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1.シンデレラ

ゲームの世界に巻き込まれしまった家康は、最初の戦いに挑む。舞台は『シンデレラ』、味方はエリナただ一人。

「ゲームの主人公って、体力が必要なんだな......!」

果たして家康は無事にファースト・エディットを達成できるのだろうか。


 本の世界に行く時、体や精神が侵食されないよう特殊な方法を取る。体にピタリとくっついたスーツを着込み、図書館に収められた対象の本を開く。そして長ったらしい呪文……詠唱というが、それを唱えて本の世界に入っていく。ゲームではたった三文で終わる工程も、実際に体験すると大層長く感じる。そもそも俺はこの詠唱を覚えていない。だってゲーム内では勝手に言ってくれるし。言わなくても話は進むし。

 本の前でモタモタしている俺をジッと冷たい目で睨んでくるアンデルセンのことは無視するとして、正直まだ自分が本の世界でやっていけるとは思っていなかった。だって俺は本当にその辺にいるただの会社員で、変わっていることといえば名前が少々偉そうだということくらいだ。

「お前なぁ、そんなクソみたいな詠唱でエディットできると思っているのか」

「そんなこと言われても……! こっちは素人なんすよ!」

「百も承知だ。だとしてももっとあるだろう。なんだその汚い音痴みたいな歌は」

「くそっ、言いたい放題言いやがって!」

 本の世界に行くことをこの世界では「エディット」という。汚された物語を正しいものに編集するため、そう言われる。その際に必要な詠唱は他のものと違い長く、複雑だ。そうでもしないと、素人が本の世界に巻き込まれてしまうからだ。いやいや、俺だって素人だっての。しかもこのクソ面倒な詠唱のせいで俺はまだエディットできていない。

 口の中で小さく舌打ちをして、もう一度最初から詠唱を初めから唱える。言い飽きたとかそういう文句を言うのも疲れて、もうこのままゲームオーバーかと思うほどだった。だってこれ英語だし。俺英語の成績はずっと4だったんだよ。良くもなく悪くもなく、目立たないような成績。それをずっとやってきたんだ。そんな人間がそう上手く言えるかってんだ。

「あーくそ……」

「早くしろ。じゃないとあいつが来てしまう」

「あいつ?」

「やかましい、お前には関係ない。さっさとしろ」

「横暴だな全く!」

 そういえば。今になってはたと気づいた。本来なら隣にいるはずの存在が先ほどからずっと見えなかった。初めから終わりまでずっと主人公の隣にいた、あのストロベリーブロンド。俺をVRからこの世界に連れてきた人物。菫色の瞳は、果たして今どこにあるのだろうか。

「なあ、エリナは?」

 不思議に思って、隣に居る辟易とした顔をしていたアンデルセンに尋ねてみる。神経質そうにモノクルを触っていた彼は、俺の言葉を聞いてますます渋い顔をした。くしゃくしゃの前髪を乱暴に書き上げ、大きくため息をついた。

「なんだってその名前を知っているんだ、貴様は」

「なんでって。そりゃ、ここに来たのもエリナが……」

「待て、どういうことだ」

「へっ?」

 それまで気だるそうな態度だったアンデルセンが突然血相を変えた。本を持っていた俺の手首を掴みひねり上げてくる。突然のことに本を取り落としてしまった。

「な、なんだよ!」

「もう一度言え、お前はどこから来た」

「どこって、えっと……東京都三鷹市、ですけど」

「馬鹿か貴様! 脳みそまで砂糖菓子になったのか!」

「はぁ!?」

 もう何を言われているのかさっぱりわからない。どこから来たとか、そんなのこっちが聞きたい。どうしたここにいるのか、どうして呼ばれたのか、どうしてあのときエリナが俺を呼んだのか。どうして、何の変哲も無い俺だったのか。わからないことばかりだ。そして今ここにその姿が無いことも。俺には不思議で、そして不安だった。

 確かにエディットの方法はゲームをやり込んでいるから分かっている。敵を倒して物語をあるべきものに戻す。それだけだ。でも、それは俺一人じゃできるわけじゃあ無い。エリナが隣にいてくれるからできるのだ。なのに、どうして。隣にいないんだろう。

「あ、ここにいたんですね、先輩!」

「エリナ……!?」

 軽い絶望に押し潰されそうになった時、図書館の入り口から明るい声が響いた。静かな泉に波紋が広がったかのように、その声は美しく広がる。肩まで綺麗に切り揃えられた髪がふわりとなびく。俺と同じようにきちんと戦闘用スーツを着込んだエリナは、膝までのスカートを翻しながらこちらに走り寄ってきた。

 安心してホッとため息をついたところで、アンデルセンは今度こそ大きな音で舌打ちをした。眉間に寄った皺がますます深くなる。それを無視してエリナに駆け寄ると、突然俺の眼の前で立ち止まって頰を赤く染めた。あ、そうか。まだ俺たち初対面だもんな。いきなり再会のハグなんておかしいよな。

 あれ、そういえば今目の前にいるエリナは髪が短いな。VRで見た時は確か腰まであったはずなのに。ということは俺たちは「初めまして」ということになるのか? でもさっき、俺のことを見て「先輩」って言っていた。ん? どういうことだ。俺はエリナのことを知っているのは(ゲームをしているから)当然だとして、エリナは知るはずがない。どうして、俺のことを。

「あ、あの。先輩……」

「えっと、何?」

 白いブラウスの上にカチッとした紺色のジャケットを羽織り、それと同じ色をした膝までのスカートからは黒いタイツに包まれた足が伸びている。俺たち「編集者」の正装であり、戦闘用のスーツでもあった。それらを身につけたエリナはどこからどう見てもゲームに出てくる立ち絵そっくりで、その姿を見てようやく俺は肩に力が入っていたことに気がついた。

 そうか、俺、気負ってたんだ。不安でたまらなかったし、喉も震えて詠唱どころじゃなかった。

 いろいろと気になることは多くあるが、今はただ彼女が隣にいてくれたらそれでいい。それだけで、目の前が一気に眩しく感じられた。

「エリナ・ファージョン、参上いたしました。どうぞご命令を、チーフ」

「……よし、行こう。俺は右も左もわかんない新米だけど、やれることをやるよ」

「はい!」

「ったく、あれほど言ったのに……そういうところは昔から変わらんな」

「アンデルセン博士、すいません。でも、私……」

 食い下がるようなエリナの頭に、やや乱暴だが親しみを込めた手つきでアンデルセンが手を乗せる。そのままぐしゃりとかき混ぜて、目を白黒させるエリナに「死ぬなよ」とだけ言った童話作家の目は、まるで愛しい孫娘を見つめるようだった。

 その言葉に深く頷いたエリナが、俺に先ほど落とした本を手渡してくれた。分厚い革で作られた表紙には流れるような筆記体でタイトルが記されている。それは、俺たちが今から向かう世界の名前だった。シャルル・ペローによってまとめられた童話、『シンデレラ』。そこが、俺たちにとって初めてのエディットの舞台だ。

「イエヤス、エディット前に言っておくことがある」

「え、っと。はい、なんですか」

 モノクル越しに、榛色の瞳がじっとこちらを見つめていた。そこには気だるげな様子も悲観的な色も見当たらない。ただ、その瞳はかすかに残された希望を見つめていた。

「俺がお前に命じることは、ただ一つだ。物語を編集することが最優先じゃあない。いいか、イエヤス。よく覚えておけ。その穴だらけのチーズみたいな脳みそにちゃんと刻んでおけ」

「……アンデルセン」

 その言葉を、俺は知っている。最初は何を言っているかよくわからなかった。だって、編集者は物語を編集するために本の世界に行く。だというのに彼は。それよりも大切なことがあると、いつも言っていた。

「死ぬな。何があっても。エリナと一緒に必ず生き抜け。これがこのエディットの第一目的だ」

 その言葉に、深く頷く。ああ、そうだ。俺たちは必ず生きて帰る。無茶をしてどちらかが死んでしまったらエディットどころかこの世界はただ崩壊めがけて進んでいくしかなくなる。確かに刻一刻とタイムリミットは迫っているけれど、それでも焦ってことを仕損じてしまうよりは慎重に進めたほうがいい。

 どうせ人はいつか死ぬ。だったらその命を、何に使うか。それをよく見極めろ。これもアンデルセンの言葉だ。お話としてはまだ先のことだから今の俺が知っているのはストーリーてきにはおかしいのだろうけれど。それでも、アンデルセンはいつも俺たちの命を最優先してくれた。それはこの世界でも変わらないようだ。

「返事は」

「……っ、はい!」

「よし。それではこれよりエディットに移ってもらう。準備はいいな」

「大丈夫です。いつでもいけます」

 腕に抱えた本をぎゅっと握りしめる。俺に力はない。ずっと地味に生きてこようとした。課金と、ツイッターだけが楽しみだった俺がまさか命をかけて何かと戦おうとするなんて。そういえば俺、ケータイ持ってきてるのかな。本の世界でもツイッターってできるんだろうか。でも誰も信じてくれなさそう。

 まあ、それは無事に生き延びてから考えればいいか。

「詠唱は……ああ、大丈夫そうだな。その顔だと」

「今度こそ大丈夫です。エリナがいるから」

「やれやれ。その締りのない表情だけは勘弁してくれ。甘ったるくて胸焼けしそうだ」

 そんな小言を聞きながら、自分の頭の中がクリアになっていくのを感じた。それまで覚束なかった詠唱も今なら流れるように口からこぼれてきそうだ。

「これよりファースト・エディットに移る。編集者はイエヤス・フジムラ。サポートはエリナ・ファージョン。ターゲットは……シャルル・ペロー『シンデレラ』だ!」

 力強い声だ。高すぎず、かといって低すぎない。耳に心地よい声だ。ゲームだったらここはボイスが付いていない。ただ荘厳なBGMが流れるだけだった。今はそんな音楽は流れていない。それでもアンデルセンの声が俺を勇気付けてくれた。

「Paint the scene I describe……」

 自然なほど滑らかに、その詠唱は溢れてきた。ふわりと足が浮き上がった感じがした。指先から徐々に溶けていって、そのままどこかに消えてしまいそうだ。それでも俺が意識を繋いでいられるのは、すぐ隣にエリナがいるからだ。

 どうして俺だったのか。なんで呼んだのか。そして、何が目的なのか。知りたいことはたくさんある。でも今は多分、隣にいてくれるだけでいい。何にもできない俺が、前を向いて歩めるのは彼女がいてくれるからだ。だから俺は。彼女を信じて進めばいい。

「And you will have yourself a picture book beyond compare.」

 詠唱を唱え終わる。その瞬間、目の前が真っ白になった。ぎゅっと目を閉じても光は痛いくらいに瞼に刺さる。うわ、これがエディット。すごい、なにこれ。動画撮ってツイッターにアップしたいな。絶対フォロワー数増える。いやでもたぶん俺のケータイがこの環境に耐えられないだろうな。くそ、もったいない。

「先輩」

「へっ?」

 痛いほどの光は徐々に弱まっていき、もう直ぐ『シンデレラ』の世界にたどり着くと思った、その時。エリナが小さく俺を呼んだ。それはあまりに小さく、それでもどこか覚悟に満ちた声だった。

「先輩は、私が守ります。私があなたの盾になる。だから……今度こそ」

 今度って。一体なんだ。彼女は一体何を知っているんだろう。俺がこの世界に呼ばれたことに関係しているのだろうか。でもそれを知ってしまうのが何だか怖くて、今はただエリナを信じるしかないのだと思い、縋るように書物と万年筆をぎゅっと抱きしめた。

  硬い地面に足がつく。転ばないように力を入れると、ずしりと重力が身体中にかかってきた。眩しかった光が少しずつ薄れていき、ようやく目を開くことができた。

「こ、ここが『シンデレラ』の世界?」

「そのようです。チーフ、その本を開いてください」

「あ、これか」

 言われた通り、手にしていた書物を開く。タイトルはもちろん『シンデレラ』で、エディットする際に手渡されたものだ。分厚い表紙をめくる。そういえば俺はこのお話を幼い頃、絵本で読んだきりだな。それもそうだ、大人になって童話なんて、読むこともない。

 出だしは一体どんなだっただろうかと思い、一ページ目を見て。

 それから、絶句した。

「白紙……!?」

「やはり。博士、聞こえますか。通信はつながっていますか」

 動揺する俺をよそに、エリナは通信用の機器に話しかけていた。ザザ、とノイズが響く。その音を聞きながら、俺は必死に頭の中を整理しようとした。

 こういう展開だというのはよく知っていた。だってチュートリアルは一回プレイしたことあるし。敵の目的は文学を抹消することだ。その対象となった本は白紙にされる。だから編集者はその物語に潜り込んで、再び書き現わすのだ。それがエディットの目的、なんだけど。

 こう、目の前で真っ白になった本を見ると驚いてしまう。だって確かに俺の記憶には『シンデレラ』という物語はある。幼い頃に読んだという記憶もあるし、だいたいの筋書きは知っている。でもそれが消えてしまうのだ。もしかしたらこの記憶さえも無くなってしまうかもしれない。知っているものがわからなくなる、というのは。これほどまでに恐ろしいのか。

