美しい、男。②
「A組の広田くんやで、あれ」
寺森は私の視線の先を確認して、そう教えてくれた。
この高校に入学してすぐに仲良くなったのが寺森和だった。
藤倉咲子と寺森和。50音順に並べられた出席番号自体は遠かったけれど、番号順に並べられた席ではたまたま隣同士になった。
好きなバンドだか好きな漫画だか。何がきっかけだったか忘れたけれど、気がついたら仲良くなっていた。
高校に入って友達はそれなりに出来たけれど、寺森と一緒にいるときが一番おもしろい。ウマが合うとか空気が合うとか、そういうのだと思う。
だから、あの2人はデキてるんじゃないか? と幼い推測がクラス内に飛び交っているが、それはみんなの想像力があまりにも豊かすぎるんだと思う。私は寺森に対して、恋愛感情を抱いたことなんて一度もないのだ。
「まったく。旦那がおるのに、イケメンやイイ男や美形や、ってソレばっかりやんな、咲子は」
寺森が少しだけトーンを抑えた声で言った。
ええ、旦那がいるんです。ついこの前の7月に籍を入れた、美しい顔をした年上の旦那が。
だから、寺森が知的な男前でも、少しも心が揺さぶられない。そしてこの審美眼は、ただの趣味だ。
「あんまり大声で言わんでよ、てらもっちゃん。てらもっちゃんにやから、話したんやで?」
「…わかってるって、咲子。ごめん」
冗談めかしてたしなめたのに、本気で謝る寺森を見るのが面白くて、少し怒ったフリをしてみたり。
だけど、ちっちゃなスキャンダルも私にとっては命取りのトラウマでしかなく、入籍していることを誰かれ構わず話そうとは思っていない。このことを知っているのは、学生では寺森だけ。
16歳で結婚してるなんて、下世話で無責任な話のネタになるだけだ。
寺森は寡黙で、付き合いのある人間もごく狭い。何より他人に他人のことをべらべら喋ったりしない。だから、教えた。
「これは趣味なん。いい男とかいい女とか見たらなぁ、ああー! プロデュースしたい、って思うやん」
「…何様じゃ、おまえ」
「藤倉咲子様」
「…」
言い返す気力もなさそうに受け流されたけれど、
「で、なになに、広田くんっていうん? なんで知ってるん、寺森」
食い気味に話を継いでみた。
「なんでって…同じ中学校やもん」
「あ、そうか、地元やもんな」
私と同じ中学校の人間は、ここにはいない。
だって調べつくしてここ受験したんやもん。同じ中学校の人間が誰一人としてこの高校を志望してないということを徹底的に調べて。それは、自分の中の目を背けたい醜い過去に別れを告げるために。
そのためには、偏差値65だろうが、苦じゃなかった。勉強をすれば偏差値はどうにかなるのだから。
そして、通学時間1時間以上費やして、あたしはこの高校に通っている。
そこまでして15歳までの記憶を捨ててしまいたかったのだ。私にとってはもう不要な過去。
「でも…背は低いねんな、広田くん」
おまえのタイプじゃないやろ? と寺森があたしを見下ろしてくる。
確かに。165センチ…くらいか?
