美しい、男。11
あ、アカン…怒らせてしまった…。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
怒らせたのなんていつ以来だろうかとどうでもいいことを考えたりもした。
苛立って家から出て行った由樹の残像をおいかけて。冷たい玄関の、コンクリートの上、裸足で突っ立ってた。待ってくれと手を伸ばしたけど、手は伸び切ることもなく、行き場を失って髪の毛をぐしゃぐしゃ掻き毟るしかなかった。
由樹はそんなに感情表現が豊かなほうじゃない。自分の心の内も語るほうじゃなかった。
だから、前の由樹の彼女――よしみちゃんっていう――と付き合いだしたことも知らなかったし、どっちが好きになってどっちから告白したとかも、何も知らないままだ。
由樹から別れを告げたことだけは知っている。それを由樹から俺に伝えられたとき、俺は笑顔で「そうなん」と言ってたと思う。
だって、そういうことを俺にはちゃんと言ってくれたんや、とか思って浮かれた。我ながらアホだなとは思う。
幼い頃から由樹は、怒る子ではなかった。駄々をこねたりわがままを言っているところですら、見たことがないかもしれない。
聞き分けが良すぎる、って由樹のお母さんが言ってたところを聞いたことがある。
たぶん、一番甘えたい盛りに弟ができて、「お兄ちゃんやろ」って育てられたから、って。
だから、幼い頃から、由樹はあんまり感情を表に出さないような子どもだった。
俺がやんちゃしても、停学くらっても、由樹をからかっても、全部同じ反応やった。
なにやってんねん、って苦笑するだけ。
笑ってくれたら、いいほうだ。他の人には「は?」とか無言で無視とか、その程度の反応しかしない。
でも俺には笑ってくれた。それが嬉しかった。
その由樹が、ものすごく怒っていた。
珍しく物音立ててドアも閉めてた。
「…怒らせた…なぁ」
何が地雷だったのかわからない。知らないままに、由樹の爆弾爆発スイッチを踏んだらしい俺。
やっぱり藤倉のことかな。
怒った顔も可愛いやん、とか思ったあたり重症かもしれない。
無気力で、そのくせ感情をもてあまして、でもそれをどう表現していいかわからずに困惑している由樹に、「歌うたえばええんとちゃう」とか「歌詞書いたらええんとちゃう」とか、提案したのは俺だった。14歳の頃だった。
それから、由樹は歌うようになり、歌詞を書くようになった。そして、歌の世界でうまく感情をコントロールしているように感じていた。
危ういような無気力なような、もういつどうなってもええねん、みたいな顔をしていた由樹だけど、歌っている時とか音楽に向かい合ってる時はエネルギッシュに見えた。
「中2病やん」って言った14歳のあの頃に比べたら、変に鬱々してることも減ったと思う。
それやのに怒らせた。
大人しく部屋に戻ったら、心配そうなシズカちゃんとジョーが俺を見上げた。
「姫、お怒りなん?」
口火を切ったのはジョーだった。
姫とは由樹のことだ。色が白いし黙ってたらお姫さんみたいや、って誰かが言ったときから、俺らの中では「姫」。
「いや、ほんまに弟迎えに行くの忘れてたんやって。慌てて帰ったわ。みんなに、ごめん、って」
うまく、かわせた気がしなかった。特にジョーは勘もいいし頭もいい。
「それよりライブのチケットの売れ行きやけどなー」
適当に話題を変えて、何も知らないフリをした。
『けんいっちゃんには、関係ない』
そう言ったときの、由樹の泣きそうな表情がまぶたの裏にチラチラして、俺はみんなに対しては笑っていたけど、多分うまく笑えていなかったと思う。
だって、関係ない、とか。
たしかに関係ないかもしれないけれど。
…ただ、悲しくて、うまく笑えるわけがなかった。
* * *
正直、顔を合わせづらかった。
昨日、何が原因かわからないけれど、けれど確かに俺のせいであんなに由樹を怒らせた。
もしかしなくても今日は口も聞いてくれないかもしれない。それどころか、目すら合わせてくれないかも。