『イエヤス、おい。なにぼーっとしている』

「あ、すいません……本が白紙で、ちょっとびっくりして」

『ふん。殊勝な態度を取られてもな。お前にはこれからその本を編集してもらわなくちゃならない。変に浮かれるなよ』

「わかってます。大丈夫。それで、俺はなにをしたらいいんですか」

 恐ろしく白い本をパタンと閉じて、通信機器に顔を寄せる。エリナの持つ万年筆には通信機器だけではなく、簡易的な救急セットや野営道具が出せる機能がある。実際にどうやってそれを取り出すかは正直わからないけれど、多分遅からず知ることになるだろう。

『まずは情報集めだ。今お前たちがいるのは物語の冒頭だな。本が全て白紙になっているのがその証拠だ』

「つまり、この部分を書けば物語が復活する?」

『そういうことだ。うまくいけばな。説明するより実際に体験する方が早いだろう』

 そんな無茶苦茶な、と思った直後、エリナの慌てた声が聞こえた。

「チーフ、キャストの気配を確認しました! あ、キャストって言うのは」

「物語のキャラクター、だろ?」

「そうですけど、なんでご存知なんですか」

「あ、えっと。それは」

 だってゲームしてるから、なんてそんなことは言えない。このゲームでは登場するキャラクターのことを「キャスト」と呼ぶ。たとえどんな脇役であっても物語を構成する一人だからだ。そして敵もこのキャストを使って攻撃してくる。直接的な場合もあれば、物語の登場人物を操ってキャストにする場合もある。もちろん俺たちの味方になってくれるキャストもいるから全員悪いやつってわけではないけど。できれば今は味方の方がいいな。

 茂みの奥からがサリと何かが動く気配がする。ここは慎重に動かなければ。あれ、そういえばもし俺たちが負けたら、この体ってどうなるんだろう。ゲームだったらコンティニューできるけど。というか怪我したら痛いのかな。あ、やばい。そう思うとスッゲー怖くなってきた。だって俺は戦えない。戦うのは全部キャストの仕事だ。でも俺にはそのキャストが一人もいない。エリナがいるにはいるけど、彼女は補佐役だ。この段階ではまだ戦えない。え、やばい。どうしよう。

「キャスト、来ます!」

「ひえっ……!」

 思わずエリナの後ろに隠れて頭を覆う。あー、なんてみっともない。でもしょうがない、だってこれ以外俺にできることなんてないんだから。ぎゅっと目を閉じて衝撃に備える。大きく茂みが揺れる音がして、エリナが息を飲む声がした。

『おい、エリナ。どうした、状況は!?』

「あ、えっと」

「……あれ?」

 想像していたような痛みは襲ってこない。エリナもどこか惚けたように話している。一体どういうことだ。恐る恐る目を開けてみると、目の前には。

「い、犬?」

「わふ」

 真っ白な犬が、目の前にいた。

「キャスト、確認しました。……とりたてて害はなさそうです」

「いやまって! すごいある! 重たっ……!」

 勢いよく飛びついてきた白い塊を避けきれず、そのまま無様に尻餅をついてしまった。そのままベロベロと顔中を舐められ、ついでに全体重を使ってこれでもかと言わんばかりにのしかかられる。見た目は普通の中型犬なのに、こうされると重たくて仕方ない。俺は今まで犬を飼ったことがなかったから知らなかったけど、犬ってこんなに重くて熱いのか!

 わふわふと鼻息も荒くじゃれてきて、ようやく落ち着いてのかと思うと今度は耳を甘噛みされる。すげー痛い。甘くねーし。なんだこれ。

「キャストって、この犬が!?」

「そうです。しっかり反応が出ています。えっと、名前は……」

 シミひとつない真っ白な毛並み、バカみたいに人懐っこい性格、それからぺたんと垂れたさんかくの耳。こんなの、俺が知っている中でひとつしかない。

「お前、まさか……『お供の犬』?」

「ワン!」

 ええ、マジで? 本当に? ここにきてまさか最初のキャストが『お供の犬』って。ここ『シンデレラ』の世界だろ? なんでお前がいるの。

「チーフには伝え忘れていたんですけれど、対象書物が『シンデレラ』だからといってキャストが全てその登場人物とは限らないんです。何かしら因果関係のあるものが引きずられて召喚されることもある……大丈夫ですか?」

「大丈夫に、見える?」

「いいえ」

「だよね!」

 何が嬉しいのかパタパタ尻尾を振りながら俺の顔を舐め続ける『お供の犬』を押しのけながらエリナに返事をする。とりあえず助けてもらいたいけど、これはちょっと距離を置いたくらいじゃすぐに見つかってしまいそうだ。あー、かわいいけど。すごくかわいいけど。こいつ、確か星一なんだよな。俺育てねーや。本当に役に立つのかな。

 絶対に言葉は通じないであろう『お供の犬』に舐められながら、頭上に広がる満天の星空をぼんやりと眺めた。ああ、もう夜なのか。俺、これらかどうしたらいいんだろう。成り行きでエディットしたけど、これやばくなったら帰れるのかな。それともずっとこのままなのかな。生き残れる自信が皆無なんだけど。

「あの、犬さん、ちょっと離れてください、チーフが死んじゃいます!」

「死なない、死なないけど……なあ、これからどうしたらいいの?」

「そうですね。チーフは訓練を受ける時間がなかったので実地で経験を積んでいく、というのが博士の方針です」

「マジかよ、どんだけブラックなのここ」

「人員不足ですからね。でもチーフは何事もなくエディットできましたし、きっと素質があるんだと思います!」

 そんな素質があるとは思えないけどなぁ。俺は何事も平凡な男だし。変わったことといえば名前が少々大げさなくらいで。それでも本当にやれるのだろうか。物語を、世界を救うだなんて。

 とはいえ。悩んでいてもしょうがない。まずは色々調べてみないと。確かゲームでは、エディット直後に仲間ができたはずだ。あれはそう、確か『魔法使い』だった。シンデレラにドレスやガラスの靴を与えた初老の女性が、味方になってくれた。さすがに今回もいるだろう、強くて、頼り甲斐のある、絶対的な仲間が。

「……って、まさか」

「わふ?」

 肩のあたりにあった真っ白な前足を掴んで、勢い良く起き上がる。それを新しい遊びと勘違いしたのか、『お供の犬』は嬉しそうにワンと鳴いた。ハッハッと舌を出して喉を鳴らす。うん、可愛い。可愛いけど。いやいや待ってくれ。本来ならこのタイミングで『魔法使い』が現れたはずだ。なのに、なんで。

 俺の前には、この犬しかいないんだ。

(おかしいだろ……だってこれ、あのゲームだろ? だったらここで登場すべきは『魔法使い』じゃあないのか)

 何かがおかしい。俺のしっているゲームだけど、それとは何かが違う。それもそのはずで、本来なら主人公は大学生だ。でも俺はその辺にいる会社員で、ついでに言うならVR体験会でエリナに連れてこられた。でもそのエリナも、あの時のエリナとはどこか異なっている気がする。

 だったら、これは何なんだ。俺は一体、どこに来てしまったんだろう。

「えっと、チーフ?」

「いや……なんでもない。以降、兎にも角にも情報収集だ」

「はい!」

 たとえ俺の知っているゲームと違っても、ここで戦わないと生きていけない。だったらとにかく前に進むのみだ。いくらあがいても俺の名前が変えられないように、俺の運命だって変えられない。変えられるのなら、それはもう運命ではなく俺の道だ。

 ポケットに入れた万年筆をぎゅっと握りしめる。よだれでベトベトになった頰をぐいと拭って、目の前にある屋敷に向かって一歩踏み出した。

☆☆☆



 広くて古いお屋敷は、防犯意識が低いのか外から窓の中が丸見えだった。おまけに夜だというのにカーテンもしていないから、誰が何をしているかはっきりとわかる。こういう、いかにもお膳立てされた展開に俺は改めてこれがゲームの世界なんだと実感する。だって、カーテンが閉まってるから中が見えずゲームオーバーです、なんてありえない。これ幸いと思いながらそっと建物の中を覗いてみると、そこには四人の女性がいた。

 そっとポケットから万年筆を取り出してキャップにはめ込まれた宝石を一人一人にかざしてみる。熟れたザクロみたいな色をしたガーネットは、ただ月の光を受けて輝くだけだった。

「ミスプリ反応は無し、と。エリナ、そっちは?」

「周囲にもありません。ここはある程度安全なようですね」

「よかった。こっちは今『お供の犬』しかいないんだ。戦闘になっても太刀打ちできないからな」

 物語を侵食する敵を、アケルナルでは『ミスプリ』と呼ぶ。日本語だと「誤字」とか「脱字」とか、「誤植」という言葉が当てはまるだろう。彼らは寄生虫のように物語に巣食い、そうして侵食していく。中にはキャストを取り込んで操るものもいるけれど、現段階でその心配はなさそうだ。

 物語を修復する「編集者」と呼ばれる人は、このミスプリを倒して失われた言葉を回収することを第一任務とする。言葉の断片を集め、白紙の本に再び書き起こし、そうして復元していく。それが「エディット」と呼ばれる行為の唯一にして、最大の使命だ。だから「編集者」はミスプリと戦うわけではない。そもそも戦える力はないのだ。触れることはできるけれど、傷をつけることはできない。そこまで深く物語に介入できないのだ。

 だからキャストを召喚し、代わりに戦ってもらう。俺はただ指示を出すだけだ。でもそれを一つでも間違えると大惨事になってしまう。ゲームだったら、パーティが全滅してもコンティニューができた。万年筆のインクを使って全員回復させることもできた。この場合、再びインクが溜まるまでに長い時間がかかるけれど、それでもゲームの中ではそういう救済措置があるのだ。

 でも今は、それはきっとない。インクを使えば助かるかもしれないけれど、多分それはこのエディットで一回しか使えないだろう。そう簡単に頼っていいものでもないのだ。

「とりあえずあの子がシンデレラ、であってるのかな」

「おそらくそうでしょうね。分かりやすいほどに灰まみれです」

「灰かぶり姫、か。今ならイジメで炎上してもおかしくないよな」

「炎上?」

「あー、こっちの話」

「はぁ」

 先ほどから足元を走り回っている『お供の犬』に静かにするよう言いつけて、これからの計画を考えることにした。いきなり屋敷に入っていくのはあまりに浅はかだろう。たとえこれが物語であってもそれくらいの常識はまかり通っているはずだ。だとしたら裏口とかでこっそり出会うしかないけれど、変に目立ってしまったら動きにくくなってしまう。さてさて、どうしたものか。

 そんなことを考えていると、屋敷の光が消えた。もう夜遅いのだろう。かすかに罵声が聞こえてきた気がするけれど今は聞こえなかったふりをしよう。どうやら皆就寝のようだ。こうなってしまえばもう俺たちに出来ることは何もない。いつまでもここに居たって策は生まれないし、何より正直ちょっと眠たい。だって俺、今朝すごい早起きだったし。ビッグサイトに行くために早起きして、りんかい線に乗って。まだこの世界に来てから一日も経っていないのか。おかしな話だ。

「どこか休める場所を探しましょう。この時間だと宿は空いていないでしょうから野宿になってしまいますが」

「あー、まあしょうがないよな。今は休んで明日から行動開始だな」

「はい。どうやらこの屋敷から半径1キロ圏内は安全地帯のようです。ミスプリもおそらく現れないかと」

 どこかで休める、と思った途端に身体中がずしりと重たくなった。頭もなんだかうまく働かない。想像以上に疲れていたようだ。早くどこかで横になりたい。いや、横にならなくてもいいから一息つきたい。屋敷がちょうどよく見えるような場所にあった大木の下に腰掛ける。制服であるジャケットを脱いでネクタイを緩める。これで少しは楽になった。エリナも同じようにしていた。

 本当ならここでうっすら透けたブラウスとか、細くて白い首元にドキッとしたりするのだろう。ゲームをしている時はちょっとドキッとした。普段清楚で真面目だからこそこういうラフな格好にときめく、はずなんだけど。今は正直それどころじゃない。手足は重たい鉛が取り付けられたようにずっしりとしている。そういえばお腹も空いている。喉も渇いたな。足はだるいし、今目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうだ。明日、どうするかまだ何も決めていないのに。

「チー……先輩、あの」

「ん、あ……ごめん、ぼーっとしてた。どうしたの?」

「いえ。お疲れのようだから私に何かできることがあればと、思ったのですが」

「あー……ありがと、エリナは優しいね」

「そんな! ただ、先輩のお力になりたくて……!」

 エリナだって疲れているはずなのに簡易野宿セットを取り出して火を焚いてくれたし、小さなやかんでお湯を沸かして簡単なスープも作ってくれていた。俺がこんなに情けなくてどうする、と思うけれど本当に何をしたらいいかわからない。それくらい頭の中も疲れ切っていた。

 こちとら一日の半分以上を座って過ごすデスクワーカーだぞ、一日の総歩数が五千歩もいかないんだぞ。駅の階段なんてここ数ヶ月使ったことがないというのに。あー、無理、ふくらはぎ痛い。

