生死門の武〈下〉
火燐はまるで心底最も欲しがった物がどうしても手に入れられない悲しみが湧いてきた。
それはまだビジネス的攻撃が始まったばかりの記憶、いつも自分の仕事に誇りを思うお父さんの笑顔がなくなった日、お父さんを温かい目で支えるお母さんが悲しい顔になった日、そして現在進行形で何一つもまだ取り戻せていない自分の情けなさ。
いつの間にか隣にいる紫苑も穣も涙が溢れて止まらなくなっている。
「うぇー、なにこれ?意の力の攻撃?」
有子はもう床に座り込んで泣いている。
もう成人している紫苑と穣より、彼女の過去はもっと近く、そして精神もまだ未熟、精神を影響する技は彼女にもっと効きやすい。
「人も天地の一部、感情もエネルギーの一種、外景技で影響を与えられるのは当然です。」
炎の渦が消えた中、服すら焦げていない洪明峰が立っている。
急に、火燐は無尽と言える程の遠い所から、視線が向けて来たような感じがした。
『何があった?有子の人格アンカーが揺らいだ。』
有子と紫苑と穣から、白染の声が出た。
「おう、白染さん、今時間ある?実はかくかくしかじかで、今洪さんとの組手がちょうど終わった所なんだが、白染さんも手合わせてみねぇか?」
「いや、かくかくしかじかってなんだよ?ちゃんと説明して!?」
「大丈夫、白染さんは心をある程度読めるんで、伝えたい事を思い浮かべながら適当に発音すれば会話は成立する。」
『時間はない、新しい土地の開拓に定制を調整している。お前も哨戒任務控えているだろ?消耗が激しかったら二時間遅く戻ってもいい、話通しておく。』
「あ、それは大丈夫、時間通りに戻るんで。」
「白染!ヘルプ!」
有子が急に言い出した。
「ここはもう全員負けてる、火燐はまだ心の力しか使えない、白染が最後の要なのだ。」
『火野の同意があれば。』
「よーし!火野!いや、火燐ちゃん!」
急に、有子は火燐の肩を掴んで、自分のイヤリングを渡した。
「これを高く掲げて、『白染の名において、変☆身!』を叫んで!」
「いやよ、何それ?」
「宇多子の頭に掛けているあの定制を遠隔に掛けてもらうんだ、これで白染がアンタを通して達人をぎゃふん言わせるんよ。」
「目的間違ってない?てかアイツは時間がないって言ったじゃん?」
「それは本人が現場にいなきゃダメってこと、操れる体あればここのことに参入するのは簡単よ。」
「私を!?」
「そうよ、どうせアンタ心の力しか使えないでしょ?ここは白染に生死門の達人と手合わせた方が、週末の試合がもっと確実に勝てると思うぞ。」
これは火燐の急所を突いた。特に洪明峰は想像以上の強さを披露している今、洪明峰より強い洪秀峰に勝てる自信が薄れている。
「白染の名において、変☆身!」
有子のイヤリングを高く掲げて、火燐は叫んだ。
そして視界の隅に、必死に笑いを堪えている穣と紫苑を捉えた。
「こんのバカ!また私をだま…」
怒鳴ろうとする次の瞬間、火燐は自分の意識の中に、もう一つの莫大で無機質な意識が侵入して来るような不思議な感じがした。
数多な情報が一気に脳に入ってくる不快感が3秒程続いて、そして火燐は知った、自分の中に白染がいる。
彼女の目は白染の目になった、彼女の耳は白染の耳になった、彼女の体は白染の体になった。
想像だにしなかった視界、赤外線、紫外線、電磁放射線…等で、視線の中がごちゃごちゃで非現実的な光景になった。
聞こえたことのない音、自然環境にある低周波音、超音波が入り混じって、耳鳴りみたいな不快感を促す。
肌は周辺の空気だけではなく、半径300メートル範囲内の心臓の鼓動を含める軽微な振動でも全部感じ取れる程敏感になっている。
これが感をマスターしている者の世界なら、普段の生活をどう過ごすかが心配だ。
「面白いですね、本当に一瞬で纏うオーラが別人になりました。貴方が掌門と軍用格闘術を作った方ですね?」
準備運動をしながら、洪明峰は話しかけてきた。
「そうだ、万代白染と申す。手合わせ願おう。」
火燐の口から発したのは白染の声、咫尺天涯で洪明峰の正面に移動しているが、構えなどはしない。
火燐自身の視線は一瞬、世界が抽象的な油絵になった気がするが、気付いたらもう洪明峰の前になった。
「過程が見えない移動、これは対応し難いね。」
洪明峰の準備運動が終わった瞬間、身に纏うオーラも明らかに変わった、元々目でも見える優しいオーラがもっと深くなり、その場にいる全員から見ては、まるで鬱蒼とした森のようになった。
そして構え出した瞬間、それが山林となって、どんな手段を使っても揺るげない印象を相手に与えた。
「今回は先手貰います。」
ちゃんとした準備に正確な構えから繰り出したのが、やっぱり外景技;穣の時に見せたあのまるで山が崩れてきたような攻撃、今回はエベレスト級になっている。
一瞬きで、最強の探知異能【洞明】が発動した。元々言い表せない視界が更に情報のカオス状態になった;言えるのは、洪明峰の腕付近に120トンという数字が出ている、そして白染は簡単な右ストレートで迎え撃った。
結果としては引き分け、洪明峰は三歩下がって、床をも踏み砕いた;白染は一歩も動いていないが、火燐は知っている、咫尺天涯を通して、恐ろしいと言える程のパワーが他所に発散された。
