ポケットのコイン 空色のいろ
ジョンは市場で働いていた。
ジョンは朝から夕まで働いている。
ジョンは市場の御用聞き。
野菜の運搬、ビン洗い、肉屋の手伝い、
ごみ捨て、配達、声が掛かれば用をこなす。
ジョンは市場で働いている。
ジョンは少年、働き下町に暮らす男の子。
マイラはお屋敷に住んでいた。
マイラは金の髪に青い目の美しい姿。
マイラは絹と薔薇に包まれていた。
歌に刺繍 ダンスに礼儀作法、
美徳を身につける様、学んで過ごす
マイラは屋敷に住んでいる。
マイラは少女、お金持ちのきれいな女の子。
―― 「ジョン、ジョン!おお、こっちこっち、はずむから、ちいっと走ってきてくれないかい?行き先は『テーラー屋敷』だ、買い忘れたんだとよ」
ほいきた!彼は野菜売りの天幕に駆け寄る。使い込まれた大きな籠に、ジャガ芋、赤い蕪、紙に包まれた豆がこんもりと入れられている。それを受け取ると、軽くよろめくふりをする。
「重い!お、重いよ、これで急ぎ?間に合うかな」
走るんだったら籠じゃ無理だよと断ると、背負っていた麻の袋に丁寧に品物を入れながら、抜け目なく野菜売りと交渉をするジョン。
「こズルいガキだな!上乗せするって言ってるだろ、ほら早う行け」
「へへ、毎度あり、じゃっ!」
何時もの事なのだろう、店主は苦笑しつつ、ほらコレでと籠からコイン幾枚か取ると、差し出した。チャリンと小気味の良い音を立てて受け取ったジョン。よろけた事などウソのように膨れた袋をヒョイと背負うと、タッタ、タッタと駆けていった。
あの子に会えるかな、エヘヘ、とワクワクしながら彼は駆ける。ポケットの中のコインがチャリチャリと音立て跳ねる、彼のお目当ては表通りに面している屋敷の一つ。
窓べり軽く身を乗り出し、空を見上げる少女の姿。金持ちのお嬢さん達は、そんな事などしないと聞いているが、彼女はよくそこに佇み、歌をうたい手ずから小鳥に餌をやっている。
風変わりなお嬢さんは市場でも噂になっている。きれいなきれいな女の子。
くるりとした金の髪、見るたびに違う服、小鳥の姿、聞こえる声。最初気が付いた時には、忌々しく思ったジョン。歌をうたい小鳥に餌をやる、その餌は、柔らかい白いパンの欠片。
こちとら一日中ネズミの様に駆けずり回って、ようやく黒くて硬いパンを買う、そしてそのパンくずさえも拾い食う、なのに……、上からハラハラと落ちてきた、白いパンの欠片を目にしたジョンは思った。
知らず知らずの内に、顔を上に向けキッと睨んでいたのだろうか、視線に気が付いた少女は、不躾なそれを受け止めると、怯えも見せず、にっこりと愛らしく微笑み、小首をかしげ彼に会釈をした。
ドキリとして慌てて視線をそらしたのは、ジョンの方、笑いかけられ頭を下げられる事など、彼の人生において初めての経験。
ひと息おいて恐る恐る見上げると、物珍しそうに上から彼を見ていた彼女、やがて中から声がかかったのか、ふわりと姿を隠した。
それがきっかけ、呼びかけることは無い、姿が見えない日々のほうが多い、声を掛け合う事などあろうはずがない。名前も知らない。だが少年は彼女に恋をした。
チャリチャリン!コインが音を立て踊る、あの子があそこにいたら、へへへ、良いのになと彼は、肩に食い込む重さを気にもせず、タッタ、タッタと街を駆けていく。
配達をすますと、慌てて市場に戻った。ポケットの中のそれを売れば、少しばかり美味しいものを買える。空色の繻子のリボン。小間物屋の前に来たとき、立ち止まるか迷うジョン。荷物をおろし、寄った先であった出来事。何回も何回も、思い出している少し前の事。
――上から空色がふありと落ちてきた。
歌はうたっていなかった。餌もやっていない。なのに窓辺に彼女はいた。立ち止まり見上げる少年。下をみながら、しゅるり……と髪のリボンを解いた少女。
金色がふわりと舞い広がる。綺麗だと見惚れる、目と目がしっかりとあう。泣きそうな笑顔を浮かべている少女、見開き姿を見つめる少年、
手からそれをするりと落とした彼女。
フワリひらりと舞いながら落ちてくる、慌ててそれを受け取る様に移動をした彼。つぎはぎのズボンにゴワゴワな上着、帽子が落ちる。手を伸ばし掴んだリボン。
甘い涼やかな花の匂いが染み付いている幅広の柔らかなリボン。掴んだと、少年が窓辺に目を向けると……、少女の姿は既にそこには無かった。
ポケットの中のコインが、チャリンと音を立てた。さっきまでの陽気な音と違い、寂しく悲しく聞こえたジョン。帽子を拾う。
―― 赤に白、黄色に青、緑……鮮やかな物が白粉や紅、くすんだガラス細工の品物と共に細々と並べられている。通り過ぎつつちらりと見ると、店主はそろそろ片付けにかかろうとしていた。
ポケットの中の空色をそろりと握る。艷やかなそれはここにある物とは、一線を引いている。見せたら……、泥棒をしてきたと言われないかな、そして取り上げられないかな、やだな……。彼は口笛を吹きながら、その場を通り過ぎる。
「ご機嫌さんだね、稼ぎがよかったのかい?」