「……筋トレしときゃよかった」

「え?」

「いやいや、こっちの話。……あー。ゲームの主人公って、体力が必要なんだな……!」

 千里の道も一歩から、物語の編集も一文字から。焦っていても仕方ない。今はその最初の一歩を見つけ出さないと。

 エリナに手渡されたプラスチックのカップには、コンソメスープが入っていた。お湯を注ぐだけの簡易的なものですが、と言っていたけれど、暖かい湯気になんだか涙が出そうになる。甘くて香ばしい香りがとろりと胃の中に流れ込んでいく。それだけで気力が蘇ってくる気がする。体力は、相変わらずだけど。

 スマホゲームのいいところは、何にあげてもその手軽さだと思う。好きな時間に、好きな場所で、気が向いたときにその世界に赴くことができる。現実の狭間にあるわずかな異空間がスマホゲームで、それこそが取り柄だと思っていたのに。こうも、逃げ場がないとやはり息が詰まってしまう。正直、これからどうすればいいかわからないし。アケルナルにも戻れそうにないし。それに味方がこの犬一匹だなんて。

「こんなのバグだろ、詫び石くれよ」

「先輩?」

「なあ、エリナはこれからどうしたらいいと思う? 手詰まり感がすごいんだけど」

「お話はまだ序盤ですよ? そんな諦めムードは……」

「いや、でもさぁ。この犬一匹でどうすればいいんだよ。☆1じゃん?」

「星?」

 そうか、この世界だとレア度は可視化できないのだ。俺は実装されているキャストのほとんどを召喚しているから、誰がどういうレア度で、どういう攻撃をするかある程度把握している。でもエリナには、それがわからない。キャストは等しくキャストであるという認識なんだろう。

 だとしたら、もしかするとこの『お供の犬』もうまく使えばうまいこといくのか? でも確か噛み付くとかそれくらいのことしかできなかったような。ううん、本当になんとかなるのだろうか。

「そういえばまだお伝えしていなかったことがあるんです」

「え?」

 深刻そうな顔でエリナがそう言う。一体何か悪いことでもあるのだろうか。俺の知っているストーリーとは現時点ですでにいくらか異なる。だとしたら、もしかすると何か思いがけない差異があってもおかしくはない。

 それに、俺はアンデルセンから何も教えてもらうことなくエディットしたのだ。無理やり詠唱を頭に詰め込み、万年筆の使い方をこれまたざっくりと教えてもらっただけだ。だとしたら。もしかしたら。

 ゴクリと生唾を飲み込む。

「実は」

「実は……?」

「お話が進まないと、同じ日を何度も繰り返すことになるんです」

「えっ……ああ、まあ。そうだろうね」

 聞かされたのは、俺にとっては至極当然のことだった。このゲームにおいて、物語の中の時間はすなわち「物語の進行」を意味する。ミスプリを倒し、言葉を回収し、そうして物語を紡ぐことでようやく前に進めるのだ。だから今のままでは何度もこの日を繰り返すことになる。

 一度大まかな流れを知っていれば、ある程度次はどうすればいいか考えることはできる。次にこういうことが起きるから、自分はこうすればいい。大まかな筋道が頭に入っていると動きやすいのだ。

 だが、これにはいくらか問題がある。

「物語の時間は進まなくても、私たち編集者の時間は進みます。しかもときの流れは本の方がはるかに早い」

「つまり、あんまりちんたらしてると俺たちの寿命が先に縮んじまうって、ことか」

「そういうことです。それに物語にとってみれば私たちも異物であることには変わりない。だからあまり長くここにいると、下手をしたら排除されてしまうかもしれません」

 ミスプリも編集者も、結局は物語にとっては部外者なのだ。こちらからしてみると「正しく編集してやってるんだぞ」という気持ちにもなるが、結局物語というのはそれを書いた作家にしか本当の意図はわからない。長い間の言い伝えで今のような形になったものもあれば、本当に誤字などが起きて今に伝わったものもある。でもそれを誰かが「正しい」といえば、本当に正しいものになってしまう。

 俺たちのやっていることは、その「正しい」ものに編集することだけど、果たしてそれが本当にさっかの意図していた形かどうかはわからないままだ。

『あー、聞こえるか。エリナ。それからイエヤス』

「博士!」

「あ、やっと通じた」

 先ほどまで何かの影響でか通信が途切れてしまっていたアンデルセンと、ようやく繋がることができた。いつもと変わらずイライラとせっかちそうな口調だけど、なぜか彼の声を聞いていると安心する。

『そちらの状況は』

「今日は収穫なし、ミスプリとも遭遇しませんでした」

『まあそうだろうな。初日から手がかりがあるとも思えん。どうやらあの屋敷一帯に結界らしきものが張ってある。そのせいでミスプリも出てこないんだろう』

 何かおかしいと思っていたのは、まさにそれだった。本当なら、もっと早く敵が現れてもおかしくなかった。むしろエディットしてすぐにでも、俺たちの目の前に立ちふさがってもいいはずだったのだ。

 だというのに、俺たちの前にいたのは真っ白の犬一匹で、おまけにそいつは今のんきにスヤスヤと眠っている。しかもエリナが俺のために出してくれた簡易毛布を奪って。よだれだけは絶対に垂らすなよと念じながらジロリと睨むと、そんなことお構いなしといった顔でぷうぷう寝ている。

『明日は、というより、日が昇ったら森の中を散策してみろ。ここに留まっているよりはまだ何か得られるものがあるかもしれない』

「わかった。なあ、アンデルセン」

『何だ』

「これってさ、途中でアケルナルに帰れるの?」

『はぁ?』

 あ、何だかこれは嫌な予感がする。全くもって長い付き合いじゃないし、顔も見えないけれど。彼がこういう言い方はするときは大抵俺を馬鹿にしている時だ。詠唱を覚えられなかった時もそうだけど、なぜかアンデルセンは俺が最初から何でもできるものだと思い込んでいる。できるはずないだろ。ゲームで知ってるけど、実際にやるのとは全然違うんだよ!

『帰られるはずないだろう。お前がここに戻ってこられるのは最後のピリオドを打った時。つまり、エディットが全て終わった時だけだ』

「……ですよねー」

 それってつまり、俺は何とかエディットを終わらせるか、この世界でのたれ死ぬかかのどっちかしかないのだ。え、でも待って、それって俺、すごく不利じゃない?

「ガチャ、できないの?」

「先輩?」

「いや、こういうゲームってさ、最初にサービスで十連回せるじゃん? そこで強いキャラ引いて、まあ出るまでリセマラするんだけど。で、そうやって楽に回るわけじゃん? 俺、それができないってこと?」

「り、りせまら? どうしたのですか急に」

 いやだって。リセマラしないとこれ普通に進めるの無理だろ。俺だって☆五が出るまで何回もリセマラしたい。結局出なくて、☆四で妥協したけど。それでも結構大変だったんだ。なのに俺のとこにいるのって、☆一の犬だけって。

 絶対こんなの、勝てるわけないだろ!

「……せめて今のピックアップだけでも回したかった」

「はぁ……」

 俺が混乱の為かうわ言を言っているとでも思っているのだろう。エリナはもうそれ以上何も言ってこなかったし、アンデルセンはいつの間にか通信を切ってるし、犬は相変わらず眠っている。俺、本当にこんなので世界を救えるのかな。

 大きなため息が夜空に消えて、そのままごろりと横になった。まあ、明日になれば何か変わるだろう。いや、変えなければ。うん、頑張ろう。ツイッターで人気のガーチャーをなめるなよ。ガチャできないから本当にその称号は意味ないんだけど。でも、こんなところで死んでたまるかってんだ。

「お休みなさい、先輩。明日はがんばりましょうね」

「うん。エリナもおやすみ」

 いい夢を、という小さな声が聞こえて、それがまるで魔法のように俺の瞼はするりと重たくなり閉じていった。それから全く夢を見ることなく眠れてしまったから、もしかしたら俺も大概神経が図太いのかもしれない。

 その日見た夢は、俺が初めて『絵のない絵本』をプレイした時のものだった。スマホゲームというものに面白さを見出せず、どうせこれも大したことないんだろうと勝手に思っていた。そうやって半信半疑でインストールして、適当に名前を入力して、スタートボタンを押したあの日。確かに絵は綺麗で、音楽も壮大で、まあでも最近のゲームってどれもそんなものだよなと思っていた。

 でも進めれば進めるほど、のめり込んでいった。話に引き込まれるというのは、きっとこう言う事なのだろう。俺は普段、あまり小説を読まないからその言葉の意味はよくわからなかったけれど、この時になってようやく実感できたと思う。

 あ、面白い。そう思って、スタミナが切れた時にガチャの事を知った。石を貯めればガチャを回せる。ガチャを回せばたくさんキャストが来てくれる。強いキャストなら戦いも楽になるだろうし。それで試しに回してみた。光り輝く虹色の輪、神々しく現れるキャストの影。ああ、これは病みつきになる。その確信は間違いではなく、次の日に俺はコンビニで課金用のミュージックカードを買いに行っていた。

 召喚ボタンを押すあの一瞬、胸がドクリと高まる。今度はどのキャストが来てくれるだろうか。どんな物語を見ることができるのだろうか。たくさんのキャストに出会い、そうして物語を紡いでいく。そのことが、俺はきっと、楽しかったのだろう。

(まさか本当に物語を編集する立場になるなんて……夢にも思わなかった)

 夢の中でそんなことを考えるなんておかしな話だ。夢の中の俺は部屋の隅っこで黙々とガチャを回している。端から見ると本当に根暗でかわいそうなやつに見える。きっと世間の大半は俺をそうやって評価するだろう。でもその時の俺は、誰がなんといっても、きっとこの世の誰よりも充足感を得ていただろう。

 目の前が黒い渦に包まれる。小さくて丸まった俺の背中はそこに吸い込まれていって、自分の立っている足元がぐにゃりと歪んでいった。誰のものかわからない声が響いてくる。うわぁんと反響して、頭の中に鳴り響いた。

 お前は。

 そんな自分を、愚かに思うか。

 そんな自分を、哀れに思うか。

 そんな自分を、惨めに思うか。

「そんなことない」と、胸を張って言えたらどんなに良かったか。これは俺が望んだことであって、好きでやっているんだ。そんな、姿も正体もわからないやつに指図されてたまるか。そう言えればきっと良かったのだろう。なのに言葉は出てこない。喉に鉛がへばりついたように、言葉は詰まって出てこようとしない。

 形の残らないものに何千万円もかけるなんて。それの何が楽しいんだ。そう言われることも何度だってあった。その度に俺はそのアカウントをブロックして見えないようにしていた。それでいつも逃げていたのだ。自分でもかすかに抱いている疑問を直視しないように。でも俺は、そうでもしないと居場所がなかったのだ。いつの間にか俺にとって課金はガチャを回す楽しみではなく、作業のようなものになっていた。レア度の高いキャストを五人ひいて、それをツイッターにあげる。そのためだけに課金をしていたのかもしれない。

 だから育てていないキャストだって何人もいるし、不必要だと思ったらためらうことなく素材にしていた。そんなことでしか自分を表現できないなんて。そんなことでしか自分を確立できないなんて。それを惨めと言わずなんというのか。このゲームがなくなってしまえば俺は何もできない人間になってしまうのか。名前だけが仰々しい、かといって何かができるような人間でもない。そういう、つまらない人間になるのか。

 いやでも。仮にそうであったとしても、俺は。

「先輩!」

「うわっ!」

 突然耳元で聞こえてきたエリナの声に、俺はパチリと目を覚ました。それまで重苦しかった呼吸が一瞬で楽になる。心臓がばくばく跳ねていて、全力疾走したあとみたいに身体中がだるかった。あれは、一体。

「大丈夫ですか? うなされていたように見えて、声をかけてしまったのですが」

「あ、ああ……変な夢を見たんだ、ごめん、もう大丈夫」

 空はもう明るくなっていて、太陽は頭の先だけ見えていた。そうか、もう朝か。日の光が当たって少しずつ暖かくなっていく。それでも俺の手は指先までひんやりと冷たかった。たかが夢だというのに、ここまで振り回されるなんて。

 しかも内容が最悪だ。もっと楽しいものだったらよかったのに。あんな、自分が消えてしまいそうになる夢なんて。

「……っ!」

 思い出しただけで胃の中がヒックリ返りそうになる。恐ろしかった。心底、恐ろしかった。得体の知れない何かに引きずり込まれそうになる恐怖というのを初めて知った気がする。

「先輩、あの、もし差し支えなければ夢の内容を教えてもらえませんか?」

「え? 内容?」

「そうです。この世界ではミスプリが編集者の無意識に入り込んでくることもあるんです。もし先輩が見た夢がミスプリによるものだったら、早いうちに処置をしておかないと」

「そんなのもあるんだ……」

 確かに思い出してみると不思議なことが多かった。自分を他人のように見ることも、夢だというのに意識がはっきりしていたことも。それに、俺の自我を壊そうとしてくるやりとりも。そうか、あれは攻撃だったのか。

 ミスプリにとって一番の脅威はやはり編集者である。いくら物語を消そうとしても、その端から編集されたらたまったものではない。だとしたら、中にはこう考えるミスプリも出てくるだろう。「物語ではなく、編集者を先に消してしまえばいいのではないか」と。悲しいことに編集者はミスプリそのものを消すことはできない。キャストじゃないと倒すことはできないのだ。

