へこんだ時にはカフカの言葉がよく沁みる(三十と一夜の短篇第7回)
この幸福、この安息、この満足のいっさいが、いまや恐ろしい最後をとげることになるとしたら——
【変身/フランツ・カフカ】
◇
やらかした。
やらかした。
やらかした。
大変な事をしでかしてしまった。どうやったらみんなの記憶を消せるだろうか。もしくは、僕の事を誰も知らない土地に行って、イチからやり直したい。過去に戻れるなら、あの瞬間の僕に、「やめろ」と大きな声で叫びたい。……どれも無理だって、分かってる。
恥ずかしい。
いやだ。
忘れたい。
そんなマイナスな感情が、とめどなく溢れる。
気分は最悪。自尊心なんてものは、風に吹かれてサラサラと消えて無くなった。今の僕は羞恥と自己嫌悪の塊だ。僕の存在を、みんなの頭の中から消し去りたい。
コマちゃんは、僕の事どう思っただろうか。
……最悪だ。
◇
学校帰りの河川敷。僕は友人と2人、腰を下ろして並んでいる。手元の石を拾っては、思いっきり川へ投げた。ぽちゃんと軽い音とともに波紋が広がっていく。
今日学校で、最悪な事をやらかした。そりゃあもう、落ち込んだ。現在進行形で落ち込んでいる。人は些細な事と言うかもしれないが、僕の中では死刑執行直前の晒し者状態だ。観客は、僕に刑が執行されるのを楽しみに待っているに違いない。……違和感が残るアゴをさする。
見かねた友人・黒川が、僕をここへ誘ってくれた。そういう気遣いが出来るいい奴なんだけど、なにか言われるのだろうか。励まされるんだろうか。キラキラした顔で「元気出せよ!」とかはやめて欲しい。余計ヘコみそうな気がする。
夕焼けがキレイな空。カラスが数羽飛び去り、ひやりとした風が、僕らの身体をすり抜けた。背後ではたまに通行人の気配を感じる。
走る電車を見ていた黒川が、ぽつりともらした。
「有田。お前には、好きなだけ落ち込む権利があるんだよ」
「……へ?」
今なんていった。好きなだけ落ち込んでいい? そんなこと言われたの初めてかもしれない。……「気にすんなよ」とかじゃ、ないんだ。
「フランツ・カフカって人が言ってた。この前、本屋さんでその人の本見かけたんだよ。おもしろかったから、全部読んでみた」
「ふーん」
カフカかポスカかしらんが、良いこと言うじゃないか。黒川はそのカフカって人の事を語り出した。
フランツ・カフカ。今から100年ほど前、公務員の業務かたわらに執筆をしていた作家。代表作は「変身」。家計をになうサラリーマンが、ある朝起きたら虫になってたという変な話だ。虫だよ、虫。ゾッとするわ。
さらに黒川は、カフカの名言を教えてくれた。
——ぼくは自分の状況に、果てしなく絶望している権利がある
さっき僕に「落ち込んでいい」言ってたのはそれか。……本当そうだよ。今は、「がんばれ」とか「元気だせ」とか、聞きたくない。明るくて爽やかでキラキラした言葉なんてもっと聞きたくない。自分のどろどろした感情だけで手一杯なんだ。自信もない。何にもできない。そんなネガティブな気持ちに浸っていたい。だからちょっとだけ、カフカとやらの言葉に興味を持った。
「ほかには? 」
黒川は嬉しそうに口を開く。
——無能、あらゆる点で、しかも完璧に。
「……え?」
「カフカがね、自分のことをそう書いてんの」
隣にいる友人は事もなさげに言う。その言葉、今の僕にどんぴしゃりだ。なにカフカって人、もしかして僕の前世なの。でも待てよ、その人って有名な作家なんでしょ。さぞ自信満々でリア充な生活してたんじゃないの。
「この人、自分に全然自信なくてさ。すげぇ卑屈なの。カフカの書いた小説も暗くて不条理なのばっか。だからか、生きてる頃にはあんまり評価されなかった」
あと、こんなのもあるよ、と友人は続けた。
——目立たない生涯。目立つ失敗。
……短い言葉なのに、迫力が、すごい。一瞬鳥肌が立った。まさにその通りだ。
「俺もこないだ、最悪な事があってさ。もう泣きたいくらいサイテーな気分だったんだ」
僕は驚いて、友人の方を見た。そこには草をむしる、不安げな黒川の顔があった。
「どうしたの? って聞いても良いのかな」
なんと言うのが正解なのかさっぱり分からない。手探りで言葉を探す。
「……姉貴にな。俺の書いてた秘密のノート、見られたんだ」
おおおう、まじか。最悪じゃないかそれ。何を書いてたかは分からんが、身内に勝手に暴かれるなんて。想像しただけ恐ろしい。
「しかも、SNSで晒された。『アホな弟が書いた厨二ポエムがまじ笑える』つって。ポエムじゃねえし。」
つら過ぎる……! 神よ、こいつがいったい何したってんですか!
