傷つくこともあるから」
私はそういって、松永の目をじっと見たまま、長袖のシャツの袖をまくり、左の手首を松永の目の前に差し出した。
「私がわざわざ遠いところから通ってる理由は、これやから」
傷跡の意味をすぐにわかって、松永は息を呑んだ。
「悪意しかないイジメってやつに耐えられへんかってん。もう、笑い話やけどな」
敢えて、爽快に笑ってみせる。
本心は、これを誰かに見せる気分じゃない。
まだ、2年もたってないから。だから真夏日だろうがなんだろうが、私は長袖のシャツしか着ないし着れない。
私がこれをわざわざ松永に見せるのは、松永の傷口に触れた私の罰だから。
「…俺のも…笑い話になるかな、いつか」
松永は、本当に時々見せる泣きそうな顔をした。
広田を想った時だけ、その美しい顔は涙色に染まる。それを格別に美しい人間の顔だと思ってしまう私はおかしいのかもしれない。
人が人を想う時、人間はこんなにも美しい顔をするのかと、思ってしまう。
「幸せな笑い話に、なったらええよね?」
涙色を払拭するために、力強く私は笑った。
どうか、幸せな笑い話になりますように。
どうか。
自分のことじゃないのに祈ってる。
「で、チケットは? 買わなくてもええん?」
シャツの袖のボタンを止めながら言った私に、はっとして松永は顔をあげた。
「買ってくれるん?」
「うん、見に行きたい。広田が歌うんやろ?」
「…ちょお、待て。おまえ本気で由樹が好きやとか、そんなこと」
「さっきの話聞いてへんかったんか…、松永は」
「あ、そか、結婚しとるんか」
なんで高校生って、惚れたの腫れたのにしか興味ないんやろ。
「大阪でやるし。来てな」
チケットの代金を受け取ると、松永はいつもの特定の人にしか見せない懐こい笑顔で笑って、手を振って去っていった。
昇降口を出たところには、広田が無表情で突っ立っていた。
松永を、待ってたらしいが急かすこともせず、ぼんやり正門の外を見て待ってたらしい。そういうところが実に「広田っぽい」。
…私の勘違いじゃなければ、広田も松永のことが好きなんじゃないかな、とは思うんだけど。広田は無表情すぎてさすがにわからない。
「咲子?」
去っていく二人をぼんやり見ていたら、ふと背後から寺森に声をかけられた。
「あ、委員会終わったん? 寺森」
「うん。彼女が待ってんねん、急ぐわ」
「んー、おつかれさん」
最近、寺森にも彼女ができた。だから、ちょっと自重はしている。
私の夫である人は東京にいる。
高校卒業後は関西の大学に行きたいから、大学卒業までは別居婚の約束で生活している。
惚れた腫れたがそこにあって大恋愛の末に結婚をしたわけじゃない。私の家庭に諸事情があって、うちの苗字を残すために、そして家族がいずれいなくなるであろう私に家族を作るために結婚してくれたようなものなのだ。
兄のように幼い頃から慕ってきた人間が夫となった。それだけなのだけれど。
「なんか寂しくなった…史希さん呼ぼっと…」
電話一本で東京からかけつける夫に電話しようとか、余計なことを独り言ちた。
呟きは落日に溶けて消えていった。