「内容は、あんまり覚えていないんだけど。でも多分ミスプリの影響だと思う」

「そうですか。こんなに早く攻撃されるとは思っていませんでした、私の判断ミスです」

「いやいや、でも初めてのエディットだしさ。わかんなくて当然じゃない? 俺も今はなんともないし」

 このままだとエリナまで落ち込んでしまいそうだ。慌てて明るい声を出すと、エリナも少しは安心したのか弱々しく笑った。まあ、何はともあれ今こうして俺が攻撃されたということは、何も悪いことだけではない。

 今後の手がかりになるようなものは得られたのだ。

「この森にいるね。きっと」

「そうですね。寝込みを襲うとなればある程度の近さがないとできません。それに夢に入り込むとなればおそらくは夜行性でしょう。太陽が出てきた今なら捕まえることができるかも」

 寝込みを襲うってのはちょっと違うんじゃあないのかな、と思うけれど実際襲われたのは事実だ。なんだか腑におちないけれどここはおとなしく従っておこう。片付けはエリナに任せて俺は『お供の犬』を起こしにかかる。こんだけ騒いでいたのにピクリともせず安眠しきっていた。お前、本当に犬か? ふわふわの体を何度か揺すって、それでも起きないから耳元で大きな声を出したらようやく目を覚ました。

「起きるのおせーよ。ったく」

「わふん」

 わふわふと大欠伸をして、それから懲りもせず俺に勢い良く飛びついてくる。何がそんなに嬉しいのか尻尾をブンブン振り回しながら顔じゅう舐めてきて、それを横目で見ていたエリナがようやく声をあげて笑った。

「エリナ! 笑ってないで助けて!」

「いやでも、キャストとの仲を深めるのも大切なことですし」

「もう十分! 仲良い! 間に合ってるから!」

「キャン!」

 この後、たぶんミスプリとの戦闘になるだろう。なのにこんな平和で本当にいいのか? でも変に緊張しているよりはもしかしたら逆にいいのかもしれない。俺は何もできないけど、この犬に頑張ってもらおう。耳の裏を指先で掻いてやると気を良くしたのかまた俺の鼻先をペロペロ舐める。

 ちょっとだけ、こいつのことをかわいいと思った。

「お供の犬さんも起きたことですし、早速森に行ってみましょう! 敵を倒せばその分物語も進みます。先輩はまだわからないことばかりで混乱すると思いますが」

「ううん、大丈夫だよ。目的もなく彷徨うよりは気持ちも楽だ」

 立ち上がって尻についていた草を払い落とす。ほとんど地べたに寝転がっていたから背中は痛かったけれど、それでも気持ちは多少上向いていた。夢のこともミスプリの攻撃だと思えば乗り越えられる。むしろ「ああ、そういえばそんな攻撃もあったなぁ」とストーリーを思い出せるくらいには余裕も生まれてきた。そりゃ、確かにゲームで見るのと実際に経験するのは全然違うけれど。でもまあ、なんとなく流れを知っていれば心持ちも変わってくる。案外神経が図太いんだなぁ、と大きなあくびをしながら深い森へと足を向ける。

 この辺りはまだ一章だから敵もそこまで強くないはずだ。ただまあ今のところ味方が犬しかいないってのが難点だけど。

「そういえば気になってたんだけどさ」

「はい、なんでしょう」

「レベル上げって適応されんの? この犬、今レベルがどのくらいとかわかったりする?」

「レベル……ですか?」

「そう。さすがにレベル1ってわけじゃあねーだろ?」

 そこまで言って、何か嫌な気がした。何だろう、そこはかとなく感じる「お前何言ってんの」感。何その反応。すごく怖いんだけど。だって☆1でレベルも1とかだったらマジで詰んでるよ? さすがの俺もそんなので勝てる自信はないよ?

 でもエリナは相変わらずキョトンとした顔をしている。必死になって思い返してみるけれど、確かに物語の中で主人公もエリナも味方のキャストやミスプリに対してランクがどうのとか、レベルがどうのとか一切言及しなかった気がする。でもこちらは全部数字としてみることができたし、それを基準に編成とかも考えていた。

 いやー、まさかね。まさかでしょ。嘘だと言って!?

「あの、先ほどから仰られている星とかレベルというのはチーフにのみ与えられた能力、なんでしょうか。私にはそういうものは、申し訳ないのですが全く知ることはできません」

「マジデスカ……」

 なんとなくわかってはいたけれど、実際言葉にされると結構ショックが大きい。そうか、エリナにはランクもレベルも見えていないのか。俺にも見えていない。ということは、待って、まさか本当に俺はレベル1の犬だけで戦わないといけないってこと? それはさすがに厳しいかなぁ……。

「まあ、なんとかするしかないか。いつまでもここにいるわけにもいかないしな」

 できないことに文句を言ってもしょうがない。だったらできることをきちんとやったほうがよほどましだ。体力的にも、精神的にも。唯一の戦力である『お供の犬』を軽く撫でてやる。気持ち良さそうに鼻を鳴らして足元にじゃれついてきた。戦力というかもはやペットみたいな気持ちになってはいるけど、これはもういいだろう。

 立ち絵だけ見ると普通の犬って感じだったけど、実際に見てみるとなんだか愛着が湧いてくる。だからこそあんまりひどいことになって欲しくないのだ。傷ついたり、怪我したり、ましてや消滅してしまうなんて。そういうことはなるべく避けたかった。だからレベルのことを聞いたけど、これはもううまく立ち回っていこう。

「チーフ、目前にミスプリ反応があります!」

「やっぱり! 数は?」

「二つ……いや、三つです!」

 ここで全て倒しきれば一気に物語は進むだろう。倒しきれなくても、一つ倒せばそれで十分。まずはここでの戦闘がどんなものか見ておこう。それで何か掴めたら申し分ない。

「行くぞ、『お供の犬』! 怪我だけはすんなよ!」

「キャン!」

 どろりと、目の前の風景が歪んだ。空間が避けてそこからとろりと黒いインクが流れてくる。その途端ゾッと背筋が凍るような気がした。気温が二度くらい下がったんじゃあないかというくらい、寒気がする。

 これがミスプリか。ゴクリと生唾を飲み込む。レベルも低い、弱いものだとわかっているけれど、それなのにここまでの力があるのか。垂れてきたインクは次第に形を作っていき、何か文字のようなものになっていく。それが一体どういうものなのか俺にはよくわからない。誤字なのか、脱字なのか、それとも誤植なのか。どういう形で物語を汚しているかわからない。でも、きっと今の俺たちにとっては不要なものだ。

 物語を守るためには、いらないものだ。だったらこの手で消すしかない。

「チーフ、その敵には物理攻撃が効きます!」

「わかった!」

 だったらもうこの手しかない。『お供の犬』の首根っこをつかむ。何が起きたかさっぱりわかっていない犬の耳元で俺はこう囁いた。「目の前にいるのは、お前の餌だぞ」、と。昨夜から何も食べていないし、朝も食べるものがなかった。俺だって腹が減っているのだ。こいつはきっとそれ以上だろう。俺の言葉に、それまできょときょと動かしていた瞳がパチリと瞬く。それから意味を理解したのだろうか、途端に目の前にいるミスプリをじっと見つめて、ペロリと舌なめずりをした。

 それからぐっと足に力を入れて今までの動きから想像できないほどの速さで飛びかかっていった。




☆☆☆




 正直なところ、本当にミスプリが『お供の犬』の餌かどうかなんて知らない。そもそも食っていいものかも知らない。でもそうやって焚きつけることは必要だろう。

 うん、俺は間違ってない。

「間違ってない、と、思うんだけど」

「あの、チーフは何と言ったんですか?」

「えー? お前の餌だよ、って。そんだけ」

「それで、ええと……まあ、なるほど」

 結果として、俺が想像していた以上にあの言葉は効果があった。一体目のミスプリを一噛みしたかと思うと、そのままバリバリと嚙み砕き次の個体に飛んでいく。前足で押さえつけて口の中のものを飲み込む前にかぶりついた。そこまでだいたい十秒もかかっていないだろう。両足を真っ黒にしたまま残りの一体を組み伏せた時、真っ白だった毛並みはまるで牛のようにまだらになっていた。

 これ以上はグロくなりそうだったから急いでよびもどしたら、褒めてもらえるのかと思ったのかちぎれそうなほどに尻尾を振っている。その拍子に黒いインクが飛び散って、危うく顔面にかかりそうだった。

「えっと、ミスプリ消滅を確認しました……回収作業に移りましょう」

「……そうだな」

「なんというか、その、野生というのはすごいですね……」

 すごいというかなんというか、これはもう食欲の恐ろしさというのだろうか。目にも止まらぬ速さで次々と敵に噛み付いていく姿は恐ろしい以外の何物でもなかった。まあ鬼を倒しているんだからこれくらいは朝飯前なのかもしれない。

 倒したミスプリは、今みたいにインクのような形状になる。それを万年筆で吸い取って白紙の本に流し込むのだ。これが俺たち「編集者」に与えられた仕事で、エディットの内容だ。万年筆のキャップを外して後ろ側にあるカートリッジを緩める。その瞬間、辺り一面に散らばっていた黒いインクが万年筆に吸い込まれていった。『お供の犬』にかかっていたインクも無くなって、あっという間に元の真っ白な毛並みに戻っていく。真っ黒な渦が吸い込まれていく様は少しだけおぞましくて、それでもこれが物語になるのかと思えば悪くないようにも思える。

「よし、これで回収終了、かな」

「そうですね。それじゃあ編集作業を行いましょう。これできっと物語が進むはずです」

 白紙の本を開く。ペン先を向けると、勝手に万年筆が動き始めた。サラサラと物語が綴られる。

 童話の始まりは、やっぱりいつものあの言葉だった。

『昔むかし、ある紳士が、滅多にないほどうぬぼれが強くて、とても傲慢な女性を二番目の妻に迎えました。その女性には前の夫との間に生まれた二人の娘がいて、実際のところ、すべてにおいて彼女と娘たちはよく似ていました。』

 これが、この物語の始まりだった。




☆☆☆





 ようやく最初の一ページを回収できたが先はまだまだ長い。これを全部埋め尽くすために、俺たちは一体どれほどのミスプリを倒さなくてはいけないのだろうか。なんだか気が遠くなってくる。

 とはいえ、まずは一ページだ。ここから話が進めばきっと少しは楽になるだろう。

 俺たちは再び森を抜けて屋敷へと戻ることにした。これでシンデレラや他の登場人物たちと話すことができたら、もっと話は進むだろう。兎にも角にもある程度の接触は必要だ。昨日はカーテン越しのシルエットでしか確認できなかったが、今日こそはちゃんと顔を見たい。

 ミスプリと遊んで(多分そういう認識でいる)『お供の犬』も心なしか上機嫌で、軽い足取りで俺たちの後ろを付いてくる。あれは本当に餌として役に立ったのだろうかということは考えないようにして、こいつがある程度の戦力になったことに感動する。

 だってランクもレベルも低いはずなのに。それなのに立った一匹で三体ものミスプリを倒してしまった。俺、正直こいつのスキルとか全然知らないんだけど。案外強かったんだなぁとしみじみ思う。

 手元にスマホがあればゲームを立ち上げて確認できるのに。アケルナルに到着してからこのかた、俺は自分のケータイは愚か財布さえもどこにあるか見つけられなかった。まあ今はそれらがなくても困らないからいいのだけれど。

 あ、でもフォロワー減ってたらやだな。あと仕事大丈夫なんだろうか。普通に一晩過ごしてしまったけれど、これってもしかしたら無断欠席になる? 無事元の世界に戻っても色がないとかだとそれは困る。

 仕事がないとお金を稼げないし、お金を稼げなかったら俺は課金することができない。まあ、最悪の場合は転職すればいいか。別に好きで入った会社でもないし。

『おい、イエヤス』

「え、あ、はい?」

『お前、独り言がうるさいぞ』

「へぇっ!?」

 いつのまにか通信が繋がっていたらしく、突然アンデルセンに呼ばれたかと思ったら開口一番ひどい罵声を浴びせられた。俺の独り言がうるさいのは今に始まったわけじゃあない。一人暮らしをすると自然と多くなるっていうし、あまり人と話すこともないから結果こうなってしまった。

 あ、でもどこから聞かれていたんだろう。課金のところだったらちょっと恥ずかしいなぁ。いや、別に課金することを恥ずかしいと思っている訳ではないけれど。でもなんだろう、こういう時も俺は課金のことが最優先に考えるんだと思うと、それはそれでちょっと自分に引く気持ちもある。

『今後のことについて話すが、いいか』

「あ、はい。大丈夫です」

「先ほどの戦闘については報告済みです。問題はこれから、とのことですが……」

『ああ。回収した部分については確認した。初めての先頭にしてはよくやった、と言っておこう』

 アンデルセンの言葉に、思わずパチクリと瞬きしてしまった。あのアンデルセンが手放しで俺を褒めるなんて。これは明日、雨が降るな。いや物語の世界なんだから槍が降ってもおかしくない。その場合、俺は間違いなく死んじゃうけど。

