?1「恋夢塵」
白き海に、人の形をした物が浮かんでいる。一つや二つではない、それこそ白き海を埋め尽くす様な圧倒的な物量で以ってそれらは存在していた。成る程、天使工場とは名付けてみたもののその響きから受ける印象とは大凡合致しない物がその実態だったのだな、私もここで五年間死体の様になっていたのだろう、いやむしろ実際に人としては殺されてそれで今こうして仮初の生を受けているのかも知れない、と思った、ここは今現在で屠殺場であるかないか以前に人と言う家畜の命の処理現場なのかという風に。人の形をした物は、私には人に見えるが実際それがどんな状態なのかはよく分からない、私には多分天使も人も同じ様にしか見えないのだろうが人の場合は天使は見えず人はちゃんと確認出来る筈で、その前提でこの天使へと創り掛けられている人だった物が彼らにどう見えるかというのを想像すると虫唾が走る、彼らがもし人としての生命を維持したままここを見る事が出来たなら、人の様々なパーツが無作為に鏤められている異様な光景を目にする事になるのだろう。私は初めて天使としてのこの異常な視覚に感謝していた、彼らが天使に成り行く者として綺麗な姿でそこに在る事実は彼らが真の天国で優雅に飛び回るその時の為に天使になろうとしている、と言う夢想(勿論現実的な予期として私は彼らが既に死んでいるかもしくはこれから死ぬことに成る事しか思えないのは別として)に繋がり、私の心に大いに潤いを与えてくれたからだ、それはこれから真の天国へ辿り着こうかと言う私達を肯定する夢想であるかの様に思えた、その考えを上回る勢いで私の拒絶心は膨らみ続ける一方ではあったが。新しき生命への予感と古き生命への拒絶、これは私の場合にも当て嵌まる様な気がする、私と言う個は、今の在り方を暴虐的なまでに拒絶しており新しく来るであろうこれからの在り方を渇望し夢見ている、私の激情の限界域を優に超える程に。もう、私は自分の存在が壊れつつあるのを悟っていた、自分の内側の蝿がどんどん肥大化して自分を突き破ろうとしているのを。そうか、これから自分になる、と言うのはこの蝿なのだろうな、と思う、自分には分からないが私は万人が彼女の光を全身に浴びている映像の何処かで存在する事になるのだろう、この蝿が象徴する所のものとして。そしてそれは今の私と言う物を破り捨てる、それに伴い私が彼女を愛していた記憶は、木っ端微塵に吹き飛ぶのだろう。その事は今でも私を酷く苦しめるが、私はそれを或る程度は我慢出来る様になった、私は、彼女を思える今が愛しい、花が散るから、雪が溶けるから、人が死ぬから愛しいのと同じだ、終わり行く私の恋心は、そうであるからこそ大切だと思えるし、終わりが有るからこそ未来へ繋げられるのだ、私が彼女を想う事に終わりが来ないと、これから万人の恋人になろうかと言う彼女の在り方に歪みが生ずる、女神を独占していい天使など、いないのだ。
上を見上げると、私達が来た道がそこに在った。曲がりくねっている、ここ全体を子宮の中の子供だとするとそれはまるで臍の緒の様であった、地上に繋がる生命の掛け橋、私もそこを通って天使になり、また天使として出て行ったのだ、そして、今またそこを通ってここへ還って来た、私は、天使としての母の胎内へ還って来てしまったのだ、私が消え去る場所としては、この上無い場所と言えるかも知れない、私は、母へ還るのだ。そういえば、彼女がこの施設に入る時にすぐに見えなくなってしまったのは道が曲がりくねっていたせいなのだな、と思う、私は未だに千の視界で以って精神をずたずたに切り裂かれ続けているがそのせいであの時はどの様に彼女が見えなくなりまた見えるようになったのか全く分からなかった、ただ、混沌とした風景に、どの様にしてか彼女が消えそして何処からともなく彼女が現われしただけとしか感じられなかった。そしてそれは今にも当て嵌まるか、彼女はこれから、私が見当も付かない世界へ行ってしまう、私の世界から、消え去ってしまうのだ。それでも構わない、今私のそばに居てくれる彼女は、間違い無く本物だ、混沌としたこの世界の中での、唯一の確かさだ、その確かさに一時触れられただけでも、私はこの生をこの上無い物として評価する事が出来る。
それから、彼女の事だけを思い続け時は過ぎる。そして私の人は、こちらを向いた。恋が終わり行く二人の、最後の一時が始まった。