私のほうが、ちっちゃいけどさ。
でも、男の子はここから伸びるからなぁ。
旦那の史希さんも、高校生くらいまではちっちゃかったのに、急に伸びたもん。
「美しければオッケー。友達になってこよっと」
「え、ちょ、咲子、おまえ…」
寺森が止めるのも聞かずに、私は廊下を駆け出した。
すたすたと一人で歩いていく広田を追いかける。彼には「淡々と」という言葉がとても似合う。
飾り気もなければ、誰かに見られているという意識もあまりない。自然のまま、たゆたうように。
まじりっけのない、白さに似た。
ただ、仲良くなりたい。
あの、美しい男と。
下心はない。あの、遠くを見ている目が一体誰をーーまたは何を見ているのか、気になるだけ。
それだけ考えて、私は広田の、白いシャツの背中を追いかけていた。
広田はまだ残暑の厳しい9月の日差しをよけるようにして廊下を歩いていた。
休み時間の喧騒を、拒絶するような美しさ。
16歳でこれやったら…、大人になったらとんでもない美人さんになるんやろか、とか考えながら、私は広田の背中を追いかけていた。
どうやって声かけようかな。
クラスが違うし、そもそもコースが違う。
私は理系の特別進学コース。
卒業者のほとんどが国公立大学とか有名一流私立大学に進学するクラスで、頭の悪い私にはなかなかヘヴィなコースだけど、クラス替えがなくて3年間同じクラスというのが気に入って選んで猛勉強した。
クラス替えがないのは、クラスの雰囲気が馴れ合って家族みたいになってしまう、ということを意味している。
それに、特進コースということは、みんなオベンキョウにしか興味がないってことで、当然イジメなんて低俗なことに時間をかけるような輩も少ないだろうと考えての選択。
あたしの読みは間違ってなかった。
居心地のいい、空気みたいな雰囲気のクラスだった。ここでならあたしは息ができる。入学して少しして、あたしは心底安心したものだった。
A組は標準コースの文系。
スポーツに情熱を燃やす子がいれば、短大や専門学校への進学者も多い。いわば勉強もスポーツも恋も趣味も、のコース。
でも、広田からはスポーツのにおいはしない。
真面目そうで、でもどこか、危険な感じ。
ひ弱そうで、勉強もするけど直射日光とか勘弁って感じ。
でもって、あったかい家族がいるのに、影で煙草吸っちゃってる、そんな感じ。
広田は1階まで降りてって、保健室の前までくると、そのまま保健室に入っていった。
私は健康体なので、保健室に拒絶されているような気がして、さすがにそこまでは追いかけられなかった。
「逃した獲物は大きい…」
一人でぼやきながら、保健室の前をぐるぐるしていると、後ろから寺森が追いついてきて、にやにや笑っている。
「そこで保健室まで入ろうとしないところが咲子やな」
「どぉゆうこと…」
バカにされてる気がして、冗談めかして斜めから視線を送ってみる。
白いシャツの照り返しと笑顔で眩しい寺森は、まぁそう怒らんと、と私の肩を叩いた。
「購買でジュースでも買ってかえろ。もうチャイム鳴るで?」
「…寺森がおごってくれるなら」
「なんでやねん」
「なんでも」
「あー、ハイハイ」
「さすがええとこのボンやなぁ」
寺森の実家が開業医というのはクラスでも有名な話。
でも寺森は、経済学に興味があるらしい。
なんで理系に来たんや、ってつっこんでも、答えてくれへん。
彼の背中にのっかった見えそうで見えない「親の期待」に後で気がついて、それ以来私は何も言わないようにしている。本当は医学部に行けという無言の圧力があるのかも知れなかった。
購買に行くにはこっちの方が近道だと言われて、私と寺森はあまり生徒が通らない中庭のはずれを無理やりつっきった。
上履きで芝生の上をずかずか歩くことに抵抗を覚えないのも高校生。
ふと、横を向いた先に、保健室の窓が見えた。目を細めてようやく誰がいるかわかる程度の向こう側。
「あ」
カーテンがひらいてる。
その窓枠の中に、ベッドに横たわる広田が見えて、思わず声が出た。
カーテンは、養護教諭のデスク側はきっちりとひかれていて、保健室内からは見えないようになっていたけど、外からは丸見えだった。
とはいえ、まもなくチャイムが鳴ろうとしているのもあり、生徒の行き来はほぼなく、保健室の窓からこちらが見えているかどうかも怪しい。
