美しい、男。⑥
ずっと昔から、そして環境が変わっても、俺と由樹はいい距離を保ていた。
由樹がそういう性格だからなのかもしれないし、俺が勝手にそう思っていただけかもしれない。
無事に同じ高校に入れたけど、クラスは違う。でも、バンド活動だの、学校の行き帰りだので、それとなく隣にはいて、かと言っていつも一緒というわけでもなく、それぞれに友達もいた。それを「適度な距離感」だと、俺は思っていた。
由樹があけてくれたピアスホールもしっかりと安定してきた頃、俺はあまりにも寝不足で保健室にいた。
ずっと譜面と睨めっこしてて、寝るタイミング逃しただけだけれど、高校は中学校と違って出席でさえも単位の一部になるから、とりあえず、出ないと…。と、思ったところまでは自分を褒めてやりたい。
けれど、あまりに眠かったのだ。
「せんせー、頭いたいっすー」
「松永…またか。寝不足やろ」
「…よくわかったっすね」
「おとなしい寝てなさい」
保健室の先生は俺のおかんと同じ年くらい。
こういう高校生を今まで生徒をうまく扱ってきたのがわかる。俺みたいな、このガッコじゃ「不良」「ヤンキー」にカテゴライズされるような、いい加減な奴のあしらい方も手馴れてる。
「寝てもいいけど、1時間だけやで」
養護教諭に念を押されて、はいはいと生返事でベッドに横になる。
世界史は出席ヤバイしなぁ。1時間だけ寝たら復活しよ。
糊の効いた枕に顔をうずめた。
外はまだ騒がしい。
チャイム、はよ鳴らへんかな。
ガラ、と扉が開く音がした。
また客や、とまどろみながら思ってたら。
「…頭、痛いんですけど」
聞き覚えがあるなんてモンじゃなかった。由樹の声だ。由樹も寝不足なんやろな。
だって、もうすぐ高校生んなって初めてのライブするって決めたのに、目標にしてた分の曲ができてへんねんもん。
なんや一緒か、なんて思ってたら隣からシャッとカーテンの引く音がして、すぐに、どさっと人が転がる音がした。
あ、寝た。
見なくてもわかった。
そっと隣のカーテンを開けてみる。バレたら、保健の先生にどやされるだろう。
「…もう寝てる…」
案の定やな、と俺はしのび笑った。
由樹はどこでもすぐに寝る。寝つきがとにかく良くて、寝起きがとにかく悪い。
寝るのが大好きで、寝たらしばらくは起きない。基本的にいつも遅刻気味だ。その理由は「寝てたから」「眠いから」「二度寝したから」。
仮面優等生なので学校は決して遅刻しないけれど、遊びに行くときはだいたい俺が待たされた。
「…よしくーん」
先生にバレないように小声で呼ぶけれど、返って来るのは規則正しい寝息だけ。
俺の気配も無視。無防備すぎるわ。
俺は裸足のままカーテンの向こう側にそっと降りた。
「よしくん…。由樹」
呼んでみて、反応はなかった。由樹の額にそっと指をおいた。だけどやっぱり、由樹は身動ぎもしなかった。
静かに閉じられた、まぶた。
白い肌に、黒いまつげ。
左目の下の、ほくろ。
こいつは、どんどん色っぽくなる。
フェロモンみたいなのを垂れ流してんのか、って思うくらい。
だから俺は、時々、どうしようもなくなる。
抑えてたもの、見えないフリしてたものが堰を切って溢れ出しそうになる。
どうしようか。
このまま、おかしくなって、他人の目も気にせず、ただこいつだけを求めたくなったら。
そうなったら、俺はどうしたら、いいんやろな。
好きや。好きなん。
ただ、それだけやねんけどな。
別に俺、悪いことしてるつもりないんやけどな。
でも、なんか神様はいじわるやってん。
だって、もうわかってる。
この恋は、どうやったってむくわれへんのやろう?
好きや。
好き。
なんで。なんで?
伝えることもかなわへんのかな。
なんで。なんで?
なんでおまえ、なんで俺。男やねん。意味わからんわ。
こんな綺麗な顔して、こんな可愛い顔して男とか。意味わからんわ。
由樹は少しも動かず、まつげすら動かず、ただシーツのかかった胸元が小さく上下しているだけだった。
少し強引に由樹の前髪をあげてみたけど、起きる気配すらない。
なぁ。
一瞬だけでいいねん。
好きって伝えて、いい?