白染はコンマ一秒もない瞬間で、握力と膂力に【筋力強化】、拳の表面と骨に【硬度強化】、打撃力を強化する強化異能【ダブルインパクト】、反動力のベクトルを相手に向かわせる変化異能【セカンドインパクト】。
こんな威力のパンチの前では、ダイヤモンドもバターも大差ない筈なのに、洪明峰は何もなかったようにまた攻勢を仕掛けてきた。
指、掌底、裏拳、手刀、貫手…1秒で少なくとも15種類の攻撃が嵐のように襲い掛かる、火燐の視界に洪明峰の手の残像しか見えない、幸い白染にとってまだ対応できる程度、往なすなり防ぐなり躱すなりで、反撃も挟める。
洪明峰の重心は水銀のように流れて動き、一瞬たりとも同じ場所に留まることなく、白染がどこにテレポートしてもすぐ対応できた。
その足捌きと呼吸のリズムが合わさって、機械をも負かす正確無比さを見せた。
彼の肺からは雷鳴のような音が常に鳴り響き、空気を吸う度に目にもとまらぬような攻撃を繰り出す。
一方、白染に操られてる火燐はもう呼吸もしていない、戦闘が始まる瞬間、酸素を肺に自動的に送りこむ操作異能【エアポンプ】と気管を縦半分に隔てる定制異能【ツーウェイパテーション】で、息を吐き出し続ければいい仕様にされている。
そして足捌きもクソもなく、膝すら曲がらずで移動は全部短距離のテレポートに任せている、火燐の体感ではただ棒立ちしているだけ、副作用として、火燐の目がチカチカし始めた。
毎回精確に洪明峰が少なくとも二歩動かないと対応できない所にテレポートできるのはすごいが、洪明峰と比べるとどこか格が低いように感じる。
そして白染から流れ込んで来た断片的な情報で、火燐はやっと白染の格闘術流派をやっと把握した。
それは大災害の少し前に流行っていた現代流の形意拳、伝統的な虎形や熊形を捨て、現代的な武器を倣って、単調の直線に見えるが、威力は十二分ある、間合いに入ると割と強力な武術だ。
白染は威力への理解がかなり深い、パンチは火薬が炸裂する激しさと銃弾の速さを兼ね備え、蹴りはまるで鉄鞭、体当たりは重戦車をも突き飛ばすような勢い。
その上に幾つかの異能をも重ねると、白染一人で完全武装した重戦車部隊より火力が強いと言っても過言ではない。
それでも、洪明峰は余裕綽々のように対応し、往なすなり防ぐなり、たまに打ち消すすらできる。
白染の攻撃が洪明峰の外景技と何回も激突することで、屋根は簡単に吹っ飛ばされた。
「うわ、これは怪獣映画か何かなの?」
紫苑が作った空気の壁に隠れて、またナッツを食べ始めた有子であった。
「変だな、普通の達人はここまで強くない筈なんだが、これが異能なしではもう人間の範疇を越えている、これより強い者がいると、この道場への扱いは見直すべきかと。」
「それは一兵士のあんたが心配することじゃないでしょ?」
「おっ!ガトリングストライク!大技出た!」
いいタイミングを見つけたか?白染は急に大技を繰り出した。
体を使われている火燐は感じる、頭に仕掛けられた定制から感の力が腕の方に流れていき、また新しい定制を構成する過程。
それは純粋な身の力だけではなく、意の力も混ざって、脳を通さずとも腕がある程度敵の反応に自動的対応ができるようになる仕様だ。
その定制を元で、胸部中心を円心、秒で400をも超えるパンチの嵐が相手に降り注いだ。
タイミングなのか?ポジションなのか?距離なのか?もしくは全部がかち合ったか?いつも二歩で白染の攻撃を完璧に対応しきれていた洪明峰は三歩移動してやっと対応に着手できた体勢に入って、完全に攻勢に捉えられた。
もう回避ができない状態で、洪明峰のオーラから見える鬱蒼とした森が見る見るうちに枯れていき、一瞬で生機なき岩山になった。
その過程に、火燐はまるで自分も枯れていくような恐怖を感じたが、体を操っているのは白染で、叫びたくても声が出せない、便秘みたいな気分になった。
そしてパンチの嵐が往なしの両手と激突。
2秒…3秒…10秒と、時間の過ぎにつれ、パンチの嵐はやがて濁流になり、大河の中央にある大岩に全部二分された。
結局、この埒が明かない状況を止めたのは、洪明峰でも白染でもなく、火燐だった。
強化異能を何重もかけられても、元はまともに鍛錬されていない両腕、4000も超えるパンチを繰り出すと、当然使い物にならなくなる。
「もう限界のようですね。」
白染の攻撃が緩くなる瞬間、反撃に転じた洪明峰が捕まったのが血まみれの腕、勝負はつかなかったが、手合わせは続くようがない。
「ああ、これ以上は危険のようだ。いい勉強になった、礼を言う。」
「いいえ、こちらこそ。その異能とやらを存分に体験させていただいてありがとうございます。」
最後は和気藹々な握手、屋根すらなくなった災害現場のような道場を見なければ、普通の練習試合だと勘違いするだろう。
「この体は手当が必要だ、失礼だが、正門から出る事ができない、許してくれ。」
「お気になさらず、こちらは週末の試合を心から期待しています、その時は是非全力を見せてください。」
「約束しよう、洪秀峰が貴方以上の実力なら。」
「孫として言いますが、お爺ちゃんは私より大分強いよ、お気を付けください。」
白染が頷いた後、火燐の視界はライブラリーハウスになった。




