00「天使の指導者」
居住区内に入ってからも、白の彼女はその歩を休めようとはしなかった。恐らくは目的点、人の彼女の居場所、そこを目指しているのだろう。この景色の病的な美しさにまるで意を介さず、彼女は私の前をずっと一定の歩幅一定の身振りで歩む、一つ彼女の行動に歪みが有るとするならばそれは彼女の周りを飛び交う蝶に注意を奪われる事だけだ。これだけの状況変化、真実と言う地獄から偽りと言う天国へと視界の環境の変転が有ったと言うのに白の彼女はそれに見向きもしないにも関わらず何故か蝶にだけ神経をくすぐられ笑顔を零しているのは私の人としての彼女への空想を呼んだ、もしかすると、人の彼女は蝶が好きでよくそれらと戯れていたのかも知れない、そして私はそんな愛らしい彼女を見るのが、見る時間が、見ている空間がとても大事な物であったので記憶の一番揺ぎ無い鋼鉄の保管庫に仕舞い込んで居たのかも知れない、そして白の彼女はその私の記憶の保管庫の鍵を開けてそうした事実を知ったのでこうして蝶にだけ心を解き放っているのかも知れない、そんな風な空想を。解き放っている、と言う言葉は、解放されているという言葉は解放されていない状態が有ると出現する言葉だ、私は否が応にも人の彼女のこの天国と言う檻の中に囚われた状況を思わずには居られないで居た。彼女は今もこの居住区の何処かで平和な囚われの日々を送っているのだろう、いや、もしかしてその囚われの日々はもうすぐ終結するのかも知れない、こうして天使になった私と関わりを持っていたらしい人なのだから年齢的にも私と或る程度接近していた筈だ、あと一年もしない内、それどころかあと一ヶ月も、一週間もしない内に彼女も天使にさせられる為の人間浄化プログラムを経験する事になるのかも知れない。彼女をこんなみすぼらしい生き物に堕落させる事はどうしても避けたかったが、私に何が出来ると言うのだろう、彼女の頬に触れる事を許されないこの体で。
何も不能であると言う信念に囚われた私を尻目に白の彼女は進路を切り開いていく。まるで止まる事を知らない時の流れそのもののような歩みだ。彼女の動作は、私の、私と言う天使の成すべき行動の指針であるのかも知れない。私に残りの二日の生が保証されているとするならば、私は多分ずっとこの彼女の背中を追う事でそれを費やしていくのだろう。そして今、彼女と言う天使の指導者女神は、私のもう一人の女神、人の彼女、その居場所へと向かっている。両の彼女を同時に目にする事は無い、ふいにそんな嫌な感触を持った考えが脳裏を過った。何故なら指導者は、二人は要らないのだ。