泣きそう、やった。この気持ちに気づいたときから、知らないフリをするのが得意になってたのに。でも、どうやっても、突きつけられる「現実」ってやつに、くじけそうになる。
歯を、食いしばった。
目頭が、熱かったから。
このまま泣いてしまいそうだった。涙が由樹に降り注ぎそうだった。
そのまま、吸い寄せられるように、由樹の唇に自分の唇を重ねてみた。
暖かさは余計に、俺の気持ちを虚しくした。
「…っ!」
寝ている由樹に勝手にキスをしたことより、こんなことしかできない自分にとてつもなく悲しくなった。
我に返ったようにすぐに自分のベッドに戻って、虚無感とか羞恥心とかを断ち切ろうとするかのように布団にもぐりこむ。
情けない話だけれど、少し泣いた。
耐えきれなかった涙が何粒か、シーツを濡らした。
カーテン越しに、向こうに、由樹がいるのに。好きやって、伝えることも、できひんのか。ただ黙って勝手にキスして虚しくなって泣くだけか。
由樹にあけてもらった左耳のピアスが、ズキズキと突然痛みを訴えた気がした。
気のせいだ。もう半年以上前に開けた。
痛みなんてあるはずがない。
これは、きっと心のーー痛みだ。
…告白もせんうちから、失恋なんて、ほんましょうもないわ…。
* * *
文化祭の委員とやらになったと由樹が言うから、俺も同じものに立候補した。
クラスの女達は「えー、そんなんやるキャラと違うやん」とかケラケラ笑ってた。
だってなんかやらんとあかんねんやろ? お花係とか、イヤやで、俺。とふざけて返事して、ちゃっかり文化委員に選出された。
そして、その委員会で、変な女と知り合った。藤倉咲子という、女と。
ちっちゃくて、ストレートの長い髪をゆらゆらさせて、いつもふわふわ歩いてるくせに、真剣なことになるとすごい目力を使う女。
きちんと前に通る、説得力を持つ声の女。そのくせ、初めの頃はちょっと俺にビビってた、面白い奴。
不思議なオーラ全開のその女は、まだ残暑も厳しく当然ながら夏服の時期なのに、長袖を着てた。何かを隠すように。
女の存在は知ってた。寺森和という中学からの友達がいて、その友達とよくつるんでるなあ、と思って見ていたことがあったからだ。
寺森和は由樹とも知り合いなので、藤倉との共通の話題になった。
藤倉は、どの女とも少し違った。
俺の周りにある女のような、媚びるようなしゃべり方とか、女じみたしゃべり方はしない。
言葉遣いが荒いからやろか、と由樹に言ったら「力強いんやろ」と言っていた。由樹の言う通りだと思った。
藤倉は、どうでもいいときはふわふわへらへらと笑ってるのに、ここぞという時はぴしゃりと言い放つ、その潔さがそこらの男より、ずっとかっこよくて、男前だった。
「藤倉~!」
そのふわふわした姿を見つけたから、大声で呼ぶと、露骨に嫌そうな顔をする。
それがおもしろくて、俺は大袈裟に手を振って見せた。
「あんまり大声で呼ばんといてくれへん?」
嫌や。
おもろいもん、おまえのカオ。
「広田んとこ、行ってくる」
女は、毅然とした表情で、言った。
少し苛立っているように見えたけれど、なぜ苛立っているのかまではわからなかった。
は? なんで? と、そう言った俺に、
「私、広田んこと」
と、言った。
力強い、目で。
俺をまっすぐに見つめて。
重力のある声が、俺にのしかかるように響いた。私、広田んこと。
その、先は?
あかん。と本能的に思った。
その先のセリフは何故だか容易に想像がついた。
私、広田んこと「好きやねん」。じゃないのか?
あかん。由樹は。俺の。
俺だって、伝えてへんのに。なんで。
おまえ、女っていうだけで。なんで。
「おまえ、もしかして由樹んこと…」
聞きたくないのに、聞いてしまうほかなかった。だって、目の前にあった藤倉の目は、本気の色を宿していた。
「好き」
藤倉がはなった二言で、俺は全身の血の気が、一気にひいた。そして次の瞬間にはそれが怒りになって、全身の血が逆流するかのように沸騰するかのように熱くなって煮えたぎって体の隅々まで行き渡るのを感じた。震えた。なんでやねんって、そればっかりで頭の中が支配された。
おまえなんて、ついこないだ由樹と出会ったばっかりやん。俺は。俺はずっと。
由樹を見てきたのに。
でも、伝えることすらかなわなくて。
伝えたら、どうなるかなんて、わかってるのに。
でも、由樹はどんどんかっこよくなって、可愛くなって。変なフェロモン垂れ流して。
それに当てられて俺はどんどん正気でいられなくなる。
かと言って群がってくる女を適当にあしらってたら、変な憶測すら立ち始めるのを感じて、カムフラージュにと害のなさそうな子を選んで適当に遊んでみた。
けれど、結局のところその行き場のない感情が解消されるわけはなかった。
最初からそれもわかってた。わかってて、付き合った。変に勘ぐられるよりは、まだマシだって自分を騙して。
彼女と由樹を比べては、由樹のほうが可愛いなとか、由樹の反応の方がええな、とかそんなんばかり考えてしまう。
傷つきたくないねん。
傷つけたくもないねん。
だって、「好き」って俺が言ったらどうなるん? その瞬間に2人の関係にピリオド打つしかないんとちがうん?
