裏75話 三五の熱い気持ち 高三 二学期
弦義お義兄さんはオレに期待してくれている。
メイお姉さんはいつだってオレの味方をしてくれて、力になってくれる。
アンお姉さん達、オレ FC のお姉さん達は何故かオレのことをとても慕ってくれている。
そしてオレのお嫁さん♂である湖宵。
彼女はいつだってオレに全幅の信頼を寄せてくれるし、惜しみ無い愛を捧げてくれる。
皆の期待に、信頼に、愛に応えたい。
その為には今の自分のままじゃダメだ。
自分を変えるには日々の生活を根本から変えなければならない。
まず今までより早起きして朝のランニングの時間を増やす。
ペースは依然乱れたままだが、構わず走り続ける。足が動かなくなるまで。
続いて自宅、学校、予備校にいる時の時間の使い方。
とにかく意識が覚醒している間は勉強し続ける。
以上だ。
そして夜。
充分な睡眠時間を確保しなければならないのだが、最近のオレは焦燥感からか上手く寝付けない。
だから筋トレをする。
ダンベルカール、ヒンズースクワット、クランチ……。
筋肉に負荷をかけることで肉体が休養を求めて睡眠を促す。
ここまでやってようやく眠ることが出来る。
これがここ最近のオレの一日だ。
ハッキリ言って無茶していると自分でも思う。
辛いとも、キツいとも思う。
だがそれが良い。
辛いのは頑張っている証。
これらが辛くなくなった時には、必ずや一段階上の自分にレベルアップしているハズ。
そう信じてオレは無我夢中の日々を送り続ける。
繊月家で勉強することもまた大切だ。
湖宵と向かい合って勉強することで、必ず彼女に釣り合う男になってみせる! と、決意を新たに出来るから。
バリバリ勉強する合間に、お茶請けのメイお姉さん手作りビスケットを一口かじる。
そして気付いた。
味がしない。
何ということだ。
心の余裕の無さが味覚まで奪ってしまったというのか。
こんなオレにメイお姉さんが心を込めて焼いてくれたお菓子を食べる資格は無い。
「湖宵、オレの分のビスケットも食べてくれない?」
「え、えっ? どうして? こんなに美味しいのに……」
「今のオレはお菓子の味を楽しむ余裕すら無いみたいだ。そんなのは作ってくれたメイお姉さんに申し訳無いから」
「じゃ、じゃあさ! いつもの公園に行こうよ! 気分転換にお散歩してさ! ベンチに座ってビスケットを食べよう? そうしたらきっと美味しいから……」
「お散歩? それこそ……」
楽しめる余裕なんか無い、と言おうと顔を上げて気付く。
湖宵が今読んでいるのは勉強の本じゃない。
趣味の手芸の本だ。
優秀な湖宵は自分の勉強なんてとっくに片付けて、残った時間を有意義に使っている。
それが出来ないオレは……。
「オ、オレ……湖宵を退屈させてた? 自分のことにだけ夢中になって、一人で放ったらかしにさせていた? いつまでも湖宵に追い付けないから……」
そんなの、そんなの夫失格じゃないか……。
サーッと顔が青ざめる。
「ち、違うよ! ボクのことは良いの! ただ、三五が根を詰め過ぎてるって思ったから! リラックスして欲しいって思ったの!」
リラックス。リラックスか。
「それならこのまま勉強させて欲しい。頑張ってるって思える時が一番落ち着くから」
「えぇっ……? あ……うぅぅ……」
明らかに納得がいっていないと物語る湖宵の表情。
言いたいことがあるけれど上手く言葉に出来ない。そんな顔だ。
そんな湖宵の気持ちを察した上で、言う。
「ね? お願いだよ、湖宵」
「う゛ぅぅ……わ、わかったよ……」
湖宵は言い争いをするということが物凄く苦手だ。
故にオレが強く主張すればその意見は大抵すんなり通る。
だからこそオレは今まで、湖宵の口から出るどんな小さな声も聞き逃さないように努めてきた。
そんなオレが今、動機はどうであれ湖宵の声を黙殺して自分の主張を押し通した。
「三五……」
その事に湖宵がショックを受けてしまった事にすら、問題集にかかりきりになっている今のオレには気付けない。
そのまま湖宵との間にロクに会話が無いまま、繊月家を辞する時間になる。
「三五ちゃん。今日もお夕飯を食べていくでしょう?」
メイお姉さんがいつものようにそう言ってくれる。
しかし……。
「ごめんなさい。今日は帰ります」
食事を楽しむ気持ちの余裕を失くしたオレは慎んでお断りをさせてもらう。
「えっ? えっ? で、でも受験生なんだからたっぷり栄養を採らないと。風邪なんかひいたりしたら……」
「ありがとう、メイお姉さん。いつもオレのことを気にかけてくれて。でも今のオレにはメイお姉さんの料理は勿体ないから」
深くお辞儀をした後、メイお姉さんの顔を見ずに玄関を出る。
「ま、待って、三五ちゃん! え、えっと……あの、その……!」
メイお姉さんがオレの後を追いかけてきてくれるも、しどろもどろになり二の句が継げない様子だ。
無理もない。思い出す限り、オレがメイお姉さんに対してこんなに生意気な態度をとったのはこれが初めてだから。
メイお姉さんが面喰らっている隙にもう一度お辞儀をして、置き去りにするように歩き出す。
きっと嫌な気持ちにさせてしまっただろう。
でもメイお姉さんはいつもオレの頑張りを誉めて、認めてくれるから。
まだ何も結果を出していないのに誉められたくない、認められて何かを達成したような気分になりたくない。
そう思ってしまったから、この時のオレはどうしてもこんな風に避けるような態度をとらざるを得なかったんだ。
ごめんなさい、メイお姉さん。
今日の失礼はまた謝りに来ますから、もう少しだけこのまま頑張らせて下さい。
それからまた少し日が経った、ある早朝。
「ハアッ! ハア! ハァ……ゲホ! ゲホゲホッ!」
おかしい。
ランニングの後にどれだけ深呼吸をしても一向に呼吸が整わない。
それどころか後から後から咳が出てくる。
この症状は……。
「もしかして風邪をひいた……のか?」
最近何を食べても味がしないのも、もしかして風邪をひいたせい?