『お前が驚いてどうする。俺が褒めているのはそこの犬っころだ』

「あ、そっち」

「当たり前だろう。お前は何したんだ、言ってみろ」

「いやー、特に何も」

 強いていうなら後ろの方であまりにも黒い光景に目を覆っていただけだ。だってあれ、結構すごかったぞ。口の周りをインクまみれにして戯れる、もとい襲う犬の姿なんて。表情がまた生き生きとしているから余計に。

 なんにしても俺が褒められたわけではなく、やっぱりいつも通りのアンデルセンだなと安心した。実際に出会ってからはまだ一日くらいしか立っていないけれど、ゲームの中では本当によくお世話になっている。

『だが残念な音に、お前たちが回収したのはまだ冒頭だ。肝心のシンデレラはまだ出てこないし、言ってしまえば人物紹介の段階で止まっている』

「つまり?」

 確かに今回俺たちが回収できたのはシンデレラの家族構成を紹介するところだけだった。実際に誰かが何かをする、というところまでは行き着いていない。

「もうちょっとミスプリを倒さないとダメってことか」

『話が早くて助かる。そういうわけだ。時間はまだあるだろう、その辺をもう少し探索してみろ』

 森の奥まで行くと、今度はミスプリの影響で迷ってしまうかもしれないのだとか。だが屋敷の近くは何かしらの結界が張られ、逆にミスプリはあら割れない。俺たちに与えられたのは街中で探索をするか、この辺をぐるぐる回るかの二択だった。

 そういえば実際にゲームでもそんな感じだったな。どちらを選ぶかによって若干ストーリーに変化はあったけれど、結末に大きな影響はなかった気がする。今回もおそらくそういう感じだろう。

 さて、どうしようか。森の中でミスプリを探してもいいし、街に出て情報収集をしながら敵をたすでもいい。

「こういう時、ツイッターとかがあればアンケート機能で聴くのになあ」

「アンケート?」

「そう、みんなに聞いて、おい方を選ぶ。これだと民主的だしこっちも安心だろう?」

 俺が今までにアンケートで聞いたことがあるのは、「お目当のキャラがまだ引けていません。課金するべきでしょうか」と言った内容で、回答項目は『一万円だけする、五万円だけする、十万円だけする、いいから黙って課金だよ』だった。一番最後の欄が一番多かったのは言わずもがなだろうし、実際に言われなくても出るまで回したからあんまり役に立ったとはいえないけれど。

 でもまあ、こうやってアンケートがあれば色々と聴くことができる。ただあいにくと手元にケータイはないし、頼りになるのは自分の決断力だけ、ということになる。さあ、困った。今まで目立たないようにするにはどうしたらいいかばかり考えてきたのだ。そういう結果になるようなものしか選べない気がする。

 でも今は目立つとかそういうのはどうでもいいのだ。俺たちが早いところこの物語を編集仕切ることが第一優先であり、俺のことは二の次ではある。

 うわ、俺、そこまで考えられるようになったんだ。すげー、成長したな。

『自分で自分を褒めるのはいいが、それを実際口に出すと台無しだからな。気をつけろよ』

「しょうがないでしょ! 今まで誰も褒めてくれなかったんだから! 自分で褒めるくらい!」

『悪いとは言ってないだろう。ただ、聞いているこちらが悲しい気持ちになるからやめてくれ、という苦情だ』

 別にアンデルセンに褒められたいわけではないし、褒めてくれなくてもいいんだけど。

 とりあえず、俺が今は決めないといけないのだ。前だったらきっと、あまり目立たなくて済むように森に残る方を選んでいたかもしれない。そうしたらエリナと『お供の犬』とだけ過ごせばいいのだから、めだつこともないだろう。

 でも今は、もっと多くの人と話して情報を得ないといけない。それにこの世界だと家康、なんて名前は別に目立たないだろう。へえ、そういう名前なのね、程度で終わるかもしれないし。それなら別に、何も心配することはない。

「よし、街に行こう。そんで何か食べたあと情報収集だ」

「了解! できれば宿も取りたいですね。二日連続で野宿というのはさすがにきついでしょうし」

 そういうわけで、俺たちは街に向かうことにした。ここから歩いて二十分ほどのところに大きな市場があるらしい。まずはそこから聞き込み開始だ。シンデレラについてと、それから彼女の家族について。ある程度の情報があれば、この次どう動けばいいか計画しやすい。

 それに、街中にもミスプリは潜んでいる。それらを倒しながら物語を進めていけば、すぐにシンデレラに会うことはできるだろう。ようやく道筋が立ってきて、気持ちも随分と楽になった。

「あ、ねえ。やっぱり俺、一度アケルナルに戻ることって」

『できん。最後のピリオドが打たれるまでは戻れんぞ』

「ですよねー……」

 やっぱりこの犬だけだと心もとないから、一発十連ガチャを回したかったのに。こうなったら本当にこの物語は犬だけで戦わないといけないのだろうか。

「まあ、結構強いしな、こいつ」

「わふん!」

「それに、もしかしたら協力者を得られるかもしれません。そうすれば今よりもっと戦いも楽になるでしょう。それも考えつつ、街での聞き込みを行いましょうね」

 そんなわけで、ようやく俺たちは一歩前進することができた。




☆☆☆




 多くの人々が行き交う市場を歩いていると、いろいろなところから客引きの声が聞こえて来た。こうしてみると、まさかこの物語が侵食されているとは考えられない。それほどまでに人々は活気付き、明るかった。四方八方から甘い果物を勧められたり、きらびやかな服を見せられた。エリナなんかはドレスだのなんだのを体に当てられて、この色がいいとか、こっちの素材の方が似合っているとか色々言われていた。

 俺はそう言うことに疎いから、店員に何か尋ねられるたびに「かわいいと思うよ」なんて言っていたら、なぜかエリナにこっぴどく叱られた。なんでだ。

「もう、先輩は本当、何もわかっていません!」

「えぇ、でも全部似合ってたんだよ」

「それは、あの、ありがとうございます……でも、それとこれとは話が別です!」

「はぁ……」

 乙女心というのはなかなかに難しいらしい。

「それにしても今日はどこもドレスばっかり売ってるんだな」

 大きな道に所狭しと並んだ露店は、八割くらいが呉服関係だった。仕立てられたドレスを売っている店や、生地を売っている店、それから髪飾りやアクセサリーなどの小物を置いている店もあった。キラキラした靴とか、宝石が散りばめられた指輪とか、そういうものが安価な値段で売られている。

 こういうところって普通果物とか、野菜とか、そういうのを売っているんだと思っていたのに。早く宿を見つけようと早足で大通りを抜けると、体感温度が2度くらい下がったような気がした。ミスプリが出たからとかではない。純粋に人の熱気がなくなっただけだ。どんだけ暑いんだよ、あそこ。蒸し風呂かってくらい暑かった。

 アケルナルの制服がかっちりしたジャケットだから余計に暑い。早々に脱いで、中のシャツも腕まくりをしていたけれどそれでも暑い。季節は多分春か秋くらいで、昨夜は野宿をしても気にならない気温だった。でも今は真夏か? ってくらい暑い。

「早く宿に行きたいな、汗流したい」

「そうですね。一旦休んでから情報収集に……あら、犬さんがいらっしゃいませんが」

「はぁっ!? あいつ、どこ行ったんだよ……!」

 森を抜けた時は確かに俺の足元にいた。市場でも最初の方はちゃんとついてきているか確認しながら歩いていたのだ。でも途中からそんな余裕がなくなってしまい、俺も人混みをかき分けて前に進むことが精一杯だった。エリナともはぐれてしまいそうだったし、何より下手に立ち止まるとそのままどこか知らないところに流されてしまいそうだったからだ。

 でもまああいつも一応犬だし、ちゃんとついてきていると思っていた。犬ってそういうものじゃん。でもなんでだよ。なんでお前がはぐれてるんだよ!

「くっそー、どこではぐれたんだろう」

「もしかしたらどこかで細い路地に入り込んでしまったかもしれません。そうなると土地勘のない私たちが下手に動き回るのは逆効果かと……」

「この辺にいるといいんだけどなぁ。探してみるか」

「そうしましょう! 博士にも捜索をお願いしておきます。ある程度近くにいれば察知できるので。博士、お願いしてもいいですか?」

『全く、どうしてお前はこう、面倒なことを持ち込んで来るんだ。イエヤス』

「俺かよ!」

 とはいえ、こうやって無駄な言い争いをしている間にも『お供の犬』はどこかに行ってしまうかもしれない。突然ミスプリとの戦闘が始まるとも限らないのだ。早く合流しないと俺たちの身も危険になる。

「あの大通りをまた歩くのはなぁ……」

「一本外れた道を探すのはどうでしょう。そこまで離れていないので、ある程度様子は見られそうです」

「よし、じゃあそれで」

 俺は前に進むのに必死だったけれど、エリナはちゃんと周りを見ていたようだ。さすが、頼りになるな。俺はゲームでここをプレイした時、街に行くのではなく森に残ることにしていた。それは普段から目立ちたくないという考えに従った結果で、ゲームの中で目立つとか目立たないとか関係ないのかもしれないけれど、どうしても無意識のうちに人目につかない方を選んでしまったのだ。

 だからこっちのストーリーがどういうものなのかよく知らない。知っているはずの物語なのにどこかワクワクしていて、そういえば俺も最初の頃はこういう感じでプレイしていたな、と懐かしく思った。

「おそらくここが大通りの隣です。本当なら二手に別れたいのですが……」

「俺たちがはぐれたら意味ないからな。一緒に行こう。これくらいの距離だったらアンデルセンも探索できるだろう?」

『できんことはない。感謝するんだな』

「はいはい、ありがとう」

 俺たちの万年筆には一応通信機能も付いている。ただ、そうなって来るとアンデルセンとの通信はできなくなる。また、それ以外の機能も制限されてしまうから確実に敵が出てこない場所以外ではあまり通信機能を使いたくなかった。

 こういうことになるなら首輪でもつけとけばよかったなぁ。それでリードつけとけば、はぐれることもなかったのに。でもそれってもう完全に。

「ペット、だよな」

「可愛いとは思いますが」

「でも一応キャストだし。ペットとは違うもんな」

 もしかしたら今後、一緒にエディットすることはないかもしれない。ここから先の物語は『シンデレラ』よりも過酷になっていく。その時に、『お供の犬』を連れて行くのはいささか不安だ。そうなるとアケルナルに置いて行くことになるし、アンデルセンと一緒に図書館を悠々と歩いている姿はまさしくペットそのものだ。

 とりあえず見つけたら宿に連れて行って、早く体を洗ってやろう。

「おお、確かにこの道なら大通りがよく見えるな」

「はい。奥の方までは見えませんが、足元は見やすいかと」

 裏通りは日陰になっていて幾分涼しかった。風が吹いてくると火照った体を冷やしてくれる。前髪がぺたりと額に張り付いていたけれど、それをシャツで拭って少し中腰になる。大通りを埋め尽くすたくさんの足の間に、あのふわふわした真っ白な毛玉がないか目を凝らした。

 どうせあいつのことだから俺たちが近くにいなくても悠々自適に歩き回っているんだろう。今朝方、俺とエリナが夢について話をしていても呑気に寝ていたくらいだ。ミスプリとの戦闘だって半分遊んでいるような感じだったし。だから大丈夫、とは、思う。思いたい。

「俺、結構あいつのこと好きなんだな」

「今更ですか?」

「いやぁ、だってさ。言葉通じないし、何考えてるかわかんない、こともないけど。でもやっぱり犬じゃん?」

「そうですけど。でもチーフは犬さんをちゃんとキャストの一人として扱っているじゃないですか。それはやっぱり、思い入れがあるからじゃあないですか?」

「……そういうものか」

「そういうものです」

 ゲームの中ではただの犬としか思っていなかったのに。なんならドブガチャでよく出てくるから「またこれかよ」なんて思っていたのに。でも、今は本当に大切な味方だと思っている。戦力になるとかならないとか、そういうことは関係なく。ただ純粋に、近くにいることが当たり前だと思うようになっていた。

「早く見つけましょうね」

「ああ。あいつも多分腹が減ってるだろうし」

 ペットじゃないけど。でもやっぱり、俺にとっては大切な大切な存在だ。それを見捨てるわけにはいかない。どこかに白い塊はいないだろうかと目を凝らして歩いていく。頼むよ、勝手にどこかにいかないでくれよ。俺にとってお前は、初めて味方になったキャストなんだから。それにまだ物語は序盤だぞ? お前がいなくて、この先どうしろっていうんだ。

 焦る気持ちが俺の足を早めていたのか、前方不注意のままざかざか歩いていた。エリナが途中で「待ってください!」と言っていたけれどそれもちゃんと聞こえていなくて、つい早足になってしまう。早く見つけないと、もし途中でミスプリに遭遇したらどうするんだ。そんなことを思っていたのに。

 やっぱり人の話は、ちゃんと聞くべきだったのかもしれない。

「チーフ! 前方にミスプリ反応です! 退避してください!」

「うぇっ!?」

 悪い予想は当たるものだ。エリナの声が聞こえた頃にはもう遅く、急いで足を止めたけれど背筋にはぞわりと冷たい感触がした。ひゅっと息がつまる。指先の感覚がなくなって、自分で立っているのも辛かった。