おそらく、見えていないと思う。
滴り落ちそうな緑をたたえた木々や垣根が、風を孕んでざわつき、木の枝と葉は保健室の窓を隠したりあらわにしたりした。
だけど、目を閉じる広田の傍に、背の高い男が立っているのは見えた。
アンシンメトリーな前髪。右目が隠れるくらい前髪を垂らした男だった。
広田を見下ろして何かを考え込むように突っ立っている。
毛先がちょっと茶色くて、ちょっと「やんちゃそう」な男もまた、広田とは違うタイプだけれど、とても綺麗な顔をしているのはなんとなくわかった。
私と寺森が保健室の外でやりとりしているうちに広田はさっさと眠ったのであろう。
そしてその、眠る広田の額にそっと指をあてて屈むと、背の高い男はーー。
目を閉じる広田の、唇に、キスをした。
「…!」
寺森もその瞬間を見てしまったらしく、弾かれたように明後日の方向を見上げて「しまった…」と呟いている。
私達はそれでも、ここで立ち止まったら向こうに気づかれてしまうとばかりにそのまま進んだ。
学校内で男同士のキスを見てしまった私達は、なんとなくお互いに声をかけづらくなって、無言を貫き、のそのそと歩いた。
背の高い方の男の表情が、私の網膜に焼き付いて、離れなかったのもある。
なんて。切ないのか。
切羽詰まった顔をしていた。ように見えた。目を凝らさなければ見えない距離で、なぜそのように見えたのかわからないのに、はっきりとそんなふうに見て取れた。
きっと、広田に、広田の知らないところで、彼は彼に恋しているのだろう。
女の子にきゃーきゃー言われそうなタッパとカオ。なのに、彼は広田に恋している。
好きで好きで好きでたまらないような、だけどそれを伝えられない、これからこの先絶対に伝えられない、そんな、やるせない表情で。
きっと全身全霊を心臓にするような勇気でもって、彼はキスをした。
カーテンがひかれていて、保健室内ならば誰にも見られていないことをわかってて。
でも、窓側はあいてたんだよなぁ。
見ちゃったよ。
同性愛に偏見は全くない。なんとも思わないけれど、これが男女のキスシーンでもきっと寺森とは顔をあわせづらかったと思う。
実際にいま、何を話していいやらわからない。
そんな気配を察知してか、寺森から私に声をかけてくれた。
目の前は購買。
周囲の生徒に、聞こえないように。
「謙一…やったなぁ、アレ。背の高い方」
「…知り合いなん?」
「おんなじガッコやったんよ」
「そうなんや、じゃあ、広田くんとも…」
「あいつら、小学校から一緒や」
寺森はようやくといったように溜息をついていた。
どういう意味の溜息なんやろ。知り合い同士のキスシーンを見て、ってことかな。
「謙一が、好きなんやろなぁ、広田くんのこと…」
寺森の声は、教室に向かう生徒たちの喧騒にすぐに打ち消された。
好きなんやろなぁ。
そうやろなぁ。
だって、あんなに切ない顔をしてた。
人は人を想う時、あんな顔をするもんなの?
みんなそうなの?
私もそうなの?
長い前髪で隠された瞳が、今にも泣き出しそうやった。
好きで好きで好きで。
この世にそんな感情があるなんて、知らなかった。
私だって恋もしたことはあるけれど、私が抱えたことのある感情なんて生ぬるいって目の前で言われたみたいな。
締め切られた窓越しなのに、ガラスが震えて、こちらまでわかるくらいに。長身の男からは悲壮とも言える恋心が伝わってきた。
同性同士やから、なおさらなんかな?
偏見はない。「私には」。
けれど、周囲に好きな人の名前すらいえない禁忌が16歳の背中にのしかかること考えたら、やっぱり切ない。
そうでなくても、誰と誰が付き合ってるだの、誰が誰を好きだので話題が持ちきりな年頃なのに。
好きな人の名前を言うことすらはばかれるなんて。
悲劇のヒロインでなくても、悲劇だって思うだろうに。
かわいそうだとか、そういうんじゃなくて。
ただ。素直に、私は胸の奥がぎゅっとなった。つい数分前に知った、赤の他人のことなのに。
「寺森はさ…なんか、思わんの?」
「なん?」
「だって…その…男同士やん」
「…気持ち悪いとか? まぁ、びっくりしたけど。でも、基本的に、他人のことには興味ないタイプやから」
「…そやな、寺森、淡白やもんな」
別名、冷酷っていうんやけどな。