「……『聖剣エクスカリバーで刻まれし純白のTOFUは、古の秘薬により、灼熱の辛味を帯びる。今宵、神に捧げられし供物。それは、麻婆豆腐』……みたいな感じで、晩ご飯のメニューをカッコよくアレンジして、ノートに書いてたんだ」
言葉が何にも出ない。お前の心を慰める言葉なんて、僕には思いつかない。だけど、黒川がとてもヘコんでいるという事だけは分かる。それがどんな気持ちなのかも分かる。僕がまさにそうなんだから。
「やりきれんよ、この気持ち」
「そうだな」
僕はひと言、その言葉を返すのが精いっぱいだった。
ざあっと強い風がふく。
揺れる水面。揺れる草原。
ふと、コマちゃんを思い出した。クラスメイトの女の子。最近、僕は彼女に恋してしまった。だって、急に可愛くなったんだもの。今ごろ何をやってるのかな。
僕も、少し話してみようか。アゴに手を伸ばす。
「……僕のも聞いてくれるか」
きっとコイツも知っている。学校中に知れ渡っているのは分かってるんだ。けど、黒川は余計な事は言わずに、こくりとうなずいてくれた。
「今日の昼休みな、弁当食ってたんだよ。そんで、ゆで卵が丸々1個入ってたんだ。母さんが前の日、いっぱいゆで卵作ってて、僕にも一個持たせたんだけど、」
一緒に食ってた奴の1人が、弁当のおかずで一発芸を始めた。その場の雰囲気で僕もやろうと思ったよ。つるんつるんのゆで卵。僕はドヤ顔で言った。
「いくよ、エイリアンの産卵シーン」
ゆで玉子をまるまる口に入れる。キモいポーズをとって、口から卵を産むエイリアンを演じた。友人達は「すげー!キモー!」と、なかなかにいい反応をしてくれた。その時だ。コキッという音と共に、変な痛みがアゴを襲った。口からこぼれるゆで玉子、一向に閉まらないアゴ。
…そう、僕はアゴが外れたんだ。
ゆで玉子でフザケて、アゴが外れたんだ。
そこからは地獄絵図のようだった。笑い転げる友人、どよめく女子、駆けつける先生。そして集まる野次馬。そこかしこで「アゴ外れた、玉子が、まじで」と聞こえてくる。閉じようにも口は一向に動かず、情けなくて涙は出るは、ヨダレは出るは。笑っていた奴らもいつの間にか真顔になってて、好きな子にも見られた。コマちゃん、すごい心配そうな顔してた。ああ、恥ずかしい。何だよエイリアンの産卵シーンって。思いついた誰だよ。ああ僕だよ。馬鹿なんだよ僕。サイテーだよ僕。消えて無くなりたい……。
結局は、駆けつけた保健医のおばさんと、他数名の先生達のおかげで、アゴは元の位置に戻った。自在に動かせるアゴに感動を覚える。
しかし、放課後には「アゴ玉」という不名誉なあだ名が出来ていた。その時の様子と一緒に学校中に広まり、帰り道にはひそひそと僕を見て話してる奴らが何人もいた。
ここまで話して、体育座りしていた足に頭を乗せた。ああ、恥ずかしい。死ねる。
「……そっか」
黒川はただ静かに聞いてくれた。
「すげー体験だったな」
「うん」
「アゴ、まだ痛むのか」
「ちょっと違和感があるくらい」
「そっか」
そこまで言って僕らは黙った。すると黒川は自分のバッグをゴソゴソと漁り、1冊の本を取りだし、僕に貸してくれた。カフカの名言がたくさん書いてある本だ。パラパラと開いてみると、時おりハッとするような一文に目がとまる。
——将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
……確かに。歩くのって難しいよ。まっすぐ歩けない。よろよろ不恰好に歩いては、何でもないところですぐつまずく。……だけど、倒れたまんまが1番上手って。さすがの僕でも、もう少しいけるような気がする。倒れても起き上がれるくらいは……。
——夕べの散歩のとき、往来のどんなちょっとした騒音も、自分に向けられたどんな視線も、ショーケースの中のどんな写真も、すべてぼくより重要なものに思われた。
この人自己肯定低すぎない!? ううん、さすがに僕、騒音よりは良いんじゃないかなと思うよ。すごいな、ここまで卑屈だと思わなかった。
あー、上には上が居るんだな。ほうっと息を吐くと、なぜか安心している僕がいる。こんなにも繊細で弱くてネガティブな人、初めてだ。そんな人が、自分にはとことん落ち込む権利があるんだーなんて言うんだよ。すごいよな。
"ふふふ、なにそれー"
どこかでコマちゃんの声が聞こえた気がした。背後を振り向くと、ちょっと離れた所に本当にコマちゃんがいる。一気に体温があがる。楽しそうに笑っているな。……ねえ、一緒に歩いてるそいつ、誰なの?