どうしよう、そのままやったら。
そのまま、しゃべらんようなって許してくれないままで、バンドも解散になって。そんなふうになったら、どうしよう。
そんなことばかり考えて、昨日は眠れなかった。ぼんやりしたまま朝を迎え、出席日数がギリギリなので休むわけにもいかず登校したというわけだ。
「あ、おはよう」
突然後ろから声をかけられて、絶句した。
靴を履き替える前の昇降口で、ちょっと眠たそうにしてた由樹は、ふつうに俺に挨拶して、そのままいつもどおり教室に歩いていく。俺は挨拶の返事もできないまま、それを見送った。
よ…。
「よかったぁ!」
思わず、一人で声をあげてた。
だって、ふつうやった。
ふつうに、いつもどおり、おはよう、って。
いや、目ぇあいとったんかな。
俺やってわかっとんたんかな。
もうこの際、間違われてても別にいい。
ガッツポーズせん勢いの俺の背後から、
「…なに一人で漫才しとん」
あきれた声がして、振り返ったら藤倉が顔をひきつらせたまま俺のことを「かわいそうな子」を見る目で見ている。
「見世モンやない」
「…さっきから暗い顔したと思ったら急に笑ったりして…キモイな、松永」
「…おまえくらいや、藤倉。こんなイケメンつかまえて、キモイとか言うんは」
「ま、顔面がいいのは認めるけど」
あ、そういや俺、こいつのせいで由樹とケンカしたんやっけ。なんか腹立ってきた。
こいつのこと、由樹は…。
藤倉は結婚してるんやで、だからあきらめろよ、由樹。
言えるモンなら、そう言いたかった。
でも、俺が由樹に惚れてるのを黙っててもらう代わりに知った藤倉の秘密は、それはやっぱり黙ってなければならない。簡単に他人に話していいことじゃない。
俺が抱える秘密と同様に。
あの時、藤倉のこと好きなんって聞いたら、違うって言ったやん、由樹。藤倉は、違うって。あの帰り道に。
せやのに、昨日の由樹はすごく苦しそうな顔をして、藤倉が好きと言った。
だったら、あれはなんだったんだろう。好きな人が藤倉ではないと否定したあの日は。
だけど、なんにしても、由樹は女が好きなんだ。俺でないことは確かなんだ。だったらそんなことをいくら考えても意味はなかった。
由樹は小さい頃から、あんな感じだった。
ちょっとしたケンカくらいなら何度かしたことがある。俺が臆病なのか、あいつが無頓着なのか、次の日にはケンカのことなんて忘れたように話しかけてくる。
切り替えが早いのだと、幼い俺は勝手に思っていた。
けれど、大人に近づけば近づくほどわかってしまった。
無理して笑ってるんじゃないの?
忘れたような「ふり」してるんじゃないの?
子供の頃は、あいつ大人やなぁなんて思ってたけど、怒らないんじゃなくて「無理して」んじゃないの?
無理させてんのは…俺か。
「…百面相やな」
俺に向かって呟くと、藤倉は鞄を振り回して去っていった。嬉しい気持ちと悲しい気持ちと自分への怒りと、いろんな気持ちがかわるがわるやってくる。百面相と言った藤倉の指摘どおり、俺は感情が顔に出やすい。
謝ろう。由樹に無理させるんじゃなくて、俺からきちんと謝って、怒り足りないんならきちんと怒ってもらおう。
やっぱり俺が悪かった、と素直に言おう。
何が?って言われたらどうしよ…。
いや、何が悪いかなんて実はわからないけれど。怒らせたのは事実だから。
だから、由樹は無理せんでええねん、って。
だって、自分の奥底に沈みこめた感情を、無理すんな吐き出せ、っていうて作詞を勧めて歌を歌うこと勧めたのは俺だ。
その俺が、無理させてどうすんねん。
ちょっとでいい。ほんの、ちょっとでいいから。おまえのために、俺がいるということを覚えていてほしい。俺はわがままだから。
やっぱりどうしても、特別、でいたい。
恋人とまでは言わない。
親友の中でも特別な奴、の位置でいい。
だから、許されたい。
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