 しまった、これはまずい。

「チーフ! 逃げてください!」

「それができたら、苦労しないっての……!」

『この大馬鹿野郎! 退け!』

「そんなの自分が一番わかってるよ!」

 どうにかして逃げようとしても足はガクガク震えて動かない。そんなことをしているうちに目の前の空間がどろりと溶けて、切れ目からドス黒いインクが溢れてきた。骨みたいな、枝切れみたいな、おぞましい指先がそこから現れてくる。ポタリ、ポタリとインクが垂れる音が、耳に響いた。

 今朝方遭遇したミスプリよりも、かなり大きい。人型を保っているということはそれなりに力も強いのだろう。これを倒せば物語はきっと随分先まで進むだろう。でも今の俺には、それを行う力はない。

 編集者は、ただ物語を編集するだけだ。物語に介入することはできない。俺はただ、目の前で起こることを見て、記すことしかできない。ああ、悔しいな。俺はここでも何もできない人間なのか。せめてゲームの中でだけは強くて、自分の存在意義が実感できると思ったのに。それが欲しくてこのゲームをしていたのに。課金までしたのに。どうして、こんな。

 俺は、どうして、こんなにダメな人間なんだろう。

「うなだれるな」

「……えっ?」

 どこからか聞こえてきた声に、閉じていた目を開ける。一体誰の声だろう。どこかで聞いたことがあるはずなのに。それが一体どこだったか思い出せない。低くて、凛として、それでいてどこか憂いのある。どこだ、あなたは一体、誰なんだ。

「前を向け。愚かな人間よ。その運命を受け入れたのなら、決して下を向くな」

 目の前には、冬の夜空が広がっていた。どこまでも深い漆黒が、俺の前にはあった。しかしその色は決して寂しいものではなく、触れるものを包み込むような暖かさがある。なびく銀髪、ひらめくマント、そして、くすぶった葉巻の香り。

 そうだ、この人は。確かあの時の。

“怒りを歌え、ムーサよ”

 それが詠唱であることに気づいたのは、目の前に立っているその人から言葉が溢れたからである。彼が言葉を紡ぐたびに、それが形となって現れてくる。

 ムーサよ、怒りを、ムーサよ。白く輝くその文字が、ミスプリに向かって飛び出していく。

 『お供の犬』はその牙を持って物理的にミスプリを倒す。だがこの人は自らの手を振るうのではなく、言葉を持って誤字や脱字を正していくのか。そんなこと、今まで多くのキャストをガチャで引いてきたけど誰もやっていなかった。

 誰だ、この人は。

 俺はこんなの、知らない。

“ペレウスの子キレウスの”

“アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし”

“あまた勇士らの猛き魂を冥府の王に投げ与え”

“その亡骸は群がる野犬野鳥の啖うに任せたかの”

 ギ、ギ、とミスプリの悲鳴が聞こえた。文字に捕らわれ、体の自由を奪われ、その存在ごと消滅させられようとしている。その断末魔が、声にはならないその声が、俺には聞こえた気がした。人の形をしたその染みは、何か言おうとして口を開く。でもそれを決してさせないと言わんばかりに、男は最後の詠唱を叫んだ。

“呪うべき怒りを”

 あたりが眩しく光り、ガラスが割れたように大きな音が響いた。それと同時にインクが地面に叩きつけられる音もする。

 最期の言葉は、聞こえなかった。

「……すごい」

 足の力が抜けてその場に座り込む。まだ感覚は戻っていなくてガクガクと震えていた。すごい、なんだこれ。これほどまでにあっけなく、そして圧倒的なまでの力を、俺は初めて見た。

 そりゃレア度が上がれば攻撃だって派手になる。でもそれはあくまでグラフィックの問題で、実際には手にしている武器で戦っているのだ。

 でもこの男は違う。ただその場に立っているだけだったのに、言葉だけでミスプリを倒してしまった。しかもなんの感動もなく。ただ粛々と。それが当たり前のことのように握り潰してしまった。

 それがなぜか、俺には、恐ろしく思えた。

「人間よ」

「はっ……」

 ちらりと、銀色の髪がなびいた。同じ色をした瞳がこちらを見つめている。冷え切った泉のようなその色は、俺の胸をぐさりと貫いた。

「エリナ・ファージョンに気をつけろ」

「な、何を」

「自分の物語を歩め。お前の物語は、決して誰かに書き換えることはできない。お前が、その手で紡ぐのだ」

「意味わかんねぇ、何言ってんだよ」

「言葉に従え。言葉を守れ。目に見えぬ言葉を、その手で」

 強い風が吹く。その勢いに思わず目を閉じると、濃い葉巻の香りはどこかに消えていた。目を開けるとそこには誰もおらず、ただ地面に広がるインクだけが残っていた。

「チーフ! チーフ! 大丈夫ですか、怪我は!?」

『おい、イエヤス! 返事をしろ馬鹿者!』

「エリナ……アンデルセン」

 まだ夢うつつのまま返事をすると、半分泣きそうな顔をしたエリナがこちらに駆け寄ってきた。通信機の向こうではアンデルセンが何か喚いている。よく聞き取れなかったけれど、多分罵詈雑言の限りを尽くしているのだろう。

 その、いつのまにか日常になってしまった響きにどこか安心している自分を小さく笑って、大丈夫だよと軽く手を振った。




☆☆☆



 アンデルセンによると、突然俺の生命探知が消えたらしい。と言うより、存在そのものが一瞬だけ感知できなくなったそうだ。そして何が起きたか把握する前にミスプリは消滅し、それと同時に俺のことも探知できるようになった。つまりそれは、あの男が俺の存在を隠していたと言うことになる。

 エリナに聞いてみても「突然姿消えた」と言うし、ましてやそんな男は見えなかったと言っていた。何かされた訳じゃあないし、むしろ助けてもらったんだからお礼を言わなくてはいけないんだろうけれど、その男はすでにいない。実際に目にしたのは俺だけで、手がかりはというと真っ黒なマントに銀色の髪、それから。

「詠唱で、ミスプリを倒した?」

「そうなんだ。そいつ、一歩も動かずにただ詠唱を唱えてるだけだった」

『見間違いじゃないのか』

「そんなわけないだろ! いくら俺がビビリだからってちゃんと見てるわ!」

 実際には言葉が形になり、それがミスプリを倒したのだけれど。でも本当にあいつは一歩も動かなかった。ただ言葉を唱えるだけで、それ以外のことは何もしていない。しかも唱えていたのは、多分。

「ムーサ、って言ってた」

「ムーサ?」

「うん。あとはアキレウスとか、そんなことも言ってたなぁ」

『ムーサ……アキレウス……』

「わかる?」

 通信機越しに深く唸ったアンデルセンは、また掛け直すと言って突然通信を切ってしまった。何か気づいたことでもあるのだろうか。残念ながら俺は全く気づかない。耳馴染みのない言葉ばかりを言われてもピンとはこないのだ。

 とりあえずこの件はアンデルセンに任せるとして、早いところ『お供の犬』を見つけないと。先ほど消滅したミスプリは回収したし、編集作業も終えている。あとは本来の目的である犬と合流するだけだ。隣に立っているエリナはなぜか神妙な顔で俯いており、まだ何かきになることがあるのかとちょっと心配になる。

「大丈夫? 疲れた?」

「あ、いえ」

「犬がどこにいるか心配?」

「あー、そうですね。きっともうすぐ見つかるとは思うんですけど」

「そうだな。フラっとどっかから出てきそうだよな、あいつのことだし」

 そう言うと、エリナもちょっとぎこちないがふっと笑う。透けるほど白い肌は不安のためか青白くなっていたが、それも少しは血色が戻ってきた。

 そういえば。あの男は去り際に気になることを言っていた。

『エリナ・ファージョンに気をつけろ』

 どうしてあいつはエリナのことを知っていたんだろう。それに気をつけろって、一体どういうことだ。今の俺にとってエリナだけが信頼できる味方なんだ。それを、気をつけろなんて。こんなに素直で純朴で、真面目なのに。どこをどう気をつけろって言うんだ。

 いやでも。俺は一度、このゲームをプレイしている。だからエリナがどういう存在かも知っているのだ。それはある意味このゲームの最大のネタバレになるし、核と言ってもいいほどのものだ。だからツイッターでもあんまりこの話題はしないようにしていた。まだクリアしていないフォロワーへの配慮もあるし、こっそり隠して秘密にしていると言うのがなんともたまらない。

 でもそれを踏まえても、エリナに気をつける、と言う結論には行き着かない。

(ああ、でも)

 俺がこの世界にやってきてしまったのは、そういえば全てエリナの手によるものだった。VR体験会で目の前に現れたのは、確かに最初はグラフィックのエリナだった。でもそのあと、俺のほうをみて、手を伸ばし、引っ張ってきたのは間違いなく。

 生身のエリナだった。

 そうだ、初めから全てエリナによって導かれていた。俺が望んで起きたことではない。だとしたら一体誰の望みでこの物語は始まったのだろう。そんなの答えは、一つしかない。

「エ、リナ」

 彼女の名前を呼ぶ。どこか声が掠れていた。

 なあ、お前は一体誰なんだ。

 どうして俺を呼んだ。

 どうして俺の手を掴んだ。

 なあ、エリナ。

 そう尋ねたいのに、なぜか言葉は生まれてこない。喉奥に詰まった言葉はひしゃげて潰れてしまう。目の前にいるのは確かに俺のよく知っているエリナなのに。

「チーフ?」

「あ、えっと」

「どうかしましたか? 犬さん、見つけました?」

「へっ? あ、犬、犬ね。いやーさっきあの辺に白い塊が見えたような気がするんだけど」

「本当ですか!? よかった、すぐに向かいましょう!」

「えー、ちょっと待って!」

 本当は白い塊なんて見えてなかったけれど、一目散に駆け出して行ったエリナを追いかけるために俺も走り出した。風になびくストロベリーブロンドを見ている、何の根拠もないのに疑うことは俺にはできないなと思った。確かにあの男が言うことは気になるし、もしかしたら本当に何か訳があるのかもしれない。でも俺は、自分のこの目でそういう証拠を見たわけではないのだ。だったら意味もなく疑うのはやめよう。自分で、はっきりと、疑うべきところがわかったのならその時にまた考えればいい。

 そういう状況にならないことが一番なんだけど。でもまあ、人生いつ裏切られるかわかったものじゃあない。小学生の頃仲良くしてくれていた友達が裏では俺の名前についてバカにしていたとか、中学生の時ちょっとだけ付き合った彼女が女友達に「あいつは名前の割に何もできない」と言いふらしていたとか、高校の時わざと先生に下の名前でばかり呼ばれたこととか。人間なんて、そういうものなのだ。くそ、別に泣いてなんかないけど。

「いました! チーフ! こっちです早く!」

「え、まじ? 本当にいたの?」

 遠くからエリナの嬉しそうな声と、きゃんきゃん鳴く犬の声がする。適当に言ったのにまさか本当にいたなんて。どうやら果物を売っている屋台の下に潜り込んだはいいけれど、目の前に大きな樽を置かれて出られなくなっていたようだ。それでクンクン鳴いていたらしい。だからお前、本当に犬か?