顔なじみの店番の老婆が聞いてきた。それに空いた手を上げニコリと笑うと、馴染みの屋台へと走る。何時ものパンと、あれば売れ残りの何かを分けてもらおうと、そこに向かう。隠している事がバレない内に走る。
「おや、ご苦労さん、いつものだね、そうそう、明日肉屋のダーニが朝イチ来てほしいってさ、ほら、奥さんに赤ちゃん産まれるとかで、早じまいしちまいしたんだよ。めでたいねぇ」
「へぇ!そなの?どっち?、うまれたの?あ、うん分かった、朝イチに行く。ありがと」
包みを受け取る少年。コインを探っているとお客が横から入る。
「おばさん何時ものライ麦パンを、ねえ知ってる?おばさん、あの歌の上手いお嬢さん、いい歳した貴族に見初められて、お嫁に行くんだって、持参金凄いって話」
「へえぇ!鳥に餌やっているお嬢さん、まだ若いだろ?ジョン位なのに、ああ、あそこの旦那はガラスの製造かなんかで、ひと山当てて、お次は貴族になりたいと言ってたよ。そうそう、金持ちになって貴族になるって………、そうかい、なんだか哀れだねぇ……」
「親子ほど年が離れてるって、やぁねえ、売られたのも変わんないよね、あ、明日は見に行こうと思ってんの、そりゃ豪華なドレスって、銀糸のヴェールには、ブルーのサファイア散らしてるって!凄いわぁ、てな話だもん、お針子してるマーレがおしえてくれたの」
「ふーん、器量良しさんに産まれると大変だねぇ、私も見に行きたいけど……、うーん、夕方に花嫁は家を出るのかしきたりだから、店早めに閉めよかな」
「お、おばさん、これ………で!で?なんであわれなの?お金持ちなのに売られるのって?どうして?」
ドキンとした。誰のこと?と思った。ぺちゃくちゃ喋る二人に割って入る。ズキンと痛い。ザワザワとする少年の頭の中。パン屋のおばさんが、お金を受け取り教えてくれた事は、わかったようでわからなかった。いや、彼はわからないと思った。
貧しい家の女の子達が、どこかに売られていくことは知っていた。中にはきれいな顔をした男の子も……、どこに行くのかは彼はまだ知らない。
ただ、家族総出で働いている、少年のジョンもその一人、働いてようやく食べていける暮しの中、事故に逢う、または病に誰かが倒れれば、明日は我が身になるかもしれない。なのでそれを不幸だとは彼は思っていない。
ただ、お金持ちでもそういう事が、家のために売られるということがある事実を知り、何故か裏切られた様な気持ちになり、酷く心が傷ついた。寂しそうに笑顔を見せた、あの子の顔が浮かぶと、それはチリチリと音を立て心に、頭に焼き付いて行く……。
―― ジョンは市場で働いていた。
ジョンは朝から夕まで働いている。
ジョンは市場の御用聞き。
野菜の運搬、ビン洗い、肉屋の手伝い
ごみ捨て、配達、声が掛かれば用をこなす。
その日は朝から女の子が生まれたと、ニコニコ笑顔の肉屋で、あれやこれや朝から手伝うジョン。その合間に花屋の手伝いも、野菜の配達も、何時もより忙しく過ごしている。その分実入りもいい、少しばかり重い音がするポケット。
ジョンは家から小さな籠を持ってきた。花屋の手伝いをした時、裏に捨てられたり散った花びらを一枚一枚拾う。きれいなそれを選んで拾う。一つの店、その向こうの店、あちらの店と、いくつか周り拾い集める。
赤や桃色、黄色に白、色とりどりの花びらを、中には面白がった店主が、頭のもげたのを笑いながらくれたのもある。こんもりと溢れる色の籠。そしてそれを片手に、いつもの様に配達に行った。
彼女の屋敷の前では、顔見知りの下男が玄関先を綺麗に履き清め、くるくると赤い絨毯を広げている。
「ねえ、お祝いの花散らしていい?」
「ん!ああ、手伝ってくれるのなら、いいよ。やることいっぱいあってさぁ、大変なんだ、花なんかめんどくせー」
運んできていた花を、ブチブチとちぎり、適当に散らす下男。ジョンは自分で用意したそれを、丁寧に置いていく花嫁の歩く道に置いていく。
マイラはお屋敷に住んでいた。
マイラは金の髪に青い目の美しい姿。
マイラは絹と薔薇に包まれていた。
歌に刺繍 ダンスに礼儀作法、
美徳を身につける様、学んで過ごす
マイラは屋敷に住んでいる。
マイラは少女、お金持ちのきれいな女の子。
―― 「ジョンも見てくりゃ良かったのに、そりゃぁ綺麗だったよ!惜しいことしたねぇ」
パン屋のおばさんが翌日の夕方、パンを手渡しながら、うっとりと話す。
「銀糸のヴェールに、空色のサファイアがキラキラ散りばめられてて、それが夕日に当たってキラキラ、きらきら……透ける髪も金の光が宿ってたねぇ、ドレスも………」
少年は、ポケットの中の空色をきゅっと握った。そして反対のポケットを弄る。チャリンと音がした。コインを取り出した。
「へええ、そりゃ残念無念!キンキラキンのお嬢さん見てみたかったな」
明るくそう答えたジョン、硬くて黒いパンの塊を受け取ると、支払いをすまし隙間風入る家に彼は、タッタ、タッタと走る。
ポケットの中で、チャリンチャリンと、少しばかりのコインが音を立て彼の背中をおしていた。
終ー。