藤倉の顔をまじまじと見た。手先が震えてたかもしれない。
自分がどんな顔をしてるのか、わからなかった。ただ、藤倉は、まっすぐに、俺を見てた。
その目の、力強さ。
どこから、来てるんだろうか。
俺も、おまえみたいに、なれたらいいな。
女でいて、強くあって、由樹のことが好きだとはっきり言葉にできたらいいのにな。
「…広田のことが好き。ーーなのは、あんたやろ、松永」
俺は一瞬にして、その場に倒れそうになった。昏倒しそうで、ただ、冷静にと自分に言い聞かせる他なかった。
どこまでも、振り回される、この女に。
なんで、バレたんやろ。
この女の、目が力強いから? わからへん。
なんで。なんで。なんで?
「なに、言って…」
笑うのが精一杯やったけど、実際は笑えてなんかいなかったと思う。
「見てたらわかるんよ。ごめん、カマかけるようなことして」
「んな…わけ、ないやん。何言ってんの。俺、彼女おんねんで…」
「彼女な…、あれ、フェイクやろ」
なんで。そこまで藤倉がわかるんだろうか。
なのになんで、由樹には届かないんだろう。
届いたところで困らせるだけなのだろうけれど。
「な…んやねん、おまえ…、ムカツクな!」
掴んでいた腕を払った。
女の子にするには、ちょっと乱暴だったけれど、自制はきかなかった。
ムカツクって、何にムカついてるのかわからなかった。
藤倉じゃない。少なくとも、藤倉じゃない。
だって実は少し安心した。
こいつにならーー藤倉になら、本当に苦しくなったとき、相談できるじゃないかな、とか、そこは冷静に思ってしまったから。
一人で抱えるには、ただただ辛かったのかもしれない。少しの希望にすら感じた。
苛立ち腹が立ったのはきっと、自分に。
フェイクの彼女を作って、それで満足してる、自分に。
本当は苦しい。苦しい、苦しい。切り裂かれそうな心が毎日悲鳴をあげてるけれど、それを無視して生きている。
なんでやろう。なんで俺は男なんやろ。
なんで由樹は女じゃなかったんやろ。
なんで俺は心を伝えることもできないんやろ。なんで気持ちを伝えたら関係が終わってしまうんやろ。なんでなんで。
そればっかり考えてる。
だって、由樹がーー。
いつもは無表情やのに、俺としゃべってる時だけ笑ったりする。
いつもは「眠い」とか「ん、あっそ」とか、そんなんばっかりやのに、俺には「けんいっちゃん」って言って、昔のままの呼び方で、「なあ、あのCD聞いた?」とか話しかけてきたり、する。
それだけで俺は嬉しい。
救われた気持ちにすらなる。
由樹にとって、俺はどこらへんにいんの?
絶望的な中に、ちっちゃい可能性見出してもいいわけ?
もう、ぐちゃぐちゃだった。心の中が。
朝起きて、ふっと「あー、もう好きやって言おうか。もう親友関係砕けてバンドも解散やけど、まあええわ」って思うときとかある。
それで意を決したつもりで登校したものの、由樹の顔見たら足がすくむ。
「やっぱり黙ってるべきやな」って思ってるときに限って、由樹と一緒に帰ることになったりして、それでニコニコ笑って俺を見上げて「な、おもろいやろ?」とか言う。
キス、とか、したい。
抱きしめて、俺のモンや、っていいたい。
その先も、ずっと想像してる。
想像して、一人で夜な夜な何してるか、知らんやろ? 由樹。
女も抱ける俺が、おまえを想像して、頭のなかではおまえのこと、むちゃくちゃにしてる。俺は最低で最悪な男だ。
そんなふうに心の中がぐちゃぐちゃに散らかっていて、余裕がなかった。
だから俺は、見抜いた藤倉に八つ当たりしたのだ。だってもう、バラバラになってしまいそう。
中空で分解してしまいそう。
「何もかも自然体でちょっとチャラチャラしてる松永謙一」という人間の裏側に、自分でもコントロールの効かない自分を飼いならすことのしんどさに、自分が壊れてしまいそう。
不安定に揺らぐ自分の足元の不確かさに、俺は自分で自分に腹を立ててそして自滅しているのだ。
藤倉はずっと俺の背中を見ていた。視線を感じながら俺は、己の情けなさへの憤慨に歩幅が大きくなるのを感じながらも大股で歩いて、その場を後にした。