10「死のミルキーウェイ」
子供らも、先の蝶と同様幾らかの蝶をその手中に収めそれに満足し何処かへ去っていってしまう者、そして捕える事を目的とせずそんな独占欲に行動を支配されずただただ純粋に蝶の不可思議な群れのその行く末に興味を抱きその推移を見守る者、とに別れた。多分性別による行動指向の違いが有るのだろうが性別の分からない私には事実としてのこの場を離れていった者といまだ残っている者の性別の違いを把握する事が出来ない、ただ想像によってそれを思い感じる事が出来るだけだ。思うに、ここに残っている者も離れて行った者も男女同比位なのではないだろうか。離れていった者、それは蝶を捕らえたい、と言う独占欲主体に行動した者、それだけでは無い筈だ。離れていったもう一つの理由として思い当たる物、それは蝶が追い続ける移動する蜜の在り処、それに対する興味の大小だ。植物は己が種の繁栄を促す為蜜を精製し虫を呼び寄せそして花粉をその身に附着させる。虫に附着した花粉はそしてまたその虫が別の蜜に呼び寄せられた時にその蜜の生産工場花に落下し、受粉が成立する。これを人の生殖システムに置き換えるとつまり、花は動かない精巣で有りかつ卵巣と言う事になる、動いているのは精子と卵子を結びつけているのはその生殖の外側の存在第三者虫だ。人間の場合、虫に値する存在は居ない、虫の様に手当たり次第に受精を成立させる存在は有ってはならないからだ、人は精子を卵子を自らが選択する。だが、虫は実は目に見えないだけで人の生殖サイクルの中に紛れ込んでいる、男の性欲の働きは実に虫の行動に等しい、男は、虫が花粉のばら撒き方に無頓着であるのと同様に別に卵子を本来それ程念入りに選り分ける必要は無いのだ、ただ社会の枠組みが生まれ来る子供への経済的倫理的責任を要求するから男は生涯の伴侶を求めるのであってそうでなければ別に受精させる女を厳しく選択する必然は無い、もし自分の精子を虫が勝手に女性の膣内へ放り込んでくれるなら花の様に動かずに時たま性欲を発揮してさえ居ればそれでいい。だが、女は花ではない、女は花の様に男の性欲に従順ではない、女は男の中の虫を否定する、虫から逃げる生き物だ。女は自らの体に子供を宿すので有ってそんな巨大な生命の実りをわざわざどの男の物でも良い等と女としての生を投げ捨てたりはしない、女は野に咲く花である事を辞めたのだ、高嶺の花である事を選んだのだ、男はその高嶺を登る、或る者は手を滑らせ或る者は誰かに蹴落とされするだろう。がそれでも彼らはその高嶺の花に辿り着かなくてはならない、彼ら男は、野に咲く花である事を辞め、虫に咲く花、若しくは花びらで羽ばたく虫になったと言う訳だ。だからこの蝶に強烈に共感し蝶の獲得欲も忘れてこの場に残ってしまうのは男、彼ら少年でなくてはならない、虫が強烈に求める物の面影には女のシルエットが見え隠れする事を遺伝子的に心底知っている者でなくてはならない、しかもその虫が求める物が未だかつて感じた事の無い様な女的神秘なのだ、否定し難い興味衝動を抱きもするだろう。また女、彼女ら少女は蝶に対する獲得行動意欲も希薄だろう、何故なら蝶は男が捕らえてくれるからだ、男が望むだけの数の蝶を捕らえてくれたら、女には基本的にこの場に居る理由は無い、そもそも最初からその面ではこの場に居合わせる理由が薄い。だが、私は離脱者も残存者も男女の比率がほぼ等しい事を推測している、ここに今居る蜜の移動体、白の彼女を目的とした少女達も少なからず居るだろうと考えるからだ。虫がこうまで惹かれている、その存在への憧れ、自らも男にこうまで惹かれさせてみたいと言う願望を抱えている筈の彼女らは本能的にこの蝶の群れを形成する中心部の構成部品を少しでも我が物としたい、こんな綺麗な蝶にすら魅力を感じさせる美的高次元の女王座に自分も座りたい、と言う幻想を捨てられない筈だ、その幻想の吸引力に釣られこの場から離れられない者も居る筈だ。白の彼女は我々と言う新惑星系を束ねる若き太陽として天使の白が作った三途の川、死のミルキーウェイを進んで行く。私は思う、白の彼女は、対岸へ行こうとしてミルキーウェイを横断しているのか、それとも何処までも流れを下り天の川の果てに在る星の死海へ出ようとしているのだろうか。私は、天の川の果てなんてどうでも良いから対岸に有る筈のあの人の笑顔に辿り着きたいと思った、だが、不安が過る、ミルキーウェイに入る以前の深遠なる真空、天使の空虚、死の森、対岸にもあれと同じ光景が広がっている様な気がする、もうこの天使の白の天国にもその外側にも、何処にも本当に生が生らしく光り輝ける世界は無い気がする。私はそんな重苦しい思考を振り払う様に蝶と子供の女王の方を見た。彼女が眩し過ぎるせいで、対岸が見えないどころかミルキーウェイの何処に居るのかさえ全く分からなくなってしまった自分の姿が脳裏に浮かぶだけだった。