だがまあ、その程度ならどうってことはない。
何ら支障無く今まで通り精進の日々を送ることが出来る。
だけど湖宵やメイお姉さんに風邪を伝染してしまうワケにはいかない。
完全に治るまでは繊月家を訪ねるのは控えることとしよう。
登校する時間になったので、オレはスマホで湖宵の番号に電話をかけた。
「もしもし湖宵? オレ、少し風邪をひいたみたいだ。だから悪いけどしばらくの間、一人で登校してもらえないかな?」
『えええっ!? た、大変っ! 病院は行ったの!? 暖かくして安静に寝てなきゃ!』
「いや、学校は休まないよ。ただ湖宵や他の皆に伝染したら悪いからさ。治るまでは距離を置かせてもらおうと思って」
『はあぁ!? な、何言ってるの!? そんなのダメだよ! 受験までまだ間があるんだから、今のうちにキッチリ治しとかないと!』
湖宵の優しい心遣いが身に染みる。
心配させてしまっていることも心苦しく思う。
そして言っていることも至極ごもっとも。
普段のオレなら湖宵の助言をありがたく聞かせてもらっていたに違いない。
だけどゴメン、湖宵。
「今はまだ学校を休むワケにはいかない」
『な、何でぇっ!? 言ってることおかしいよ!』
確かに湖宵の言う通り。
この前の模試でB判定をとって喜んでいたこのオレだ。
余裕綽々とまではいかないが、身を削るほど焦って勉強する必要などどこにも無い。
そう。オレの目標が受験に合格することだけなら。
オレの真の目標は受験のその先に……理想の自分に変わることにこそある。
その為にお手本にするべき人達も、周りに沢山いる。
例えば弦義お義兄さん。
彼はオレの志望校にトップの成績で入学した。
それを思えば何がB判定だ。そんなモンもらって呑気に喜んでいた自分が許せない。
いくら頑張っても頑張り足りない。
だから今の自分の正直な気持ちをキッパリと湖宵に告げる。
「オレは絶対に湖宵に相応しい男に生まれ変わるんだ! その為ならこのぐらい無理の内にも入らないさ」
これは電話口だからこそ言えた本音。
この時の湖宵の顔を目にしながらでは決して言えなかっただろう……と、オレは後になってから反省することになる。
そして電話口だからこそ秘めた気持ちを口に出来るのは湖宵の方も同じだ。
『い……い……』
「? 湖宵?」
『いい加減にしてっ!』
湖宵に怒鳴られた。
本当の本当に珍しいことだ。
『どうしてそこまでするの!? ボクの……わたしの為に頑張ってくれるのは嬉しいけど、無理して欲しいなんて一言も頼んでないよっ!』
ずっと隣に居た湖宵がオレの焦りに気が付かないハズもない。
きっとずっと心配させて、けれど何て声をかけるべきだろう、と散々悩ませてしまったんだ。
湖宵の言葉には溜め込ませてしまっていたモヤモヤした気持ちが目一杯に詰まっていた。
『わたし達、 “二人” で生きていこうって決めたでしょ!? どうして一人で悩むの!? 相談してくれないの!?』
「二人で生きていきたいからだよ!」
『ひぅっ!』
あろうことか。あろうことか心配してくれている湖宵に怒鳴り返してしまった。
「……大きな声を出してゴメン。それと、湖宵が今のオレのことを好きでいてくれているのも、充分わかってる」
『そうだよっ! わたしは今の三五が好きっ! 他の誰よりも、世界で一番好きだよ!』
「でもオレが! オレが今のオレのままでいたくないんだよ!」
湖宵の熱い気持ちを受け、言葉が身体の奥から溢れて止まらない。
「隼兄弟みたいに格好良くない! 音無君みたいに大人じゃない! 恋さんみたいに確固たる自分を持ってない! 弦義お義兄さんみたいな王子様じゃない! そんな自分に誰よりムカついてるのがオレ自身なんだよっ!」
スマホ越しに血を吐くように気持ちをぶつける。
「だから、だから納得がいくまで、オレの気が済むまでやらせて欲しい。それじゃあ」
『ちょ……ちょっと待って三……』
衝動に突き動かされて、一方的に通話を終了してしまった。
や……やってしまった……。