裏72話 三五の焦り 高三 一学期
熱い太陽がギラギラと照りつける季節、夏。
植物は青々と生い茂り、セミは盛んにミンミンと大合唱。
生命力に満ち満ちたこの季節は我々人間も活動的になる。
最も、ハメを外し過ぎて暑さ対策を怠ってしまえばすぐにバテてしまうので充分な注意が必要だ。
そんな夏でも早朝は日差しが弱めで気温もそれほど高くないので快適に過ごせる。
空気も澄みきっているのでランニングをするにはもってこいの時間帯だと言える。
だと、言えるのだが……。
「ハァッ! ハァァッ! ハァァァ……ゲホッ!」
いつもの時間、いつものランニングコースを走るこのオレ、高波 三五は気持ち良くランニングを楽しむどころか、炎天下の中で地獄のマラソンコースをゴールする直前のランナーのような……いや、それよりももっともっと酷い有り様になっていた。
ハッキリ言ってその走り方は高一の夏からランニングを日課にしていたとはとても思えないくらいにメチャクチャだ。
まずフォームがダメ。
身体が前のめりになって背筋が伸ばせていないし、腕には余計な力がこもるばかりでキチンと振れていない。
ペースも守られていないどころか……ちょっとそれ以前の問題だ。
さっきから全力ダッシュ → 電池切れ & 息切れ→ 息が整わない内に走り出す、の繰り返し。
おまけに……。
「ハァハァ……汗が……ヤバい……ドリンクドリンク……あっ!」
腰のランニングポーチに手を伸ばしたところ、スカッと空振り。
ホルダーにドリンクをセットし忘れていたときたもんだ。
いくら早朝とはいえ、この季節に水分補給をせずに長距離を走れば脱水症状を起こしてしまう。
この時点で本日のランニングは中止だ。
「ハア、ハア、クソッ! ……ハア、ハァァッ!」
とっとと帰れば良いのに恨めしげにランニングコースの先を睨み続けるオレ。
後から思い返せばバカだったなあと笑い飛ばせるが、当時のオレは真剣に思い悩んでいた。
その悩みは明々白々で自覚もしていた。
それは一言で言うと、走れる距離やタイムが伸び悩んでいることだった。
何事もやり始めは面白いもので、走れば走る程に行ける距離が伸びて速く走れるようにもなる。
だけれどもいつまでもそんな調子で上達していけるハズも無い。
当たり前のことだ。
それを重々承知の上で。わかっていながらも尚、そんな当たり前のことを真剣に思い悩んでいた大馬鹿者がこの時のオレだ。
何故こんな醜態を晒してしまったか?
何をそんなに悩む必要があるのか?
それにはオレが所属していた陸上部が大いに関係する。
そう。メチャクチャ走りをしたこの日の前日にオレは陸上部を引退したのだ。
結局オレは公式大会の選手に一度も選ばれることが無いままに引退することなった。
それは良い。それ自体は初めから納得済みだ。
自分の成長に繋がれば良いと思って入部を決めた訳だから。
むしろ選手になれると思う方が間違っている。
そうじゃなくて、オレの悩みは選手に選ばれる人間とはどの様な人間か、もっと言えば選手として華々しく活躍する人間がどの様な人間か、ということをまざまざと思い知らされてしまったことにある。
選ばれた選手達は先輩、同級生、後輩を問わず、皆がオレとは身体つきからして違っていた。
制服の上からは良くわからなかったが、間近で同じランニングウェア姿になってみると筋肉のつき方の違いが一目でわかる。
更に一緒に練習をすることで、どんなトレーニングをどんな密度で行っているか、そもそもの陸上に対する熱意がどれ程のものか。
それらがよ~くわかった。
オレも自分なりに一生懸命頑張っていたけれど彼等とは年期が違う。
だからこそ歴然たる差が存在する。
そんな当たり前過ぎる事実はとっくに骨の髄まで染みていて、完璧に納得していた……つもりだった。
だけど微かに。
恥ずかしいことにほんの微かに納得しきれていなかった、ということが陸上部引退の日にわかってしまった。
オレは陸上部の星達を羨んでいたのだ。
ウチの陸上部には 「隼兄弟」 という双子のスター選手が在籍していた。
オレと同級生なのだが、彼等はオレのようなニワカ坊やとは違い、小さな頃から陸上一筋。