「……隣の奴、バスケ部の長谷川だろ。姉貴から聞いたんだけど、あいつら最近付き合ってるらしいぞ。俺の姉貴と長谷川の姉貴、仲いいんだ」
「うそだろ」
こんなことってあるか? アゴが外れて、不名誉な伝説とあだ名が誕生し、これだけでも十分心折れてるのに、仏はまだ折ろうとしているのか。どんな苦行だよ。なんなんだよ。本当に今日は人生でサイテーの日だ。
「よお、アゴ大丈夫か?」
背後を通りかかった時に話しかけられた。本当に心配してるわけじゃない。声が笑っている。この窮地をどうくぐればいいのか分からなさすぎて無心になる。あ、天女が迎えに来た。
「ちょっとやめてよ。ごめんね、マサくん」
違った、コマちゃんだった。すると長谷川と呼ばれた爽やかリア充が、黒川に向かって話しかけた。そうか姉貴同士仲よかったんだったな。……まさか。
「おい、見たぜアレ。『オムライス』と『カレー』笑ったわー! お前まじで天才!」
お前、言うに事欠いてなんてことを…… ! やめろ、黒川の心の傷をこれ以上えぐるのはやめてくれ! コイツのHPは、もうゼロなんだっ。やるなら僕にしろ、さあ好きなだけ「アゴ玉」と罵るがいい!!
「……ははっ」
黒川は無表情に近い顔で、乾いた笑いをした。もう僕はこれ以上耐えられない。涙が出そうだった。
嵐は去った。夕暮れの川辺を仲良く歩き去る2人。よく見ると手を繋いでいる。顎関節が緩いへっぽこ「アゴ玉」が入り込む隙なんて皆無だよ。いいんだ、僕、林さんも小田ちゃんも気になってるんだ。コマちゃんはもう過去の人さ!! 別に強がってないぞコノヤロー!!
心に傷を抱えた男が2人、日が暮れかけた河川敷に座り込んでいる。先ほどよりも冷たい風が僕らを通り抜けた。沈みゆく夕日が、街の影を濃くしていく。僕と黒川はきっと同じ事を考えているんだろう。僕らの大師匠。誰よりも弱くて、自分は無力だと信じていて、驚くくらい卑屈だった、フランツ・カフカ。彼の背伸びをしない素直な言葉が、僕らの心を優しく慰めてくれる。
黒川はぽつりと漏らした。彼が言わなかったら僕が言っていただろう。
「……俺たちには、好きなだけ落ち込む権利があるんだよ」
「うん」
僕は黒川からカフカの本を借りた。家に帰ってから舐めるようにじっくりみて、分かったことがある。
カフカは常に現実に打ちのめされていた。そして、そういう人間だったから、小さい、儚い、弱い者にまでとても優しかった。自分が弱いからこそ、同じ立場の気持ちがよく分かったんだ。彼は小さな虫や、か弱い花まで守ろうとする、とても細やかな暖かさを持つ人間だった。
傷ついた人間は優しくなれる。他人の痛みが分かるから。その痛みがどんなに辛いものかわかるから。
他人の痛みが分かる人間でありたい。
人に優しくありたい。
あの弱くて卑屈で超絶ネガティブなカフカの言葉は、僕をそんな思いにさせてくれた。
◇
ぼくの弱さ——もっともこういう観点からすれば、実は巨大な力なのだが——
【八つ折版ノート/フランツ・カフカ】
引用
「変身」
フランツ・カフカ/高橋義孝 訳
「絶望名人カフカの人生論」
フランツ・カフカ/頭木弘樹 編訳
「希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ/
フランツ・カフカ/ 頭木弘樹 編訳
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カフカが好きな作者による、カフカ祭りです。書きたいと思っていたテーマを、無事形にする事ができました。ありがとうございました。