 急いで駆け寄ってみると、不安げに尻尾をパタパタさせている犬と、店主にペコペコ謝っているエリナの姿があった。店主は恰幅のいい女性で、あまり気にしていないようだったが「一応うちは食べ物を扱ってるからねぇ」と渋い顔をしていた。そりゃそうだ。いくら屋台で、外に置いているといってもある程度の衛生観念はある。直接『お供の犬』が商品に触れたわけじゃないけれど、お客さんの中には気にする人はいるだろう。

「本当、すいませんでした」

「いいのいいの。今日はみんな浮き足立ってるから気づかないと思うけどね」

「今日?」

「そうだよ。あんた、知らないの? どこもかしこもドレスだの何だの売ってるだろう? だからあんまりここに寄ってくれないのよね。ま、ちょうどいい客引きになったから有り難かったわ」

 寛大な店主に頭を下げて、お詫びにたくさんのフルーツを買って、未だ怯えきっている『お供の犬』を引っ張りながら宿探しを始めた。ペット同伴可能な宿って、この時代あるのかな。こいつは別に、ペットではないけれど。

 熟れきって商品にならない果物を屋台の下に置いていたのか、真っ白な毛は甘い果物の香りになっていた。幸い汚れてはいなかったけれど、飛びついてきた拍子にむわりと甘くて重たい香りがした。つまみ食いをしなかったことだけは褒めてやろう。

 でもこれからは絶対にはぐれるなよと、きつく言っておく。お前だって首輪やリードは嫌だろう? ペットじゃないんだし。でも当の本人は甘えたいのか足元をぐるぐる走り回って聞いちゃいない。こんなんで本当に大丈夫かな。

「とにかく、まずは宿だな。いい加減疲れたよ」

「そうしましょう。先ほどの戦闘で物語はかなり進んでいるはずです。そちらも確認しなくては」

「そろそろシンデレラに会いたいよな」

 昨日の夜にシルエットだけは確認したけれど、実際にどういう顔立ちなのかは見えなかった。物語の通りならきっと彼女には継母と、二人の姉がいることになる。彼女たちがどういうキャラなのかも知っておきたいが、今はそこまで考える余裕はなかった。

 昨日からの疲れが今になってどっと出てきた。それまでミスプリと遭遇したり犬を探したりと、神経をとがらせていたせいもあるだろう。ここにきて、急に緊張の糸が切れてしまった。足を動かすのも億劫で、もう宿なんて適当でいいから早く眠ってしまいたい。でもそうしたら物語は進まないし、ううん、どうしよう。

「シンデレラか……どこに行けば会えるんだろう」

「あの、すいません……今、私の名前を呼びましたか?」

 突然、背後から声をかけられた。凛としてよく通るその声は、今まで聞いたことがない。でも昔、どこかで耳にしたような柔らかい声だ。えっと、どこだっけ。そうだ、確かゲームをしてて、その時に。

 え。ってことは。

「し、シンデレラ!?」

「きゃあ!」

 勢いよく振り返ったら、案外近いところにその人は立っていた。うっかり肩がぶつかってしまい倒してしまいそうになる。慌てて腕を掴み引き寄せると、肩にかけていたストールから灰が舞い上がった。

 輝くような金髪を一つにまとめ、緩やかなウェーブの隙間からは大きくすんだ空色の瞳が見えた。頰に散らばるそばかすがあどけなさを残している。それでも薔薇色の頰はどこまでも柔らかく、蜜をたたえたように光る唇は熟れる前の果実のようだった。

「あ、ご、ごめん」

「こちらこそ突然ごめんなさい……名前が聞こえたから、つい」

「すいません、あなたがその……シンデレラ、さん?」

 エリナの問いかけに、その少女はニコリと微笑んだ。

「そうです。私がシンデレラ。あなた方は?」

 これぞまさに僥倖。俺たちは偶然にも、シンデレラと会うことができた。これも先ほど物語を回収できたからだろうか。一体どこまで進んだか確認できていないけれど、ようやく物語の主人公に会えたんだ。すげー怖かったし不可解な点は多いけれど、それはそれで良かったと思おう。

 それに何より。こうしてシンデレラと会えたことで気付けたことがある。

「声、そのままなんですね」

「声、ですか?」

「そう。あなたの声、ゲームのままだ。声優さんがコスプレをしてるわけじゃないし、すごいなぁ。本物だ!」

「本物って、あの、偽物もいるのですか?」

「いやいやそうじゃなくて」

「はぁ……?」

 彼女の声は、ゲームをプレイしている時と全く同じ声だった。ストーリーが進むときはBGMだけしか流れないが、戦闘シーンや「編集者室」と呼ばれる、いわゆるゲーム設定やオプションを確認できるところでは全員にボイスが付いている。画面をタップすればランダムでセリフを言ってくれるし、季節に合わせて特殊なボイスも実装されている。

 そしてこのゲームは、参加している声優さんが皆一様に豪華なのだ。そういえばエリナの声もアンデルセンの声も、ゲームと全く同じだ。『お供の犬』は、ちょっとよくわからないけれど。でもこうやってゆっくり聞いてみるとゲームと何も変わらない声をしている。うわ、すごいな。これ、つまりは撮り下ろしってことだろう? 何か話してもらおうかな。必殺技のボイスとか。録音してツイッターにアップしたらきっとRTが山のようにくる。

「って、俺今、ケータイないんだった」

「あの、先ほどからこの方は何をおっしゃっているんですか? 言葉はちゃんと聞こえるけど、意味がわからなくて……」

「ご安心ください、私にもさっぱりわかりません」

 シンデレラとエリナが何かコソコソと話している。いやいや、これってかなり大事なことじゃん? ボイスの開放ってモチベーションの一つだったし。素材集めたら衣装も変えられたし。そのために俺は何万円か積んだけど、お気に入りの子たちが綺麗な服を着ている姿を観れただけで課金した甲斐があったなとしみじみ思った。

 あの子達のためなら六万円は安い方だ。女性は服にお金かかるって聞いたことあるし。知らないけど。

「それで、私に何かご用ですか?」

「あ、そうだった」

 つい彼女の声に感動してしまったけれど、俺たちが求めていたのはその事実ではない。必要なことを聞き出して、この後の参考にしなくては。物語に異変が起きるのであれば、真っ先に狙われるのは主要な登場人物だ。特に主人公というのは一番標的にされやすい。彼女の周りで何かおかしなことがあれば、それがこの侵食を促している最たる要因なのだ。

 まあ、実際にゲームをしていた時はネットの攻略ページとかでどうすればいいか見られたからそこまで考えてはいなかったけれど。どこに行けば誰に会えるとか確かあったはずなんだけど、さすがにこの章をプレイしたのはもう随分と前のことだから忘れてしまった。

「えっと、最近何か変わったことはありませんか。ちょっとしたことでいいんですけれど」

「変わったこと、ですか」

 まるで探偵みたいだなと、手の中で開いた小さなノートにメモを残していく。シンデレラはしばらく考えるように目を伏せて、それから「ああ」と小さく呟いた。

「本当に些細なことなのですが」

「大丈夫です。何かありましたか?」

「……舞踏会に、行けと言われました」

「え?」

 舞踏会とは、おそらくお城で開かれるパーティーのことだろう。そういえば市場ではドレスやアクセサリーがたくさん売られていた。その時は気づかなかったけれど、あれらは全部数日後に行われる舞踏会のためのものなのだろう。

 でも、それだとおかしい。シンデレラは、舞踏会には行けないはずだ。

「私の家庭は少々複雑で、母とは血が繋がっていません。そして姉たちとも」

「継母、ということですか」

「そうです」

 そこは俺もよく知っていた。一番最初にミスプリを倒して回収した部分に、詳細が書かれていたのだ。なんだか色々書いてあったけれど、シンデレラは継母とその娘である義理の姉たちにいじめられている、というのは覚えている。家事をさせられたり、下働きのように扱われたり、暖炉の掃除をさせられており、そのせいでいつも頭から灰をかぶっているから「灰かぶり」と呼ばれるようになったとか。

 そんな風に、シンデレラに厳しい態度をいつも取っていたその継母たちからなぜか「舞踏会に行っていい」と言われるなんて。それは、いささかおかしな話だ。

「私としては嬉しいんです。一度はお城に行ってみたかったし、お姉さまたちと一緒に外出なんてしたことなかったから……」

「でも突然優しくされて驚いてる、と」

「そうです。しかも最初は一日じゃ決して終わらないような仕事を言いつけられて、絶対に舞踏会には間に合わないと思っていたのに……」

 もしかしたら、これが今回のエディットに深く関わっているのかもしれない。何がヒントになるかは分からないので、きちんとメモを取っておく。エリナにこっそりと目配せをすると、彼女も同じ気持ちだったのか頷いていた。

 本当はもっと話を聞きたかったけれど、正直俺たちは疲れがピークに達していたし、シンデレラも買い物の途中だったらしい。あまり長く引き止めるのも申し訳ないと思いまた改めて話を聞かせてもらうことを約束してその場は別れた。どうやら毎日昼過ぎには買い出したのめ市場に来ているようだ。その時に話ができればと言うと、普段は話し相手がいないからとても嬉しいと言ってもらえた。うん、可愛い子の笑顔はとても可愛い。

「それじゃあまた明日。また異変に気付いたら教えてくれたら嬉しいな」

「わかりました。私なんかでよければいくらでも」

 暗くて地味なグレーのドレスを翻しながら、彼女は人ごみに紛れて行った。いくら身につけているものが目立たないものでも着ている本人が美しければ、やはり目を惹かれてしまう。俺には継母やお姉さんたちが彼女をいじめる理由がよく分からなかったけれど、もしかしたらそういう嫉妬の気持ちもあるのだろうかとその時なんとなく思った。

 そりゃ、羨ましいよな。自分が欲しくて欲しくてたまらないものが、なんの苦労もなくて手にしている人間が目の前にいるなんて。もしかしたら自分も他の人から同じように考えられているかもしれないけれど、それには気付くことがない。つまるところは無い物ねだりなのかもしれないけれど、やっぱり疎ましく思う気持ちは隠しようがない。

「……みっともない」

 誰かに嫉妬をするなんて、そんな疲れることはもうできなくなっていた。前ならもうちょっとギラギラと嫉妬していたけれど、いつの頃からか時間と労力の無駄だと思い始めた。どうせ疎んだって意味がない。何も変わらない。疲れるだけだし、恥ずかしいだけだ。

 だから課金とかガチャとか、誰のことも恨まずにやってこれた。自分はこれだけお金を積んでいるのにあいつは無課金で引いてるとか。こっちが必死こいてようやく引き当てたキャラを始めたばかりの新人プレイヤーが初めてのガチャで引いたとか。「俺は今回五十万課金したんだ」と呟くフォロワーさんとか。どれもこれも、「そうなんだ」程度にしか思わなかった。もしもそういうのを一々気にしていたら、ここまで心穏やかに課金はできなかっただろう。俺に取って唯一の拠り所が、そんなくだらない感情で汚されてしまってはたまったものじゃない。

「誰かを羨ましいとか、なんでそんな風に思うんだろうな」

「チーフは思いませんか?」

「うーん、あんまり。気にしても仕方ないと思ってるし」

 もっと平凡な名前が良かったな、なんて。今更言っても仕方がない。仮に改名してありふれた名前にしたところで、この二十数年間で俺が拗らせてしまった性格は変えようがない。だからもう、どうしようもないのだ。誰かを恨んだところで。誰かを妬んだところで。そんなの意味がないのだ。

 自分一人で生きているつもりもないけれど、他人に干渉されて生きていくつもりもなかった。

「それでも」

「ん?」

 珍しく、エリナは俺の言葉を肯定しなかった。必死に言葉を選び、絞り出すようにして話し始める。その声は悲しいくらいに震えていた。

「それでも、誰かの背中がないと前に進めない時もあります。その背中を見つめる時、嫉妬とか、妬みとか嫉みとか、そういう感情が含まれることだってある。そうして初めて前に進める人も、この世にはいるんです」

「……そうだね」

 そういう人がいることはもちろんわかっている。でも、俺はそうなりたくない。そんな疲れることしたくなかった。なるべく疲れないように生きていきたいのだ。別に誰かが俺の前にいなくたっていい。どうせ道はどこかで別れてしまうのだ。だったら最初から見ない方が、自分が傷つくことはない。

 なんて寂しい生き方なんだろうと思うけれど、孤独の悲しさよりも痛みのない喜びの方が俺には大きいのだ。

「とりあえず、宿に向かおう。こいつもへばってるし」

「きゅーん……」

 ずっと足元で走り回っていた『お供の犬』ははしゃぎ疲れたのかだらりと舌を垂らしていた。熱いし喉も渇いたのだろう。早いところ食事もさせてやりたい。それに俺だってさっさと横になりたかった。難しいことを考えるのは休んだ後でもいいだろう。何よりこういう会話は、とても疲れる。

 まだ何か言いたげなエリナは渋々と言った感じで頷き、二人と一匹が泊まれるような宿を探すために同じ道を再び歩き出した。その背中を視界に入れないようにちょっとだけ下を向いて、俺も足を動かした。




☆☆☆




 運よく空いていた宿屋に飛び込み、ようやく俺はごろりと横になれた。別段柔らかいわけでもないマットレスが、今はどうしようもなく心地よく感じる。まだこの世界に来て二日目なのに。なんだか何年もここにいる気分だ。エリナは隣の部屋で休んでいる。『お供の犬』は他にお客さんがいないからといって特別に俺の部屋に入れさせてもらった。今は俺の隣で呑気に寝こけている。つい先ほどまで柔らかく煮込まれた肉と、ほかほかに茹でられた野菜をたらふく食べていたというのに。腹一杯食べたらあとは呑気に昼寝だなんて。なんて野生からかけ離れているんだろう。

 そういう俺も暖かい食事を思う存分食べて瞼が重たくなっていた。簡単なものしかないけれど、という宿の女将の言葉を聞き流しながらひたすら目の前の食事を腹に詰め込んでいった。味気はないけれどふわふわのパンとか、分厚くてちょっと固いけれどソースの味が染み込んだ牛肉とか、バターがちょっと重たいけれど柔らかい野菜とか。それはもう、野生のハイエナなんじゃあないかってくらい食べまくった。

 細身なエリナもパクパクと食べていて、口の周りが汚れないように紙ナプキンで拭っていたけれどひたすら口に運んでいた。とりあえず腹を膨らませて、ちょっと休んでから今後のことを考えようということになった。疲れた頭ではいい考えは生まれてこない。今日は朝から色々あったけれどまだ昼過ぎだし、少しくらい休んでも問題はないだろう。

「あー……めちゃくちゃ体にいいもの食ったな」

 普段は課金のために食費を削っているから、カップ麺とかレトルトとか、そういう体に悪いものしか食べていない。昼ごはんも毎日五百円以内に収まるようにしているし。野菜とか食べたのはいつぶりだろう。というか、誰かが目の前で作ってくれた食事を口にしたのはいつ以来だろうか。長いこと一人暮らしをしていると手料理というものが遠ざかってしまう。これで彼女なんかが居ればまた話は別なんだろうけれど。悲しいことに、そういう存在とは縁のない生活を続けていた。