それこそオレと湖宵が公園のターザンロープでキャッキャしていた時分から、ず~っとストイックに練習に打ち込んでいたそうな。
その甲斐あって地元では有名な陸上選手になった。
双子揃って、という話題性もあるしね。
女子達は皆、隼兄弟に夢中なのさ。
オレやエロ姉ぇとは違い (泣) 正しい意味での有名人にして、正真正銘学校のヒーロー。
そんな隼兄弟が率いる陸上部は破竹の快進撃で支部大会 → 都道府県大会 → 地方大会とグングン勝ち進んで今年の IH 出場を決めた。
「すっごぉぉぉ~いっ! ウチの陸上部ってこんなに強かったんだね、三五!」
「いや、マジで凄いなんてレベルじゃないよ! 神だよ! 神メン達が存分に力を発揮出来るようにオレ達も力一杯サポートしよう! 湖宵!」
「おお~っ♪」
オレと湖宵だけじゃなく選手に選ばれなかった部員達もマネージャー達も全員が一丸となって心から選手達の活躍を応援していた。
その熱狂たるや真夏の太陽の如し。
何せ期待感がハンパないからね。
「もしやこのままペロッと優勝しちゃうんじゃね?」
きっと皆がそう思っていた。
だけれどもやはり勝負の世界は厳しい。
IHという華々しい舞台だからこそ、それはより顕著だ。
出場選手は才能なんてあって当然、努力なんてしていて当然。
そんな陸上競技界の若き宝石達がぶつかり合い、鎬を削り合うのだから。
ウチの陸上部員達は本当に良く健闘したが、隼兄弟以外の選手達は皆、予選で敗退してしまった。
しかし意外にも彼等の表情は晴れ晴れとしていた。
惜しかった、残念だった、という言葉に首を振ってカラッと言うのだ。
「憧れの舞台に立てて、力の限り走れた。悔いなんて無いさ」
「ああ、思いきりやった」
「オレにとってはここまで来れたのが奇跡だよ。でもこの皆が居たから頑張れた」
「つ~か、オレは来年にもっと上に行ってみせるんで♪ 応援ヨロシクっスよ、高波パイセン♪」
なんて素敵な仲間達なんだろう。
皆と同じ部活で誇らしいよ。
だがほっこりしている場合ではない。
一大事件が勃発したのだ。
な、な、な、なんと! 予選で隼兄が110mハードル走で2位に!
隼弟が800m走で3位に!
まさかまさかの双子揃って準決勝進出の大 · 大 · 大快挙!
オレ達は死ぬ程興奮した。
準決勝でトップの選手に食い下がるその勇姿に鼻血が出そうになった。
あと少し。
あとほんの少しというところで惜しくも決勝進出への切符を逃してしまったものの、すっかり脱帽したオレはそれが残念だなどとは最早思わなかった。
本当に凄い。その一言に尽きた。
オレ以外の仲間達も同じ気持ちだったようで、誰もが千の賛辞の言葉、万雷の拍手、感動の涙をもって隼兄弟を迎えた。
「終わった……な、弟よ」
「ああ、兄よ。終わった」
当の隼兄弟はぽかあんとした表情で上の空。
悔しがるでもなく、誇るでもなく。
魂が抜け出てしまったかのようだ。
きっと胸中には白熱した戦いの余韻や激しい感情が渦を巻いているのだろう。
そう思ったオレ達は温かく見守ることにした。
そしてIHが終わった数日後。
学校にてIHお疲れ様 & 三年生に引退パーティーが盛大に執り行われた。
何てったって日本一の舞台で敢闘した英雄達の凱旋だ。
陸上部外の生徒や先生達も沢山集まってのワイワイガヤガヤ大賑わい。
だというのに肝心要の祭の主役、隼兄弟は相変わらずぽっか~んとしている。
周りで女子達がキャ~キャ~言ってても全く全然お構い無し。
ちょ~っと心配になったが、オレと湖宵はそれを顔には出さずに努めて明るく振るまってパーティーを盛り上げた。
オレは皆に料理を取り分けて飲み物をすすめ、湖宵は腹話術などの一発芸を披露。
終始和やかなムードの明るく楽しいGoodなパーティーだった。
宴もたけなわとなり、引退する三年生が皆に別れの言葉を送る運びとなる。
もちろん盛り上げ係であるオレと湖宵が率先してトップバッターを買って出た。
「オレは皆と一緒に過ごした時間が少なかったけれど本当に素晴らしい時間が過ごせた、素晴らしい仲間に巡り会えたと思ってるよ! 皆、ありがとう!」
「ボクもだよ! 皆、ありがとう! 皆と一緒に居れて良かった! 陸上部ちょ~サイコ~♪」
パチパチパチパチ!
