0?「哀千眼」
糞尿に集る蝿の様に付きつ離れつを繰り返す、彼女とその光の恩恵に与る聚合者達の心象は私に現世での時間経過、肉体動作感覚を忘れさせた。蝿と言う苦虫を噛み砕こうとしてはその蝿が何故だか鋼鉄の細胞で出来ていて噛み砕く事が出来ないのを一々確認してはまたそれをすぐに忘れて同じ事を繰り返す、もう殆ど歩行に伴う手の振り子運動と同レベルの頻度と必然性でその生産性皆無の思考ルーチンは私の思考野の中枢に鎮座していた。丁度私がその蝿の眼球の一個一個を丹念に噛み潰してみようと攻撃の方向性を改めた所で、前の彼女の動きが止まった、私はその彼女の動作が止まった瞬間を幾重にも重ねて見た様な、まさに蝿の視覚を通してそれを見た様な気分になった、まるで彼女の光を受ける万人の視覚情報を自分一人で処理しているかの様な感覚に陥る映像だった。私はその映像情報錯覚の衝撃に固唾を呑むついでに破壊出来ない蝿を思わず飲み込んでしまった、恐らくは消化する事も叶わないであろう蝿を、そう、破壊出来ない心象イメージを。もう私はこの心象と別れる事は出来ないのだな、私が何処にも見当たらない輝かしい未来と訣別する事が出来ないのだな、そうゆう事を私の胃液で楽しげな鋼鉄の蝿の元気な舞に感じ取っていた。
彼女は何故止まったか、私はその理由を視覚で感じ取る前から大きな真理として掴み取っていた、彼女は、光与えるべき万人の囚われの場へ来たのだ、そう、鋼鉄の蝿の巨大な卵の様な、天使生産工場に。そして視覚によって確認してそれは裏付けを得た、その裏付けは私の胃の中の蝿を更に酔わせ狂わせ、私自身を更に苦しめ狂わせた。私は、この万人を縛る鎖を断ち切るべく行動する積りで初めは居た、人の彼女が死に至る前は、そうだった。だが、今はそれが違う、万人を救ってあげようと言う自分は人の彼女と一緒に爆死した。今ここに鋼鉄の蝿と一緒になって狂って居るのは白の彼女に新たに生を吹き込まれた人形だ、白の彼女と言う糸繰りの人を失えば直にでも活動を停止してしまいそうな非常に脆い、立ち位置の怪しい存在だ。白の彼女に人の彼女が宿っている、と言う幻想の小糸にしがみ付いていなくてはこうして立っている事すら間々ならない涎垂らしの赤子なのだ。その幻想の小糸は、今、非常に見辛い、何故なら白の彼女が眩すぎるからだ、私は白の彼女の眩さは私の憐れで脆い心をぽっと照らしてくれる分量しか望まない、万人に分け隔てなく与えられる様な光は私と言う闇の心に沈んだ者には余りにも熱量過剰だ、多分白の彼女が本当にこの鋼鉄の蝿の眼球の一粒一粒に宿る心象映像並に神々しく光る者の威力を身に付けたら今度こそ私は終るだろう、その光に焼き尽くされて消滅するだろう。そして私は気付く、そうか、この心象に私が居ないのは、私がこの心象と矛盾しているからなんだな、私は、死の森を歩き、天国の死の切欠を作り、そして、何より人の彼女の死と言う放射能を体一杯に浴びた。私は、死の温度に慣れ過ぎている、もう生が溢れる場所で生きていくには精神が窶れ切ってしまっているのだ。勿論私がこの先生命の試練たる今を経ての生命の余暇とでも言うべき潤いを謳歌し得る人間なら、幾ら負の濃硫酸に心を浸し続けもはや心の部位のどれがどれなのか分からない程に腐食してしまっても復帰出来る位心には回復への意志が興る、希望への盲信の根を張る色取り取りの花々の種が一斉に撒かれるのだろうが、私は違う、私は、もうすぐ死ぬ、希望への妄想等持ちようが無いのだ、だから死性ガスに充満する自分の頭蓋内部を浄化する理由など無いのだ。それ以上に通常の人の心と思しき物が得体の知れない天使ウイルスに感染し病死しようとしている現状、私は心に傷を負わせこそすれ回復させる余裕など何処にも見出せない、私は、死の地平へと生命の坂を猛スピードで転がり落ちる石ころの様な物だ、やっと転がる事が終って休めるか、と言う瞬間にはもう私の命は恐らくは無いのだ。だから、私の心が終る時、ずたぼろでも、心ですらなくてもそれは別に構わない、それは甘んじて受け入れる覚悟が有る。だが私が受け入れられないのは、彼女が万人の女神になってしまう事、私の事を見向きもしない、普遍的な愛情の化身になってしまう事だ。彼女の中での私の死、それが私が本当に恐れる、真の死だ。死にたくない、彼女に忘れて欲しくない。蝿を体内に取り込んだ事でより一層視界の自己殺傷能力を増した私は、彼女の姿を幾ら見据えようとしても、もうそれを一点に居る物と捉える事が出来なかった、ただ、幾千の彼女が好き勝手に私の視界の端々まで散らばって行こうとするだけだった。




