大樹
ウド、というのが僕のあだ名だった。
大樹という名前と、何の役にも立たない身長、愚鈍な人間。誰が言いはじめたのかは知らないけれど、気付けば僕のあだ名は、『ウドの大木』をもじったウドで定着していた。
クラス中、もしかしたら学校中が知っていたのかもしれないけれど、僕はいじめられっ子として有名だった。年下から、ウドと呼ばれたこともあるくらいだ。
ゾンビのウド、なんて呼ばれることも多かった。右頬のケロイドを指差しては気持ち悪いと言われたし、エアガンで撃たれたこともあった。大樹君の傷を馬鹿にした子は立ちなさい、と授業中に先生が言い出したこともあったっけ。あれは結局、僕のケロイドを再認識させたうえ、いじめに拍車をかけただけだったように思う。
両親は、「傷は、さっちゃんを守った印よ」なんて言っていたが、妹の五月は、自分のせいで僕が火傷をしたのだと酷く気にしていた。
正直言うと僕自身も、このケロイドを結構気にしていた。大人になったらお金をためて、整形手術をしようと考えていたくらいだ。
けれどきっと、顔に傷があろうが無かろうが、僕はいじめられていたと思う。
きっといじめの原因は傷ではなくて、僕という人間そのものが鬱陶しいものだったからだと思う。僕という存在は家族には認められても、世間からは否定されるのだ。
世間から否定され続ける。その現象には、理由なんて必要ないのかもしれない。いや、僕自身が、いじめという現象の『原因』で『理由』で『対象』なのだろう。よく分からないかもしれないけれど。
きっとこの世界は、そういうぼんやりとした理由で成り立っている。
クラスの人間からはいじめられ続けていたし、教師からは腫れもの扱いされた。「大樹君がいなければ、この学校は何の問題もないのにねえ」と、職員室で担任がぼやいているのを聞いたこともある。
僕という存在は世間にとって要らないものなのだと、ずっと思っていた。
けれど、美奈だけは違っていた。
彼女はいつも僕のことを気にかけてくれ、一緒に遊んでくれた。一緒と言っても二人きりではなく、五月と、美奈の妹である佳奈ちゃんも一緒だったが。
「あんまり僕と遊んでたら、美奈ちゃんもいじめられるよ」と忠告したことがある。そうしたら、美奈は言った。「その時はその時!」だと。
美奈は、『自分だけはいじめられない』なんて考えていないようだった。僕をいじめてた連中は、きっと思ってたはずなのに。『自分はいじめられない』って。
美奈は、僕のことを否定したりしなかった。むしろ褒めてくれたり、認めてくれたりした。大樹君は数学がすごく苦手だけど、漢字は得意だよね。手先が器用だよね。鬼ごっこよりかくれんぼの方が好きそうだね――。
それはとても些細なことで、けれどとても嬉しかった。
家族でなくとも、僕の事を認めてくれる人がいる。それだけで、救われた気がしたんだ。
告白したのは、どちらからだっただろう。二人きりで映画を観に行こう、と誘ってくれたのは美奈の方だった。今から十年前、中学二年生の冬だった。
有名なマンガが実写映画化されたものを観に行ったんだけど、驚くくらい面白くなかった。面白くなさすぎて、かえってネタになるくらいに。製作者の方達には本当に失礼だけれど、日本の漫画をどうしてアメリカで(アメリカの俳優で)実写化したのか、謎で仕方がなかった。
けれどその謎っぷりのおかげで、映画の後の食事では大いに盛り上がった。
あのキャストはないだろう、敵役が老け過ぎだろう、分かりやすすぎるワイヤーアクションには笑った……そんな内容だった。今思えば突っ込みどころが多すぎて、肝心の中身についてはあまり話さなかったように思う。
その帰り道、どちらからともなく手を繋いだ。きっと、それが合図だった。お互いに好きだって言った。それで充分だったんだ。
けれどそれから、美奈と僕の関係が発展することはなかった。中学三年になって受験モードになると勝手に距離ができたし、高校は離れ離れになってしまい、会う機会もなくなった。さすがにその頃にはもう、妹達を含めた四人で遊ぶこともなくなっていた。
再び美奈に出会ったのは、最初のデートから約十年後、二十五歳の春だった。就職活動に失敗した僕は、劣等感にまみれながらコンビニでバイトをしていて、そこに偶然買い物に来た美奈と出会った。話を聞くと、今は中小企業で事務職をやっているらしかった。
――大樹君は、彼女いない? 唐突にそんな質問を振られて、私はいない、と先に答えられた。じゃ、僕と付き合う? と冗談半分で言ってみたら、無言で頷かれた。
そうして、また付き合いはじめた。
それから三か月、本当に楽しい日々が続いた。
就活で百社以上面接を受け、そのすべてに落ちた時、僕はやっぱり要らない存在なのだと再認識していた。この世界に僕はいらないのだ、と。
だけど、美奈だけは変わらず、僕のことを必要としてくれているようだった。それが嬉しかった。
けれどそれも僕の思い過ごしで、自意識過剰でしかなかったのだけれど。
付き合って三か月近く経ったその日、僕達はラブホテルへ行った。彼女が嫌がっているようには見えなかった。ただ少しだけ、足取りが重かったような気がする。けれどそれは、これからすることへの恥じらいなのだろうと勝手に思い込んでいた。
入室して、二人でベッドに並んで、僕は彼女を押し倒した。押し倒した、という表現は正しくない気がする。あくまでも丁寧に、ベッドに倒したつもりだった。
けれど彼女は、急に泣き叫び始めた。
突然すぎて訳が分からなかった。混乱した。けれど冷静になって考えてみると、彼女は僕の方を見ていなかった気がする。天井を、ここではないどこかを見ていた。
美奈は繰り返し、「嫌だ、嫌だ」と呟いていた。その言葉を聞いた瞬間、僕の頭が弾けたんだ。
美奈も結局、僕の事を否定するんだ。
その時の僕に、殺意はあっただろうか。混乱していて覚えていない。
ただ、彼女が小さな声で呟いた「殺して」という言葉だけが、耳に響いた。
気付けば僕は、美奈の首を絞めていた。
殺意があったのかは分からない。けれど、相当な力を込めた気がする。両手を美奈の首に押しこむようにして、全体重をかけた。
結局僕なんて必要なかったんだ。本当は僕のことなんて、好きでも何でもなかったんだろう。きっと僕はあの時、そんな言葉を口にしていたはずだ。
何故か、美奈は抵抗しなかった。これも、抵抗しなかったように見えただけで、抵抗する力が無かったのかもしれない。今となってはもう、分からない。
僕が正気を取り戻した時にはもう、美奈は息をしていなかった。
あの時何故、美奈が「殺して」と言ったのか、僕には分からない。すべては僕の妄想で、美奈はそんなこと言っていなかったのかもしれない。
確かなのは、僕が美奈を殺したこと。それだけだ。
最近、美奈の姿が見えるようになった。悲しそうにこちらを見ている。今も僕の後ろで、僕の事をずっと見つめている。刑務所でも裁判所でもどこでも、美奈は僕の側にいて、こっちを見ているんだ。
分かってる。
僕ももうすぐ、そっちに行くから。