「「「「高波~! 繊月~! こちらこそ! 本当にありがとう!」」」」
「「「「先輩達が居なくなるの寂しいです!」」」」
うんうん。皆、気持ちの良い仲間達だ。
三年生が次々にお別れの挨拶をしていって、その度に拍手が贈られる。
そしていよいよ大トリ、隼兄弟の番がやって来た。
無表情のままの隼兄弟が皆の前に立つと場がシン……と静まり返った。
そして……。
「「皆……すまなかった」」
隼兄弟は頭を下げてそう言ったのだ。
余りのことに場が一瞬ザワッとなったが、兄弟の言葉を遮ってはならないと皆ギュッと口を結んで耳をそばだてた。
「オレ達は……オレ達は手が届かなかった」
「負けてしまった……決勝に進めなかった」
ハッとする。
この場に居る誰もが隼兄弟の素晴らしい健闘を讃えているのに、当の本人達だけがそうは思っていなかった。
悔いを残し、あまつさえ瞳に涙すら滲ませているではないか。
「本当はもっと勝ち進んで兄と共に表彰台に立ちたかった……!」
「ああ……! 弟と共に優勝して、我々こそが最高の陸上部だと日本中に知らしめたかった……! だけど……!」
遂に男達は熱い涙を流す。
しかしそれを拭いもせずに、その胸に更に熱く燃える激情を溢れさせるのであった。
「だけど力が及ばなかった……! ゴメン……ッ!」
「ゴメンよ……! ゴメンよ……!」
「は、隼兄弟……ッ!」
泣いた。オレは泣かずにはいられなかった。
「謝らないでくれよっ! 二人と一緒に陸上やれたこと、オレは誇りに思っているんだ! 二人はオレ達皆の憧れなんだよ!」
そして思い付く限りの言葉を吐き出さずにはいられなかった。
「隼くぅぅんっ!」
「高波先輩の言う通りですよ!」
「オレらお二人の魂受け取ったっス!」
「オレ達は隼と一緒だったから頑張れた! IHにだって手が届いたんだよ!」
「うわあぁぁぁ~んっ!」
「うおおぉぉぉ~っ!」
泣いた。皆も泣いた。
男子、女子、生徒、先生……そんな区別など関係無しにこの場に集った誰も彼もが泣かずにはいられなかった。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。
気が付いたらオレは一人、自分の部屋のベッドに腰掛けていた。
あれからどうやって解散して、どうやって家に帰ってきたものやらサッパリ記憶に無い。
着替えすらする気になれなかったので、そのままベッドの中にもぐり込む。
そして暗闇の中で思った。
「格好良い」 とは隼兄弟の為にあるような言葉だと。
あの兄弟はオレの貧相な想像力で思い描いていた理想の自分よりも何倍も何倍も格好良い。
きっと湖宵に相応しいのはオレよりも……いや、違う! それだけは違う!
湖宵が選んでくれたのはこのオレだ! そこを疑ってしまっては湖宵への裏切りになってしまう!
だからそれだけはしない……けれど。
だけど……。
「負けた……! 男として完璧に負けた……!」
そう思わざるを得ない。
春にエロ姉ぇに向かって恋愛は勝ち負けじゃないと語っておきながら。
比べること自体がおこがましいとわかっていながら。
それでも、どうしても。
隼兄弟と今の自分を比較してしまう。
悶々とした夜が明けた翌朝のことだ。
いつもの日課がこなせずにあんなメチャメチャな走りをしてしまったのは。
走り出すと隼兄が見事なジャンプでハードルを越える姿や隼弟の力強くトラックを駆けている姿が脳裏に浮かんできて、ペースを守るどころか気が逸って仕方なくなってしまうのだ。
「くそっ! くそっ!」
ランニングを中止し、俯いてトボトボ家路を歩く。
オレは修学旅行の最後の夜を思い出していた。
オレはあの夜、胸に不安を抱きつつも誓った。
「湖宵に相応しい特別な存在になる」 と。
それを神に反逆するなどと嘯いたものだが、何ら大袈裟な宣言じゃなかったと改めて実感した。
「特別にならなきゃ……! 湖宵に相応しい王子様にならなきゃ……!」
オレは、焦っていた。