 とりあえず、これで当分宿に困ることはない。この物語で使えるお金はあらかじめアンデルセンにもらっていた。なんでもどの世界でも通用する特殊な紙幣があるそうだ。物語とはいえちゃんと経済が回って、それでその世界は成り立っている。編集者といえど無断で飲み食いするのは世界の秩序を壊すことになる。手渡された財布にはずっしりと重たいほど紙幣が入っていて、これが日本円だったら俺は何十連回せるんだろうかと思ったほどだ。

「そういえばピックアップ……あー、ログインボーナスも途切れたかな」

「わふん」

「なんだよ。寝てていいぞ」

「キューン」

 ポツリとこぼした独り言に、律儀に返事をしてくれる『お供の犬』をグリグリと撫でる。気持ちよさそうに目を閉じて、また鼻先を揺らしながら夢の世界に落ちていく。ペットではないけれど、やっぱりこういう顔を見ると可愛いなあと思ってしまう。せっかくの真っ白な毛並みがインクや埃でドロドロに汚れていた。あとで洗ってやろう。外は晴れているし、散歩でもすればすぐに乾くはずだ。

 ああ、なんて平和なんだろう。この世界は、今にも消滅の危機に立たされているのに。あと数時間のうちに物語を回収しないと、また同じ一日を繰り返すことになるのに。どうしてこうも、うららかな日差しの中で俺は寝転んでいるのだろう。

「エリナ・ファージョンに気をつけろ、か」

 喉を鳴らしながら眠る『お供の犬』を撫でながら、謎の男に言われた言葉を繰り返す。あれからずっと気にかかっていた。ゲームの中では確かにエリナは物語全体の鍵を握る存在だった。彼女にまつわる謎を明らかにするために今までの物語があったと言っても過言ではない。

 それでも、気をつけることなんて何もなかった。彼女はただ自分の存在を見つけるために、そこに存在していた。でももし、あの「エリナ」と今目の前にいる「エリナ」が別のものだとしたら? 見た目は同じだけど、どこか根本が少し食い違う「エリナ」だとしたら。そうしたら、俺はきっと、俺の知っている物語とは違う道を歩まなくてはならない。

「本当ならお前じゃなくて『魔法使い』が来るはずだったんだよな」

 真っ先に主人公の味方になるのは、本来であればこの真っ白な犬ではなく初老の女性だった。シンデレラにドレスと、馬車と、ガラスの靴を与えた『魔法使い』が俺たちの味方になるはず、だったのに。

 そもそもそこから何かがおかしかったのだ。レア度も登場する物語も違う。全く関係のないこの『お供の犬』が最初に現れるなんて。最初、それは単なるバグかと思っていた。詫び石の一つでもくれよと思っていたけれど、今になって考えるとどうもおかしい。

 それに攻撃を仕掛けて来るミスプリの強さもそうだ。この段階で、街中であれほど強い敵が現れるのだっておかしい。味方は犬だけ、しかも逸れている。そんな状況で、あれほどの敵がでてくるだろうか。

「……難しく考えすぎてもなぁ」

 どんなに問題点を挙げていっても、今の俺にはどうすることもできない。そもそもアンデルセンは何の疑問を呈さないのだ。彼が問題ないと思っているのならきっと大丈夫なのだろう。ゲームで知っているとはいえ、俺自身はこの世界については全くの初心者だ。きっと彼には彼なりの考えがあるはずだ。俺はただ、それに従っていればいい。

 変に考えるのはよそう。いくら考えても意味がないのだ。そんなことに無駄な労力は使いたくない。なるべく省エネで、無駄なことは省いていく。それが俺の生き方だ。

「寝よ。こいつも寝てるし」

「くぅ……」

 間抜けな顔を見ていると、なんだか真剣に考えている俺がバカらしく感じられた。寝て起きたら、もしかしたら何かが変わっているかもしれない。それに何より、暖かい毛布が心地よくて仕方ない。これはもう今すぐに眠ってしまえと言われているようなものだ。

 寝過ぎないようにアラームをかけようと思い、そういえばケータイはないんだったと改めてその事実に気づく。普段どれほどあの薄っぺらい液晶に依存しているのかと苦笑して、万年筆についている時計機能で目覚ましをセットした。

 そのまま俺は夢を見ることなく、泥に溺れるようにひたすら眠った。

☆☆☆




 目が覚めたのは設定していた時間よりも随分と遅く、いつのまにアラームと止めてしまったんだろうかと驚いてしまった。これを平日の朝にやってしまうと、遅刻確定だ。一体いつ止めてしまったんだろう。閉め忘れていたカーテンのせいで、街にはもう煌々と街灯が照らされていることがわかった。空はもうとっくの昔に真っ暗で、電気もつけていない部屋の中だとうっかり何かに躓いて転んでしまいそうだ。

 そういえばエリナはどうしているだろうか。もし俺を呼びに来ていたのなら申し訳ないことをした。特に何かこの後の予定を決めていたわけではないけれど、少なくとも回収した物語くらいは確認しておかないといけない。分量によってはまた同じ一日を繰り返す羽目になる。それだけは絶対に嫌だ。もうあんな敵と戦いたくない。

 仮に、もし万が一同じように敵が目の前に現れてもまたあの男が助けてくれるとは限らないのだ。そもそもあいつが一体どこから来たのか俺は知らない。今回だってたまたま偶然通りがかっただけかもしれないし。

「あー、でもよく寝た」

「ワン!」

「お前まだここにいたのかよ」

 起き上がって大きく伸びをしたところで、ベッドの下から『お供の犬』が元気そうに鳴き声をあげた。こいつもぐっすり眠ったらしく目をキラキラさせてこちらを見ている。部屋は暗いのに、なぜだかその瞳だけはまっすぐに光り輝いて見えた。

 頭を軽く撫でてやって脱ぎ捨てたままにしていたジャケットを羽織る。それから机の上に置きっぱなしにしていた『シンデレラ』の本を手にとって、隣の部屋にいるエリナの元へ向かった。きっと彼女はもう起きているだろう。俺よりも疲労の色は見せていなかったけれど、さすがに疲れているはずだ。元気になっていたらいいのだけれど。立て付けの悪いドアを開けるとギイと大きく軋む音がした。

「あれ、鍵……?」

 部屋に入った時、念のためと中から鍵をかけていた。一人暮らしが長いせいかどうしても防犯には気をつけてしまうのだ。まあ、不用心はいいだろうと思っているけれど。だから、今日も半ば無意識のうちに鍵をかけていた。俺たち以外に宿泊客はいないと言っていたから、別に忍び込む奴なんていないだろうに。それでもしっかりと錠を下ろした部屋のドアは、外からは決してあかないようになっていたはずなのに。

 それなのに、どうして。

「……盗まれたものは何もないよな」

「ワン?」

「というかお前さぁ、一応犬なんだからもうちょっと番犬っぽくなってくんない? 一緒になってグースカ寝ちゃって」

 理解しているのかしていないのか、無邪気な目をクリクリと動かすだけだ。俺がそういう目に弱いってこと、こいつ知ってるのかな。それに犬相手に本気になるのもバカらしい。実害がないのなら気にしなくていいか。俺がうっかり閉め忘れていただけなのかもしれないし。

 うん、きっとそう。今日はとことん疲れていたから、そういうことがあっても不思議じゃあない。人間いつだって完璧ではいられないのだ。真鍮製の鍵を、今度こそ鍵穴に差し込んでガチャリと回す。ノブを回しても開かないから、これでちゃんと施錠できたのだろう。兎にも角にも、今はエリナと話すことが先決だ。

 何かあったらいつでも駆けつけられるようにと、わざわざ隣の部屋を取ってくれたおかげでほんの五歩足を動かしただけでエリナの部屋にたどり着いてしまった。女の子の部屋に入るのって、別に変な気持ちはないのになんでこうも緊張してしまうんだろう。中学の頃付き合ってた子の実家に行った時もこんな感じがした。ただほんの数分、玄関で話をしただけなのに心臓が口から飛び出しそうだったし、自分の足で立っている感覚がなかった。時間はどこまでも遅く進んでいるように感じたけれど、実際は五分も経過していなくて驚いたことがある。

 あー、緊張する。こういう時なんて声かければいいんだろう。普通にノックすればいいんだろうけど。でももし着替えてたりしたらとか、シャワーを浴びた後だったりとか、なんだかそういうことばかり考えてしまう。普通に考えてそんなラッキースケベが俺に起こるわけない。そんなとんでもな展開が簡単に起こってしまったらこの世にあるラノベやラブコメの類は全部色褪せてしまうだろう。落ち着け、藤村家康。深呼吸だ。

「……平常心、平常心」

「くーん……」

 俺につられてなぜか『お供の犬』も深呼吸を始める。二人して酸素をたっぷり吸い込んで、ようやくドアをノックしようと手を持ち上げた。その時。

「これはさすがに加減がすぎます、博士」

 中から、かすかだけれどエリナの声が聞こえてきた。ドアが薄いせいで声が漏れてしまうのだ。それに今はここに俺たち以外誰もいない。だから、音はかすかにもしない。そのせいでつい、うっかり聞こえてしまった。

 なぜだか俺はドアをノックすることができず、中途半端に持ち上げてしまった右手はそのまま空を切ってしまった。

「あの人はまだ気づいていないみたいですが、露骨すぎます。『魔法使い』ではなく『お供の犬』なんて……」

 一体なんの話だろうか。あの人って、一体誰のことだ。それにキャストの名前も聞こえてきた。俺の知らないところで、この二人は何を話しているんだろうか。『お供の犬』が不安そうに俺の足に鼻を寄せてくる。心配するなと目配せすると、おとなしくその場に座り込んでいた。

 もう少しだけ聞いていたいけれど、これ以上は聞かない方がいい気もする。そもそも完璧に盗み聞きなんだ。いいも悪いもあったものじゃあない。どうしよう、何も気にせずノックをした方がいいのだろうか。それともこのまま黙って部屋に戻った方がいいのだろうか。ううん、きっとゲームならどちらかの選択肢が出てくるんだろうな。でも今は俺がどちらかを決めないといけないし。どうしよう、どっちがいいんだろう。でもまあ、どっちにしても物語の結末には大きく影響はしないのだ。だったらこのままおとなしく部屋に戻るより、何も知らないふりをして部屋を訪れた方がよっぽどいい。一人で悶々と気にするより、真正面からぶつかった方がこちらのペースに持ち込めるし。

 もう一度だけ深呼吸して、それからぐっと手を握り、薄っぺらいドアを三回ノックした。

「エリナ、今ちょっといい?」

「チ、チーフ!?」

 わざとらしく何事もないなのような声でそう問いかける。きっと何もよくないのだろうと分かっているけれど、俺はあくまで何もしらないようにふるまわなければならない。部屋の中からあわてたような物音がした。それまで聞こえてきたアンデルセンの声も不自然にとだえる。

 ううん、これはやっぱり怪しい。仲間を疑いたくないし、俺にとってエリナ以外頼れる人は正直いない。だからなるべくは彼女のことを信じたいけれど。

(ま、人を信じるって難しいよな)

 結局のところ、心の底から誰かのことを信じるなんて無理なのだ。いくらこちらが相手を信じても、向こうが俺と同じくらい信じているかはまた別の話だ。それを、そんな、目に見えない漠然としたものにすがって満足するなんて。

 そんなの、バカのすることだ。

「お、お待たせしました!」

「あ、ごめん。取り込み中だった?」

「いえ! ちょっとデータの整理を」

「そっか。ごめんね、俺すっかり寝ちゃってて」

 データの整理、というのはあながち間違っていないのだろう。ただそのデータが、俺には見せられないようなものであるというだけで。でもここはその言葉に騙されておこう。騙されるより、騙す方がよほど苦しいのだから。

 中へどうぞと促されてエリナの部屋に入る。作りは俺の部屋と全く同じで、広くはないが狭くもなかった。ベッドサイドのランプがついているおかげで中は幾分か明るかった。もしこれがギャルゲーとかだったらここで何かしらイベントがあるんだろうけれど(俺はギャルゲーがどんなものか知らないから完全な憶測だが)今はそういうことを言っている場合ではない。

 エリナとアンデルセンが話していたことも気になるけれど、それよりも何よりも、まずは物語の回収状況について話し合わなければいけなかった。こんなことをしているからどうやっても恋愛フラグが立たないんだろうなぁ。このゲームも、実際の俺も。うう、悲しい。

「ええと、今のところ物語の回収状況は良好だそうです」

「そっか、よかった。やっぱりさっきの街中で回収した分が大きかったのかな」

「そうですね。あのおかげで五分の一は手に入れることができました。これで無事に明日を迎えられます」

「そっか……もしかしたら明日が来ない可能性だってあったんだよな」










参考文献:アンデルセン『絵のない絵本』、角川文庫、2007年。

     H.C.Andersen "A Picture Book without Pictures", Zufelt Books, 2013.

     シャルル・ペロー『シンデレラ』、竹書房文庫、2015年。

     ホメロス『イリアス(上)』、岩波文庫、1992年。

     

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